疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

読書感想#10: 水野和夫著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』

今回は水野和夫の本を書評します。

 

 

閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済 (集英社新書)

閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済 (集英社新書)

 

 書評は適当にする。とりあえずアップする。

 

水野の著作はこれまで有名な『資本主義の終焉と歴史の危機』を少し読んだ程度しかない。まともに読んだのが本書である。

 

参考文献をしっかり書いていてよかったと思う。水野の博識はすごいし、もし水野みたいになりたいと思うならば、参考文献から興味のある本を選んでそれを読んだらいいと思う。

 

本書の内容は忘れた。だが、一つ言えることは水野の経済的・世界史的な立場は、独特である。「中世に戻れ」「日本はEUに加盟しろ」と主張するのである。

 

現在の主流派経済学に対するアンチというものがいる。水野もアンチ主流派であることに間違いはないのだが、アンチはアンチでも特殊である。別のアンチ(例えば中野剛志)と比較することは楽しい。水野に言わせれば「他のアンチはぬるい。今だに近代のパラダイムで考えている。中世に戻らなければ意味がない!」となるので、比較するとおもしろい。

 

経済史を紐解くと、これまでのような超低金利の時代は近代誕生の直前であった。だから、革命が起きるんだといった歴史主義を展開している。評者は歴史主義には反対であるため水野の主張の根拠を信じることはできない。物語としてはおもしろいかもしれないがそれ以上のものではないと思っている。

 

他に本書でガリレオニュートンによる近代科学革命の社会的影響について書かれていたことである。それは評者はなんとなく覚えている。あとは、超低金利はドイツと日本だけであった。だが、日本は選択を誤った。他方ドイツは正しかった。したがって今に至る。超低金利は時代の最先端であったので、日本もトップになる可能性があった。だが、.......と、ドイツと日本を比較していた。そういうのもあって「日本はEUに加盟しろ」と主張していたような気がする。「日本もアメリカも中国も帝国としてダメだ。まともなのはEUだけだ」と言っていたような気がする。あんまり覚えてないや。

 

まぁ、でもそんなものかな。歴史主義者の考え方がわかってよかったと思う。博学でお話としては面白いと思う。だが、「じゃあどうすればいいの?」という未来の話や実践の話となると途端に「中世に戻れ」だの「日本はEUに加盟しろ」だの非現実的なことしか言わない。と言っても、水野はあらゆる政策は「近代的であり全てダメだ」と否定しているから「もっと現実的のある政策を言ってくださいよ」と言っても無駄なのだけれども。

 

気が乗ればちゃんとした書評を書く予定である。

 

 

僕から以上

読書感想#9: 萱野稔人著『死刑 その哲学的考察』

 

 

今日は萱野先生の新書を書評します。

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

 

以下にはほとんどなにも書かれていない。

実質、サボり記事。連続寄稿の水増し

 

もともと萱野の著作にはしばしば「死刑」に関する話題が出ていた。ただ、それは暴力について考えるときの一つの例としてであった。さらに、ラジオとか他のメディアでもこれからは死刑についての本をまとめたいとおっしゃっていた。それが今回、実際に本となった。

 

内容は哲学的に死刑を考えるというものである。結論ありきではなく、探求していってその結果、死刑の賛否を主張するということである。

 

まず、萱野は「死刑は日本の文化・伝統だから、外国の価値観から批判される覚えはない」と反論する人たちを、批判する。というよりも、「ラーメンをずずっとすすることは文化的な問題だから別にいいけれども、それじゃあ、死刑も同様に文化的な問題なのか?」と提起する。そして、そのような文化的な根拠づけではなく、普遍的な根拠づけを探そうと主張する。もっとも、その普遍的な理由づけが、ただちに死刑反対という結論にはならない。「死刑制度廃止は世界的な潮流だから、死刑反対」というのも、一種の文化的な根拠づけであり死刑賛成者の論理と同じだということである。

萱野は死刑の賛成にしろ反対にしろ、その普遍的な根拠を探求しようと主張して議論ははじまる。

 

