概要
今回からアーベル圏を学んでいく。そのための前提として一般の圏に関する知識を最低限勉強する。この記事では圏の定義と圏の例を示す。特に今後アーベル圏を議論する上で重要なアーベル群の圏と加群の圏を示す。
- はじめに 集合論の復習から
- 圏の定義
- 圏の例
- おわりに 次回予告
- 参考文献
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今日も無駄な話。
どうでもいい話。圏論においてさまざまな概念をどのように書けばいいのか、という話。
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再び更新するかもしれない。そのときはいま思っていることを相変わらず、変なことであるが、書く。
だが、今は疲れているし、外にいて、手がかじかんでいて集中できない。
だからとりあえず書く。
くだらないネタは少なくとも2つ思いついた。それを今日と明日書く。
次のような思考実験を想定してみよう。
AさんとBさんが数学の問題を解いている。例えば、次のような問題が与えられている。
式 を の形に変形して、グラフを書け。
AさんもBさんも共に「を移項すると、となりはとなる...」と移項の意味をちゃんと理解しているように思われる。 つまり、両者ともに問題を理解して答えを導くことができるのである。
ところが、ここで先生などが「移項って何ですか? どうして左辺にあるを右辺に移項するとになるのですか?」とつっこんでみる。すると、Aさんは「なぜなら式の両辺にをたせばいいからです。同様に式に対して両辺にを掛ければ、求めたい式が得られるからです。」と答えるが、対して、Bさんはその質問に対して「いやぁ、その、を移項すれば、になるから....」と答えになっていない答えを言ったとする。
つまり、Aさんは移項の意味をちゃんと理解しているが、Bさんは移項の意味を理解せず、ただなんとなく機械的に行なっていたに過ぎなかったということである*1。
このような状況を仮定したとき、当然ながら教育者としては「Aさんは移項をちゃんと理解しているが、Bさんは理解していない。Bさんのようなただ式変形が意味もわからずできることはよくないことだ。」と考えるだろう。私もそう思う。
ちゃんと理解した上で、計算を機械的に行うのならばそれはそれでよい。だが、意味もわからずただ闇雲に計算をすることはたとえ答えが正しくともよくないことだと思う。.....一応そう思うのだが、数学ができない人の立場になると、とりあえずテストの点が取れればいいから「移項するときプラスのときはマイナスにしてその逆も言えて、掛け算のときは割り算にすればいい」と暗記して、問題練習して解けるようになれば、それはそれでいいのかもしれない。....認めないが。
しばしば「数学は暗記教科である」と言われるが、この前そのような数学の内容を暗記させる教育について議論をしていた。私は微積の内容ならば多少の暗記はいいけれども、何でもかんでもは良くないという立場である。慣れて結果的に式を覚えてしまったならばそれでいいけれども、はじめから式を覚えることには反対の立場である。式の理由(証明)を理解すれば、たとえ式を忘れたとしても自ら式を導くことができるから、このような方法の方が思考の節約になるから、というのがその理由であった。
私のような考えは数学科などに行く人つまり数学の専門家にとっては常識的であるのだが、一般にも受け入れられるかといえば、そうとは限らない。上の思考実験のように「ちゃんと計算ができればその意味や理由がわからなくてもそれでいいじゃないか」という意見もありえる。重要で難しい問題である。
僕から以上
*1:仮にBさんが「逆演算だからで...」と答えたならば、「それじゃあ、どうしてプラス(和)に対しての逆演算がマイナス(差)であるのですか? プラスの逆演算が掛ける(積)であっても割り算(商)であってもいいじゃないですか? 」と聞き返せば良い。
今日もサボる。
書くことは何もない。
中野剛志の『日本思想史新論 プラグマティズムからナショナリズムへ』の第五章「福沢諭吉の尊王攘夷」を読んだので、少し書く。
ちくま新書 946, 2012, 第一刷発行
日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)
第五章しか読んでいない。そしてあまり真面目に読んでいない。ここでの中野の主張は「福沢の実学というプラグマティズムもまた、水戸学と同様に、国際問題に応用されることでナショナリズムとして現れたこと」(p.185)である。
定説では、福沢は反尊王攘夷論であり、会沢正志斎などの後継者として考えられていない。定説を反駁するために子安宣邦の『日本ナショナリズムの解読』を検証・批判している。そして中野は「福沢は、子安が賛美するような「国体論の文明論的な脱構築」などは、まったくやっていない。子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎない」(p.200)と結論づけている。
私の印象としては、彼の『経済と国民』のときもそう思ったのだが、「この人はたくさんの本を読んでいるなー」と感心させられる。それは次のエピソードである。
子安の論点の一つに次のようなものがある。明治初期から40年代まで日本の国体の絶対性を修飾する言葉として「金甌無欠(きんおうむけつ)」が使われていた。対して福沢はそのような絶対的な国体観を批判し相対化させたという。それに対して、中野は「んなこと言ってるけど、福沢も普通に「金甌無欠」って言葉使ってるしそれはどう説明するんだい?」と福沢の文章を引用して反論している(p.190)。
「よく読んでいるなー。福沢の全集読んだのかなー。すごいなー」と感心した。以下は引っかかったところを箇条書き。
だいたいこんなものである。この章の最後の節に「ヴィジョンの力」というのがある(pp.218-221)。これは短い節であるが、これはのちの『経済と国民』の「リストのヴィジョンの力」とつながる箇所でもある.......はず。
僕から以上
今日は何もない。疲れた。
例えば、プロ野球選手と野球評論家を考えてみよう。野球の実績のない評論家の話を我々は聞くのだろうか? 彼の言葉に説得力を持つのだろうか? 野球素人の野球評論を聞くのだろうか? 多分、もたないだろう。正当な野球評論家の必要条件は、その人が元プロ野球選手で活躍したということであろう。
ただ、だからと言って、活躍された元プロ野球選手ならば、よい野球評論家となれるのかといったら、それも誤りであるだろう。
これは何を表しているのか。ある人が野球というゲームのプレイヤーとして優秀であることと、そのゲームのことを知っていることとは違うということである。
あるゲームのプレイヤーとして活躍することはゲームそのものに関心があるとは限らない。近視眼的になることもある。対してプレイヤーとしてではなくある種、俯瞰的な視点で考える人(評論家)はゲームそのものに関心がある。両方できれば越したことはないが、そのような卓越した人は数少ない。どちらかしかできないとすればどちらを選べばいいのだろうか。
さて、私はどちらに関心があるのか。
僕から以上
サボり記事第九弾
予約投稿第八弾 2/6, 23:59予定
ロシアは寒いから虫なんかいないと思われるかと思いますがハエとか普通にいます。ウラジオストックなどの南のほうだとGもいるとのことですが、少なくともペテルブルクにはいないようです。ただ虫対策はしたほうがいいです。それを写真だけですが、紹介します。写真のようなものを現地で買ってみてください。
ハエトリ。
ロシア語を勉強してから追記を書きますが、これらのものをロシア語でなんていうか聞いてみます。詳細は次号を待て!
僕から以上
サボり記事第八弾
予約投稿第七弾 予約2/5, 23:59
今日はロシア語の代名詞(英語で言えば、I, my, me, mineやyou, your, you, yoursなど)をまとめます。
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