疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

コイクワライザーについて: なぜコイクワライザーが商集合の一般化なのか?

概要
圏論においてコイクワライザー(余等化子)が定義される。コイクワライザーは商集合の一般化と言われるが、その理由は、イクワライザーの場合と比べて、明確に記述されていない。今回は、アーベル群や {R\textrm{-}} 加群やベクトル空間つまりアーベル圏に関して、コイクワライザーが剰余群の一般化であることを示す。そしてイメージ {\textrm{Im}(f)} やコイメージ {\textrm{Coim}(f)}圏論的に定義する。

  • 序論
  • アーベル群の基礎知識
  • 剰余群
    • 商集合
    • アーベル群の剰余群
    • 特別な剰余群: コカーネル・コイメージ
  • 普遍性への飛翔
  • 結論
  • 追記(2019/02/13)
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アーベル圏・完全圏・三角圏・導来圏 第1回

今回はシリーズ第1回目である。プレ加法圏について議論する。圏の定義などを既知とする。
プレ加法圏は加法圏よりも広い概念である。そこではゼロ対象やゼロ射やバイプロダクト(直和)が定義される。

  • ゼロ対象
  • プレ加法圏
  • 加法圏
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圏論入門 第1回

これから圏論の概括をおこなう。
すなわち、

  1. 圏, 関手, 自然変換
  2. 極限・余極限
  3. 随伴関手
  4. 圏同値
  5. モナド・T代数
  6. カン拡張

を勉強していく。具体例は少ないが丁寧に書いていくつもりである。
今日は圏の定義とその例をおこなう。

  • 定義
  • 圏の例 1
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アーベル圏・三角圏・導来圏についてのメモ: 何をどのようにして学ぶのか

しばらくアーベル圏について勉強していたのでそれをまとめる。
ただし、まだ三角圏・導来圏は学んでいないのでそれらは知らない。

まずこれらすべての圏は加法圏(additive category)の特別なものである。
したがって、まず加法圏やさらにそれよりも広い概念であるプレ加法圏を学ぶ。

加法圏では複体(complex)やホモトピー(homotopy)などが定義できる。


アーベル圏において次のことを学ぶ。

  1. アーベル圏の定義 [1], [2], [3], etc.
  2. アーベル圏における基本的な性質(e.g. モノモルフィズムでエピモルフィズムの射は同型射である) [1], [2], [3], etc.
  3. アーベル圏でのプルバック・プッシュアウトの定理 [1], [8], etc.
  4. 完全列(exact sequence)の定義とその基本的な性質 [1], [2], etc.
  5. アーベル圏上の完全列に関する古典的な補題; e.g., 蛇の補題(the snake lemma)や5項補題(the five lemma)など [1], [2], [8], etc.
  6. 完全関手(そのためには加法関手を勉強する)の定義とその性質 [1], [2], etc.
  7. アーベル圏の局所化(localization): 環の局所化の圏論ヴァージョン。局所化は加法圏のもある。[1], [3], etc.
  8. Freyd-Mitchellの埋め込み定理: 任意の小さなアーベル圏はある加群の圏に埋め込むことができる。[3], [8], [10]
  9. ホモロジー代数: Cone, Canonical triangle, ホモトピー圏, Injective objects, Abelian categories enough injectives, 分解(resolution)など [1], [7], [8], [9]
  10. グロタンディーク圏: アーベル圏にさらにある条件いわゆる(AB5)が付け加わった特別な圏。グロタンディーク圏における有名な定理のひとつに関手に関する定理Gabriel-Popescu定理がある。[3], [4], [8]
  11. 森田理論(Morita equivalent): 圏論的考えを代数学(環)に応用した理論。森田理論はアーベル圏上から三角圏、導来圏上と拡張される。[1],


だいたいこんな感じ。
これから毎日これらのことを書く。まだ具体例はよくわからないので抽象的であるが、ギャップなく書くのでお願いします。


参考文献
[1] 中岡宏行 『圏論の技法』
[2] 河田敬義『ホモロジー代数』
[3] 清水勇二『圏と加群
[4] Popescu, Abelian categories with applications to rings and modules
[5] Mitchell, Theory of categories,
https://www.maths.ed.ac.uk/~v1ranick/papers/mitchell.pdf
[6] P. J. Freyd, Abelian categories,
Abelian Categories
[7] Kashiwara and Schapira, Sheaves on Manifolds
[8] Kashiwara and Schapira, Categories and Sheaves,
https://www.maths.ed.ac.uk/~v1ranick/papers/kashiwara2.pdf
[9] Iversen, Cohomology of sheaves
[10] Swan, Algebraic K-Theory



僕から以上

固有値と固有ベクトルのメモ

固有値固有ベクトル
{
\begin{equation}
\text{固有値} = 
\begin{cases}
\text{すべて異なる}
\begin{cases}
\text{すべて実数}
\\
\text{すべて複素数}
\\
\text{実数と複素数}
\end{cases}
\\
\text{同じものがある}
\end{cases}
\end{equation}
}