さらに本書の優れたところは「哲学的考察」と銘打っているにも関わらず、本書の後半になるまで哲学者の名前やその議論が一切出ないことである。常に具体的な事例を参照しながら、愚直に議論を展開しているのである。死刑というセンシティブな問題であるから哲学者の名前を借りた抽象理論によって煙に巻き、自らの主張を曖昧にする論者も多々いる。だが、萱野はそのようなことはしない。具体的に考察をしながら、しかし結論ありきの議論でもないということである。喩えれば、スパナで地道に土を掘りながら真実という宝石を見つけるといった感じである。

 

死刑賛成にせよ反対にせよすべての人に共通の原理があることを萱野は主張する。それは、罪と罰の天秤である。罪を犯した分の罰を加えさせることが人間の本質であるとのことである。したがって、「ある罪に対して罰を加えることはよくない」とのような道徳的な批判は意味がない。実際、そのようなことを唱えている論者ですら報復感情は常に存在する。

問題はある罪に対してどのような罰が釣り合うのかという平衡感覚が人によって異なるということである。それによって死刑の賛否が分かれる。死刑賛成論者にはある罪に対しては死刑というものが釣り合うと考えるし、死刑反対論者はある罪に対して死刑は釣り合っていない、または死刑以外の別の罰でも釣り合うことが可能だと考えていて、いずれの論者にせよそのような天秤の平衡こそが正義の実現だと考えているのである。罪と罰の天秤は太古の昔からあり、有名な絵として存在している。

 

さて、萱野は具体的な事件を参照にしながら、いくつかことを指摘する。というか正確には3つかな。

一つ目の指摘は次である。一見死刑制度は殺人の抑止力として機能しているように思われるが、世の中には「死刑になりたい」と思って凶悪殺人をしてしまう者がいる。そのような人にとってはむしろ死刑制度は殺人を引き起こすインセンティブとなるのではないかということである。

それに従い、二つ目は、そのような人にとってはむしろ死刑は望ましいことであり、一生牢屋にぶち込む終身刑の方が重い罰ではないかということである。つまり、仮釈放なしの終身刑の導入の主張である。我々にとって重要なことは加害者に最も苦しい思いをさせることである。そうならば、加害者の罪は死刑以外の罰でも釣り合うことができる。

最後の三つ目は、冤罪の可能性である。問題は冤罪が単なるミスなのかそれとも国家権力の構造的な問題から生じるものなのかということである。萱野は彼の専門である国家論・暴力論によって前者を否定して後者を主張する。すると、たとえ取り調べの可視化が実現して制度がよくなったとしても、常に冤罪が起こりうるからそれを何としてでも避けなければならないということである。

 

以上の議論から可能性として(1) 死刑制度の存続と終身刑の導入 (2) 死刑制度の廃止と終身刑の導入 (3) 死刑制度の存続のみ(死刑制度の存続するが終身刑は導入しない) (4) 死刑制度の廃止のみ、の4つが考えられる。萱野のこれまでの主張に従えばそれは(1)と(2)となる。(4)は被害者をはじめとする我々の懲罰感情に応えていないからダメだとのことである。だが、萱野は(1)を否定する。すなわち、終身刑を導入する代わりに死刑制度は廃止されなければならないと主張する。というのも、死刑と終身刑の2つがあればそれらは最高刑とはならず、被告人は自分の望んでいる刑を求めるために嘘を言うかもしれないからだとのことである。つまり、もしある被告人が死刑を望んでいるのならば、裁判のときに終身刑が嫌だと嘘をつき、結果として被告は望みの死刑を宣告されるということがあり得るからである。それは加害者を最も苦しめさせることに反する。

 

萱野の結論は死刑制度の廃止とそれに伴う終身刑の導入である。

 

 