{
\begin{equation}
\textrm{Eigenvalue} = 
\begin{cases}
\textrm{all different}
\begin{cases}
\textrm{all real numbers}
\\
\textrm{all complex numbers}
\\
\textrm{real and complex numbers}
\end{cases}
\\
\textrm{there is the same eigenvalue}
\end{cases}
\end{equation}
}

複素ベクトル空間
{A: \mathbb{C}^n\to \mathbb{C}^n}
{x, y\in \mathbb{C}^n}
{
\begin{equation}
x =
\begin{pmatrix}
x_1\\
\vdots\\
x_n
\end{pmatrix}
\end{equation}
}

{
\begin{equation}
y =
\begin{pmatrix}
y_1\\
\vdots\\
y_n
\end{pmatrix}
\end{equation}
}

{x\cdot y = x_1\overline{y}_1 + \cdots + x_n \overline{y}_n}


実ベクトル空間
{A: \mathbb{R}^n\to \mathbb{R}^n}
{x, y\in \mathbb{R}^n}
{
\begin{equation}
x =
\begin{pmatrix}
x_1\\
\vdots\\
x_n
\end{pmatrix}
\end{equation}
}

{
\begin{equation}
y =
\begin{pmatrix}
y_1\\
\vdots\\
y_n
\end{pmatrix}
\end{equation}
}

{x\cdot y = x_1 y_1 + \cdots + x_n y_n}


{\lambda} が行列 {A}固有値であるための必要十分条件{\textrm{det}(A -\lambda I) = 0} である。
証明
{Av = \lambda v,\,\, x\neq 0} とする。つまり {\lambda}固有値であり、{v}固有ベクトルとする。
{X = A-\lambda I} とおき、
{X = (x_1, \ldots, x_n),\qquad} {\begin{equation}
v =
\begin{pmatrix}
v_1\\
\vdots\\
v_n
\end{pmatrix}
\end{equation}} とする。

仮定より、{v_1 x_1 + \cdots + v_n x_n = 0} である。{v \neq 0} より、{x_1, \ldots, x_n} は1次従属である。したがって、
{\textrm{det} X = \textrm{det}(A -\lambda I) = 0} である。

逆に {\textrm{det}(A-\lambda I) = 0} とする。{X = (x_1, \ldots, x_n) = A-\lambda I} とする。
{\textrm{det} X = 0} より、{x_1, \ldots, x_n} は1次従属である。つまり、
{v_1 x_1 + \cdots + v_n x_n = 0} ならば、ある {v_i\neq 0} が存在する。よって、あるベクトル {v\neq 0} が存在して、
{
\begin{equation}
\begin{pmatrix}
x_1&\cdots&x_n
\end{pmatrix}
\begin{pmatrix}
v_1\\
\vdots\\
v_n
\end{pmatrix}
= 0
\end{equation}
}
となる。
つまり、{(A-\lambda I)v = 0} となる {v\neq 0} が存在する。


{3\times 3} 行列のとき
{A: \mathbb{C}^3\to \mathbb{C}^3}
固有値 {\lambda_1, \lambda_2, \lambda_3} とする。

(1) 3つとも異なる。
(i) 実数3個
(ii) 実数1個と複素数2個

(2) 実数3個でひとつ重複
{\lambda_1 = \lambda_2}
{\lambda_1\neq \lambda_3}
{\lambda_2\neq \lambda_3}

(3) すべて実数で重複
{\lambda_1 = \lambda_2 = \lambda_3}


定理
{A}{n\times n} 行列とする。{\lambda_1, \ldots, \lambda_k} を行列 {A} のすべて異なる固有値として、それぞれに対応する固有ベクトル{v_1, \ldots, v_k} とする。
つまり、{A v_i = \lambda_i v_i,\qquad \lambda_i\neq \lambda_j}
このとき、{v_1, \ldots, v_k} は1次独立である。

なぜ学ぶのか。信念の相対化のため。

なぜ学ぶのか。この題名には主語かない。したがって2つの解釈ができる。
なぜ「私は」学ぶのか。
なぜ「我々は」学ぶのか。

前者は個人的な問題である。それはただ単純で「楽しいから」「せずにはいられないから」である。
後者はそれほど簡単ではない。一般の人が納得できるような解答はあまり思いつかない。説得的な解答は「学ばなければ為政者などから搾取されるから」などであろう。要は学ぶ理由は「損をしないため」である。
それはそれで間違いではないと思う。しかしそれだけでは物足りない。我々が学ぶのは「自らの信念を相対化させるためだからだ」と私は考える。

我々は自分の出生や経験から常識や正しさを決める。これが当たり前なんだと理解して一定の信念を形成する。しかし、別の文化を見たり、過去を振り返ることによって「自分が持っていた信念は実は特殊な事情から出来たのだな」と反省して信念が変容する。信念が揺さぶられまた作り直し、さらにまた揺さぶられ、また作り直し....その信念の変化と構成の過程こそまさに学ぶことであり、ひいては生きることである。