以上が、本書の書評である(だいぶ前に読んで、いま思い出して書いているにも関わらず、明確に書ける。ということはそれだけ萱野の議論がクリアで論理的だからだと思う)。議論展開はおもしろかったし説得力がある。正直、法律を全く知らない評者にとって「終身刑」と「無期懲役」の違いという基本的なことが知れたし、死刑議論の資料として優れていると思う。ただ、まだ引っかかるところが二つある。一つはやはり冤罪は単なるミスであるのではないかということである。または、制度を改善すればなくなるのではないかということである。そのようにどうしても思ってしまう。もう一つは死刑と終身刑の両立は可能ではないかということである。その辺の議論は今ひとつ腑に落ちなかった。

 

 

だが、本書は死刑という具体的な問題を哲学することによって「萱野哲学」を見せている。萱野哲学の入門書としても、死刑についての本についてもそして一冊の哲学書としても、本書を推薦する。

 

改定予定。とりあえずアップする。

追記 2018/07/29

1) 萱野は「死刑を望む人にとっては死刑は殺人の動機となる」と主張している。だから代わりに終身刑の導入を主張する。だがこれは逆に「終身刑を望む人は終身刑になりたいがために同様に殺人を犯すのではないか」という疑問が生じる。つまり、死刑が殺人のインセンティブになると萱野が主張するのと同じように、終身刑も殺人のインセンティブになるのではないかということである。

もしも、「死刑を廃止して終身刑を導入せよ」と主張するためには、(1) 死刑が殺人の動機になることだけでなく、(2) 終身刑は殺人の動機にならない(または、なりにくい)ということを示さなければならない。萱野は(1)は論じているが、(2)は論じていない。

正確にいうと、萱野は(2)も示唆している。つまり「終身刑は殺人の動機にならない」ということを直接には言及していないが、ほのめかしている。というのも、フランスとイタリアの終身刑者の「終身刑になるなら死刑になった方がマシ」という告白書に言及しているからである(どこの箇所に書かれているかは忘れたが、後ろの方だった気がする)。これは一生独房の中にいたいと望む人は少ないということも示唆しているだろう。

だが、いずれにせよ「終身刑になりたいがために殺人を犯す」というのは十分考えられる。例えば、一生独房にいるならば、生活は保障されている。だから、貧乏であり今後成長も見込めないと絶望した人がいるならば、終身刑のための殺人も十分考えられる。

評者はこの疑問から萱野の「死刑と終身刑の両立は不可であり、終身刑のみが良い」とする主張に納得することができない。この辺をちゃんと議論してくれたら萱野の主張により説得力が増すと思う。 

 

2) 死刑賛成論者がしばしばEUに対して指摘することだが、「テロリストを裁判にかけず公然と射殺することの方が裁判にかけて死刑を下すことより、よっぽど非人道的ではないか」ということである。テロリストの射殺については萱野は本書では何も指摘していなかったと思う(記憶違いでなければ)。

もちろん、「死刑制度の有無」と「テロリストの現場での射殺の有無」は関係があるかもしれないし、ないかもしれない。実際、アメリカは死刑制度があるが、普通にバンバン、テロリストを現場で射殺している。だが、「コイツを生かして逮捕されたら、死刑になることはないから、この場で殺そう、殺してもいい」と思って、報復感情により射殺することは十分に考えられる。つまり、「死刑制度がないことが射殺のインセンティブや射殺の正当化になるのではないか」という疑問である。

この辺りを議論してくれたら、尚のことよかった。

 

もう少し、補足はあったけれども、今のところはこのぐらいで。

 

 

追記 2019/03/20

いくつかの引用文

(1) 本書の目的とスタンス: 抽象論で煙に巻かない。

はじめに pp.11-16

本書の目的は、その死刑を哲学的に考察することにある。
   とはいえ、私は本書で抽象的な議論を振りかざして、読者を煙に巻くようなことをするつもりはない。
   死刑の問題は、国内的にも国際的にも、賛成か反対かをめぐって鋭く意見が対立している問題だ。その問題を論じる以上は、たとえ哲学の本であっても、死刑に賛成なのか反対なのか、死刑を存置すべきなのか廃止すべきなのか、という問いに答えないわけにはいかない。
   哲学はしばしば抽象的な議論を振りかざすことで、賛否が対立している問題に対してみずからの立場をあいまいにすることがある。逆の立場から批判されることを恐れるからだ。
   死刑の問題においてそうした逃げは許されない。これが本書のスタンスである。

p.13

 