例えば、....と言いたいところなのだけれどもあまり具体例はないかな。ロシアに行ったとき、カフェの店員が電話したりチャットしながら仕事をしていた。その様子を見て「日本では考えられない行動だな」と思った。新年にはコンビニ(に相当するスーパー)が休んでいて「正月ぐらいは休むんだな。たいして日本はガチでやっているんだな」と思ったりした。いいか悪いかは別にしてこれまでの常識が揺さぶられたことは確かである。他にも歴史を通じてこれまで当たり前と思っていたことが実はそうではなかったということを理解して、自分の考えを相対化することができる。
今は混浴はかなりマイナーで破廉恥のイメージがあるけれども、確か、昔は(明治前まで)、普通に男女裸で混浴していた(江戸時代に禁止令が出されたけど結局、混浴が少数になったのは明治以降とのこと)。そのことを知れば自分たちの常識や伝統が最近のものであるのだと気づき、信念は相対化される。

さて、信念の相対化には2つの問題点がある。
1つは我々は信念を相対化したつもりが得てして自らの常識や偏見を強固にさせるということである。
例えばロシアの店員が仕事中に携帯をいじっている姿を見て、ある人は「日本もこのぐらいの自由があってもいいんじゃない」と思うかもしれない。が、別の人は「日本人はなんて真面目なんだ。対してロシア人はなんて体たらくなんだ」と思うかもしれない。ある種の事実を知って、信念が揺さぶられたとしてもその反応はまちまちであり、おうおうにして自らの信念や偏見を強固にする。もともとロシア人がダメなやつだと思っていたならば、「やっぱ、ロシア人はダメだ」という根拠にもなってしまう。信念を相対化させるつもりが信念の固定化をさせてしまうということである。このようなことが悪いことなのか、いけないことなのか「教養」がないのかどうかは、判断しかねる。わからない。別のそのような信念の固定化を助長する思考過程が悪いと言えるのかどうかわからない。それが普通なんじゃないかとも思う。出来るだけそうにはなりたくないと思っているけれども。

もう1つはたとえ自らの信念を相対化したところで「だから何?」となることである。たとえこれまでの信念がある種の固定観念であったことがわかったところで「だから何?」となるのである。例えば、今誰かが「混浴を復活させよう」と主張したとする。大半の人が反対するだろう。そのとき賛成者が「でも、かつては混浴が普通だった」と反論したとする。しかしたとえそうだっととしても、反対論者は自分の意見を変えるだろうか。おそらく「昔はそうだったかもしれない。でもだから?」と反応するだろう。自らの信念は相対化されたかもしれないが、それでおしまいになると意味がない。
タトゥーのある人も温泉の入浴が可能となるようにすべきかどうか議論されている。そのとき賛成論者が「他の国ではタトゥーはファッションとして考えられているんだよ。だから他の国ではタトゥーがあっても入浴可能なんだよ」と言ったとする。しかし反対論者はたとえ「タトゥーは悪いもの」という信念が揺さぶられたところで、「へー。世界の諸外国の温泉はタトゥーOKなんだ....で、だから何?」で終わってしまう。
問題は信念が相対化されっぱなしになるとそれはそれで意味がないということである。再び信念をより良きものへと構成せねばならない。そのために考えるのである。

信念が相対化されて自説を撤回したり修正したりして良い方向に進めばいい。しかし固執化の方向に向かいがちであり、信念が揺さぶられっぱなしで疑念しか生じなくなってしまっても困る。信念の変容性(柔軟性)も歳を重ねたり立場によって鈍るだろうし。たぶんいい方向に進むのはとても難しいと思う。

「なぜ学ぶのか」にはさらなる問いがある。それは「なぜ学ばなければならないのか」である。
学ぶことを強制することができるのか。私はいまのところは学びたくなければ学ばなくてもいいという立場なので、「すべての人は学ばなければならない」なんてことは言えない。「学んだらこんないいことがありますよ。こうなりますよ。」とは他の人には言えるけれどもそれでもやりたくないという人に対して「やりなさい」とは言えない。
それに「勉強」は本からしかできないが、「学ぶ」ことは何も本のみからしかできないことではない。生活したりいろいろなことを体験して反省したりして「学ぶ」ことは十分できるからである。ただ我々はそのような自己反省をやみくもにやったり自己流でしていて、「正しい仕方」を知らない。自己反省の方法を勉強することはできると思う。そしてそれはおそらく主に哲学から身につけることができる(はず)。



僕から以上

眠い

今日は葬式のために飛行機に乗った。
空港に着いたとき、向こうから店員(飛行機の関係者)がやってきて、話しかけてきた。
「出張ですか?」
急に聞かれたのでそのとき私はとっさに「まぁ、そんなもんです。」と言って、煙に巻き勧誘を断った。
だが、今思えば「出張ですか?」と聞かれて「葬式のためです」と笑顔で応答しとけばよかったと後悔している。
そうしたらその店員はどんな顔をしたのだろうかと、見たかったからである。
「やべぇ!!!」と内心思って、それを顔に出すのかな。雰囲気が凍り付くのかな。

僕は嘘はつきたくないけど、今度同じ勧誘が来たら嘘ついてでも「葬式です」とでも言ってみようかな。


僕から以上