(2) 死刑賛成にしろ反対にしろ普遍的に死刑を考える。

第1章: 死刑は日本の文化だとどこまでいえるか? pp.17-40

Section: 普遍主義的に考えることは、答えを自動的に決定することではない pp.33-34

というのも、ここまで導きだされてきたのはあくまでも、「死刑を文化の問題としてではなく普遍的な問題として考えなくてはならない」ということまでだからだ。そこから自動的に死刑を否定することが普遍的に正しいということにはならないのである。

p.33

 

Section: 文化を論拠とすることが日本の外交力を弱めてしまう pp.34-38

よく論争(や口げんか)でも相手に論詰されて論破できなくなると、「それはあなたの意見にすぎない」「考えかたは人それぞれ」というかたちで相対主義に逃げる人がいる。死刑の問題で欧米から非難されて「文化」を論拠としてもちだすことは、これとまったく変わらない。
        徹底的に普遍主義の次元にとどまって議論する意志がなければ、他者を説得することなどできないのだ。

p.35

 

(3) 死を望んでいる人に対して、死刑制度は意味を持つのか。

第2章: 死刑の限界をめぐって pp.41-114

Section 1: 死刑になるために実行される凶悪犯罪 pp.42-64

Subsection: 死んだほうが楽だと思っている人間にとって、死刑の意味とは何か? pp.47-48

宅間には反省の気持ちも罪をつぐなおうという意志もなかった。どうせ死刑になるなら、いつまでも生きていたってしょうがない、死刑執行が引き伸ばされるよりも早く死んだほうが楽だ。こうした気持ちによって宅間は早期の死刑執行を望んだのである。

p.48

 

ここに、この事件が私たちにつきつけてくる究極的な問いがある。すなわち、死んだほうが楽だと思っている人間にとって、死刑はどこまで刑罰としての意味をもつのだろうか。

p.48

 

Subsection: 死刑をめぐる究極的な問い pp.57-58

すなわち、死刑になりたいという人間に対しては、死刑は犯罪の抑止になるどころか、犯罪を誘発する要因になってしまうのではないか、という問いだ。

p.57

 

死刑は犯罪を抑止することもあるかもしれないが、同時に犯罪を誘発することもある。しかもその場合、より凶悪な犯罪を誘発しかねない。死刑はそのとき刑罰としてどこまで力をもつのだろうか。

pp.57-58

 

(4) 死刑を望む人間という極端な例を持ち出して死刑制度を議論しているという反論に対する弁明: 極端にこそ本質が現れる。

Subsection: 極端な事例だからこそ問題の本質があらわれる pp.60-62

とはいえ、ここでさらに次のような疑問がでてくるかもしれない。たとえ死刑が悪用されることがあるとしても、池田小学校事件はあまりに極端な事例であり、その意味で例外とするべき事件なのではないか。
   たしかに池田小学校事件は極端な事例ではある。極限的な事例であるといってもいいかもしれない。しかし、極端な事例だからこそ死刑がかかえる問題がはっきりと示されているともいえるのだ。問題の本質はもっとも極端な事象のなかにこそあらわれる。
   さらにいえば、池田小学校事件はけっして例外的な事件ではない。死刑になるために凶悪な犯罪におよんだという事件はけっして少なくないのである。

p.60

 

Memo:
金川真大(かながわまさひろ)の土浦連続殺傷事件
08年鹿児島での19歳の自衛官がタクシー運転手の首をナイフで切りつけて殺害した事件。
12年大阪ミナミでの男女二人の殺害事件の磯飛京三(いそひ)
筆者の身近な経験04年山梨

 

(5) 死刑になるための犯罪は少なくない。

Subsection: けっして少なくない、死刑になるための凶悪犯罪 pp.62-64

死刑になりたかったから他人を殺すという事件はけっしてめずらしくないのである。そうである以上、池田小学校事件はたとえ極端な事例ではあるとしても、それを例外としてあつかうことはできないのだ。

p.64



Section 2: 終身刑と死刑 pp.64-85

(6) 死刑よりも犯罪者により苦痛となる刑罰がある。

Subsection: “簡単に死ねると思ったら大間違いだ”という刑罰 pp.70-72

そうである以上、「宅間」(のような犯罪者)を処罰するためには、むしろ死刑よりも、死ぬまで牢屋からでられない刑罰、すなわち仮釈放のない終身刑のような刑罰のほうがよいのではないか、と思えてくる。

p.70

 

(続き)

仮釈放のない終身刑なら、宅間は生きているあいだずっと、それも犯行当時37歳という宅間の年齢を考えるなら長きにわたって、刑罰を受けつづけることになる。刑罰は本人 (ここまでp.70) (ここからp.71)が避けたいと思うものでなくては意味がない。"そう簡単に死ねると思ったら大間違いだ"という刑罰こそ、宅間のような犯罪者に対しては意味があるのではないか。

pp.70-71

 

(続き)

ただし終身刑には大きな問題がある。宅間のような犯罪者に終身刑を科すことができるようにするためには、死刑を廃止しなくてはならない、という問題だ。
   なぜ死刑を廃止しなくてはならないのかといえば、死刑が存置されているかぎり死刑が極刑だということにならざるをえず、あれほどの凶悪な犯罪をおこなった人間を処罰するためにはその極刑を適用するほかないからである。宅間のような犯罪者に終身刑を科すことができるようにするためには、終身刑を極刑にするしかない。
   読者の中には、死刑と終身刑をともに極刑として位置づければいいのではないか、と考える人もいるかもしれない。
   しかし、たとえ両者をともに極刑として位置づけたとしても、それら極刑のうちどちらを適用するのかを、被告(犯罪者)がどちらの刑罰を避けたいと思っているのかによって決めるわけにはいかない。

p.71

 

(続き)

なぜなら、死刑を逃れたい被告があえて死刑を望むような行動をくりかえし、死刑を回避しようとする事態も生じかねないからだ。あるいは逆に、終身刑だけは逃れたい宅間のような被告があえて終身刑を望むような言動をくりかえし、終身刑を回避しようとする事(ここまでp.71) (ここからp.72)態も生じうる。
    たとえ終身刑を導入したとしても、死刑を廃止しないかぎり終身刑が極刑ということにはならず、宅間のような犯罪者に終身刑を科すことはできないのである。終身刑と死刑はそう簡単には両立しえないのだ。

pp.71-72

 

(7) 被害者感情を否定することは不可能で無意味。応報感情はポジティブにはやさしくしてくれた人にはやさしくしたいという感情でもあるし、ネガティブに働けば加害者の応報感情になる。被害者の応報感情に即した刑罰を考えるべき。死刑廃止論者は応報感情も認めるような代替案を考えるべきだ。 

Subsection: 被害者遺族の応報感情 pp.74-78

しかし、私は被害者遺族の応報感情を否定することは無意味だと思う。(ここまでp.76) (ここからp.77)なぜなら応報感情そのものを否定することは実際には不可能だからである。
   応報感情は、それが死刑を積極的に肯定するところまでいくかどうかは別にして、道徳をなりたたせている根源的な感情の一つである。

pp.76-77

 

それ(引用者注: 応報感情)を否定することは、道徳のない世界を想定するようなものだ。それは不可能であり、また無意味で(ここまでp.77) (ここからp.78)ある。

pp.77-78

 

この後、何ヶ所か付箋を貼ったが、書き写すのを諦めた。ここまでしか書き写せなかった。

 

 

追記 2019/11/06

萱野は「死刑を望むために殺人を犯す犯罪者の存在」を指摘して、死刑制度を批判して、終身刑制度を支持する。

だが、死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は、死刑を望んでいるのではなく、「死にたい」ことを望んでいるのではないか。このような疑問である。

「死にたい」ことを望んでいる人は、死刑制度があくまでも確実に死ねる手段であるから、それを利用するために殺人を犯すのではないか。

 

社会に「正当に死ねる制度」があれば、わざわざ死刑のための犯罪を犯すこともなく、その制度を利用して死ぬことができる。その制度こそが安楽死である。

 

したがって、萱野の議論は不十分である。つまり、死刑制度を廃止して、終身刑を支持するためには、(1) 死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は単純に死ぬことを望んでいるのではなく、死刑を望んでいることと、(2) 安楽死制度の導入では不十分であることを論証しなければならない。

 

死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は実は「死ぬこと」を望んでいるのではなく、「人を殺すこと」を望んでいるのかもしれない。もしそうならば安楽死制度を導入しても、そのような犯罪者を減らすことはできないだろう。「殺すこと」自体を望んでいて、「死ぬこと」自体を望んでいないからである。 

一体、死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は「死ぬこと」を望んでいるのか、それとも「人を殺すこと」を望んでいるのか。

 

いつか萱野には安楽死制度を議論してほしいと思う。

 

 

 

僕から以上

 

サボり記事: 飲み会では何を話すべきか。

サボり記事。

なんか思っていることを書く(約1700文字。少し長いかも)。

 

現在私は家庭教師のバイトをしている。その生徒さんのご両親は私に対して大変好意的であり、しばしばレッスン終わりに食事を誘ってくださるのである。このとき、ご両親とその生徒さんと私でご飯を食べるのである。

 

ある日、レッスン後に食事の予定が入っていた。だがその日、生徒さんは勉強の調子が悪かった。かなりミスをしたのだ。怒鳴ることはしなかったが、語気を荒げたかもしれない。そのあとに、四人で食事をしなければならなかったのだ。

 

食事の際、当然ながら私は、レッスンのことに関しては何も言わなかった。愚痴を言ったり、そこで説教するのはその生徒さんにとって、全く良くないことであるからである。ご飯も不味くなるからである。もしかしたら、説教をしたら自分の気持ちは晴れたかもしれないが、他の人からしてみたら最悪である。だから、食事の場では生徒さんの趣味の話だったり、勉強とは全く関係のない話をした。

 

さて、ここからが本題である。そのとき私は「もし自分が上の立場になって後輩と飲みに行くとき、どのような行動をとるべきか」と考えた。まだ、下っ端にもなっていないのにである。

 

よく上司が飲み会の席で部下を説教するという話を聞く。それは最悪なのだけれども、なんとなく上司の気持ちがわかった気がする。というのも、お酒の力も借りてこれまで溜めてきた鬱憤を解消したいからである。でも、部下からしたら最悪であることに変わりはない。だから、私はそのような飲み会の席ではこの生徒さんとの食事のように、一切仕事の話はしないと決めた。飲むときは楽しく飲もうということである。

 

もっとも、部下の方から仕事に関する相談があったら、それに乗るだろう。もしかしたらそのときに説教する羽目になるかもしれない。さらに、一般論では語りにくいが、その部下が自分とどのような関係なのかということによって、振る舞い方も違ってくるだろう。たとえば、その部下は自分の直属でなかったとするならば、それほど説教じみたことはしないだろう。ある種の励ましに徹するだろう(自分とはあんまり関係がないから)。だが、直属の部下ならば自分の成績にも影響を受けるので、かなり厳しめな態度で接するだろう。

 

いずれにしても基本的にはのみの席では仕事の話をしない。そう決めている。だが、ここで問題が生じる。では、一体、何を話せばいいのか?

 

仕事仲間ではたとえその人が嫌いであったとしても仕事に関しての相談やアドバイスを受けることができる。仕事という共通の目的や話題があるから、仕事仲間と仕事について話すことはできる。だが、それ以外の話題で仕事仲間と何を話せばいいのか? 話題が思いつかない。

 

プライベートな話を聞くのも、なんとも言えない。どこまで聞いていいのやら.......。その辺のことは昨今厳しくなっているからである。たまたま趣味が同じであればいいのだが、そういう人物がいるとも限らない。

 

話題がないからつい説教をしてしまうというのも、なんとなくわかる気がする。それに嫌いな上司の悪口でその場が盛り上がるというのも、なんとなくわかる気がする。どちらも最悪の飲み会なのだけれども。

 

結局、話す内容がないのである。そんなつまらない飲み会ならばそもそも参加なんかしなけりゃいいのにとも思うけども。何を話せばいいのかなと考えあぐねているという、そういうお話である。おしまい

 

補足

もしかしたら年上の人であれば、つまり上司であれば、私は結構、話を聞くことができると思う。というのも、その人の昔話を聞けばいいからである。「バブルの頃はどんな感じでした?」「先輩が就職した時って、いわゆる就職氷河期のときだったと思うんですけれども、大変でしたか?」と言った具合にである。彼らはその時代を生きた証人であるので、そのような話を聞くことは別に苦ではない。そのような話それ自体は興味がある。もしかしたらその流れで上司の武勇伝を聞かされる羽目になるかもしれなが......それはそれでしょうがない。

 

ただ、年下の人には、つまり後輩には、一体何を聞けばいいのか、さっぱりわからない。時代のことを聞いたとしても、それはそれでジェネレーションギャップにショックを受けるだけだろうし、正直、若者の流行とか興味ないからである。さて、どうしたものか......。

 

僕から以上

サボり記事: ロシア人の名前についての小話

今日もサボる。

でも、適当に書くのではなく、適当な話を書く。

 

私がロシアに留学していたとき、担当の先生の名前がアンドレイ(Андрей)というものであった。

ある日、ロシア語を勉強していたら、アンドリューシャ(Андрюша)という名前が出てきた。それはアンドレイの別名とのことであったので、先生に聞いてみた。「先生、Андрюшаって何ですか?」

 

聞くところによると、アンドリューシャとは家族や恋人などの親しい人がアンドレイという名前の人に言うときに使う言葉だそうだ。例えば、アンドレイの母親がアンドレイを呼ぶときは、「アンドリューシャ」というそうだ。

 

欧米では名前の省略というものがある。たとえば、ウィリアム(William)はビル(Bill)である。ロシアも同様な文化があるということだ。

 

省略の名称は、ニュートラルのものもあるとのことである。つまり、同じ名前でもいくつかの省略名が存在するとのことである。

例えば、エカチェリーナ(Екателина)という女性の名前には、2つの別名がある。一つは、カーチャ(Катя)であり、もう一つはカチューシャ(Катюша)である。

カーチャの方はニュートラルなので基本的には誰が言ってもいい。だが、カチューシャは親しい人たちしか言わない。

 

私はそうなんだと納得して、このように質問した。

 

私:    なるほど。それはおもしろいですね。それでは、あなたの友達にアンドレイという方がいますけれども、彼もあなたのことをアンドリューシャというのですか?

 

アンドレイ:   いや、アンドリューシャとは言わないよ。そうじゃなくて男友達が言うときはアンドリューハ(Андрюха)だよ。

 

私: ふぁは???

 

おもしろいというか、めんどくさい文化である。ロシア文学とかを読んでいたらそういう名称の変化に遭遇するらしい。 

 

 

僕から以上

読書感想#2: 齋藤孝著『数学力は国語力』『地アタマを鍛える知的勉強法』 No.2

齋藤孝の著書の書評。

今回は『地アタマを鍛える知的勉強法』です。引用ページはiBook電子書籍であるのでご了承ください。まぁ、アイディア集としては参考になる方もいるかもしれませんね。

前回の記事はこちら

  •  本書の感想
    • 批判
  • 各章のまとめ 
    • 「序章 勉強しているのに、なぜ身につかないのか?」pp.15-32のまとめ
    • 「第一章 大切なことを瞬時につかむ勉強法 pp.33-70」のまとめ
    • 第二章 地アタマを鍛え身体に染み込む勉強法pp.71-137
    • 第三章 人格を磨く勉強法pp.138-158
    • 第四章 実力がワンランクアップするヒント集pp.159-180
    • 終章 直感力で本質をわしづかみpp.181-189
  • おわりに

 

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読書感想#2: 齋藤孝著『数学力は国語力』『地アタマを鍛える知的勉強法』No.1

こんにちは。

 

今回は書評第2弾ということで、コメンテーターでおなじみの齋藤孝先生の本を書こうと思います。

 最初は『数学力は国語力』の書評を書きます。No.1

電子書籍 iBook

数学力は国語力 (集英社文庫)

数学力は国語力 (集英社文庫)

 

 

 次の記事では『地アタマを鍛える知的勉強法』を書きます。No.2

電子書籍 iBook

地アタマを鍛える知的勉強法 (講談社現代新書)

地アタマを鍛える知的勉強法 (講談社現代新書)

 

 

齋藤先生の著書はこれまでにこれ以外に何冊か読みました。記憶が間違っていなければ、少なくとも次の4つです。『古典力』『考え方の教室』『アイディアの神が降りてくる「3」の思考法』『なぜ日本人は学ばなくなったのか

 

古典力 (岩波新書)

古典力 (岩波新書)

 

 

考え方の教室 (岩波新書)

考え方の教室 (岩波新書)

 

 

 

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)

 

 

 

他にも図書館で文系のための理系読書術を読みましたし、先生が現代語訳された福澤諭吉文明論之概略も途中までですが読みました。

 

 

齋藤先生は流行語にもなった『声に出して読みたい日本語』や三色ボールペン活用法などで有名です。先生は小学生からビジネスマン、教職を目指す学生、お年を召した方まで全年代の人たちに向けて精力的に(精力的すぎ!)に活動なさっています。 その活動は執筆活動にとどまらず、講演やテレビでのコメンテータなどさまざまです。執筆のテーマも勉強法や発想法から歴史や哲学、さらには井上陽水!までジャンルを問いません。こんな執筆活動を多忙の中、月一ペースで出版されているのですから、このかたはとんでもない方です。

 

.........とこんな感じで齋藤先生を持ち上げましたが、実は私はこの方をそれほど評価していません。典型的な「広く人から周知されているが、たいしたことをしていない無能な教授」と考えているからです*1

 

齋藤先生は優しそうな風貌と声色で市井を見ていると思われるかもしれませんが、こいつは化けの皮を被った超エリート主義者です。所詮 自分が古典と思うものしか認めない「超エリート主義の教養老害」であると『古典力』を読んだときわかりました。

「退屈力」「上昇力」「質問力」「コメント力」「くすぶる力」「悩み力」「文脈力」「前向き力」「成熟力」「偏愛力」「雑談力」......

 

  •  はじめに 
    •  経緯
  • 本書のまとめ
  • 各章のまとめ
    • オリエンテーション 目からうろこ/数学的モードチェンジのすすめpp.11-60
    • 第一講: 数学的な問題整理/空白を埋める新発想の産婆術pp.61-105
    • 第二講: 関数的な構想力/見通すために欠かせない二つの「f」pp.106-130
    • 第三講: 試験を離れた数学的発想/直観、ひらめき、別解、補助線pp.131-174
    • 第四講: 数学的な発想の展開/国語の力と結びつけるためにpp.175-220
    • 補講: 数学は哲学であるpp.221-231
    • あとがきpp.232-237
    • ある節について
      • 座標についてSection ベクトルと座標軸pp.123-127
      • 関数についてSection 世の中を関数で見る智恵pp.121-123

*1:ある人が有名であるのと、その人が優秀なのかは別なのですね。読書をする一つの理由はこれです。つまり、有名な教授やコメンテータの本を読んで、その人がものごとをどのように考えているか知るために本を読むのです。有名な先生やコメンテータだったとしても、たいしたことない人たちが多いことがわかります。有名でかつ優秀な方はよほどいませんね。下手したら有名と優秀は負の相関関係があるのかもしれません。

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何も書くことはない。

何も書くことはない。

昨日、iPhoneに搭載されているNight Shiftという機能を使った。夜間になったらディスプレイが温かみのある光になるのだ。

それを使うと眠くなる。けど、いいかもしれない。気に入った。

Macでも、iPadでも同様に設定ができる。