疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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雑誌の感想: 『群像 2014年 11月号』 批評とは何か

こんにちは。どうも僕です。今回は或る雑誌についてまとめます。それは『群像 2014年 11月号』の「批評とは何か」です。 

もともと2015年に出そうと思っていましたが、そのためにコピーしていました。ここには私が気になった箇所を羅列したいと思います。

群像 2014年 11月号 [雑誌]

群像 2014年 11月号 [雑誌]

 

 

 

 

はじめに 

群像という雑誌があり、そこには2015年から「群像新人評論賞」というものがある。そこに2015年から出そうと思っていた。が、訳あって提出はしていない*1。翌年(2016年)も結局提出せず、今年(2017年)はロシアにいたため提出できなかった。来年(2018年)もしかしたら提出するかもしれない。だがその内容はこれまで考えていたテーマではなく、全く別の哲学的なものにする...予定。

 

評論の条件には次のようなことが書いてある。

応募作品は未発表の評論に限る。卒業論文、同人雑誌発表作、他の新人賞への応募作品、ネット上で発表した作品等は対象外とする。

したがって、翌年に出すかもしれない論文はここには書かないと思う。 

 

そこで、論文を提出する前に、審査員たち(大澤真幸、熊野、鷲田)がどのような論文を期待しているのか調べる必要がある。もちろんこれは彼らに迎合するためにではない。しかし、提出するならば出来るだけ受賞できるように工夫しなければならない。その工夫の一つがまず相手がどのようなことを考えているのか、どのようなことを期待しているのかを知らなくてはならない。それに、戦いを挑むならば頂点を目指さなくてはならない。喩えて言えば、大学受験で言うところの傾向と対策である。また、もし彼らが好意的に評価する論文の傾向が見えたならば、その逆をやれば、特異に見えるかもしれない。さらにこの秋に次の新人評論賞の発表があるから、そこで大賞の人が出てほしいなとも思う。二年間も受賞者なしだと、その賞の価値がぐんと上がっているから、どのような内容なのかなと期待している。
 

 

以下では『群像 2014年 11月号』の特集「批評とは何か」をまとめる。気になったところを箇条書きする。

 

Section: 批評をめぐる日本固有の状況pp.88-90

  • 熊野

審査員の一人の熊野のキーワードは「作品」である。応募者には「作品」を期待しているとのことである。 「作品」とは、要は......

 

熊野
p.89: それは例えば、こういうことです。親しい同僚の社会心理学者が「私のやっていることは、あんたらと違っておサイエンスですもん」と言うんです。その人はもちろん冗談と挑発を込めてそう言っている。僕も挑発と冗談を込めて「そんなくだらないことをやっているのか」と言い返すんですが。


pp.89-90: (続き)
(改行): つまり、この間のSTAP細胞の騒ぎなどを見て人々が改めて認識したように、サイエンスというのは、誰がやっても同じ結果が出なきゃいけない。これが規範ですが、哲学を含めて僕らがやっていること、僕らが書いているものは、他人と同じ結論を書いても仕方がないし、同じ素材でも違う結果が必ず出てくる。その意味ではもちろんいわゆるサイエンスじゃない。テキストという拠り所があっても、さまざまに分かれていく。院生たちに言いたいのは、サイエンスという極を一方においた場合、君たちは定型的なサイエンスの論文を書くのではなくて、強いて言えば一個の作品を書くんだ、ということなんです。

 



 

Section: 批評は何のためにあるのかpp.90-95

  • 大澤

審査員の一人である大澤は批評とは考えるためにあると言う。 

大澤
p.90: なぜ批評があるのかというと、はっきり言えば、考えるためだと思う。もともと小説自体、何のために書くのか。おもしろいお話を書いて、みんなにエンターテインメントを提供するという部分もあるかもしれないけども、小説って、人が考えるための様式の一つなんだと思うんです。

 

  • 鷲田

審査員の一人である鷲田のキーワードは「エッセイ(試論)」(p.92)である。この「エッセイ」というのは、「つれづれなるままに...」といった随筆といった意味ではなく、「試論」だったり「試み」といった意味である。 

ちなみに鷲田は哲学者の考えとその表現方法について言及している。それはかつて哲学者はさまざまな書き方で自分の哲学を表現していた(ニーチェアフォリズムアウグスティヌスの告白体・古代史人哲学者の詩文や箴言・対話体や日記体など)にもかかわらず、哲学者研究者はそれらをみな同じ文体で論じている。これは異様だと述べている(p.94)。

したがって、ここから察するに、論文の書き方はかなり自由でも構わないということである。いきなり文体が変わったりしても別段評価が下がることはない*2。これはかなり気前のいいことである。

 

 

  • 熊野

かつて熊野が習った先生のエピソードがある(pp.93-94)。それは評論と論文の違いについてのエピソードである。
高橋和巳の「楽園喪失」という箇所に評論と論文の違いを述べたところがある。彼曰く
江藤淳『成熟と喪失』は評論であり対して中村光夫二葉亭四迷論』は学術論文であると。


また熊野のキーワードの「作品」とは別に「心がときめく論文、ファンタジーのある論文、ビジョンのある論文」という考えもある(p.93)。その代表例が大森荘蔵の論文であると言う。曰く「それはすぐれた散文であり、深い哲学的考察であり、ワクワクさせるものであるという奇跡のものである。」と(pp.94-95)。
 

熊野
p.95: でも、それは[引用者注: 大森荘蔵の論文]ある極点で、最も普通の意味での論文は、何かのテキストにコミットしたものだと思います。それでも僕は時にその中で、作品としか呼びようのない非常に魅力的な論考に接します。

 

熊野が習った日本倫理思想史の研究者がかつて、日本近代最大の哲学書は小林秀雄の『感想』であると言った。pp.93-94

 

 

これらの発言から思うことは、もし時間があったらここに述べられている著作をいくつか読んでみようということである。最低でも、大森荘蔵の著作と小林秀雄の著作を読んでみよう。未だ食わず嫌いで避けているから。

 

 

Section: シンギュラリティー(特異性)から普遍性へpp.95-97

 

  • 大澤

ものを考えるとは(pp.95-96)

大澤のキーワードは「シンギュラリティーから普遍性へ」である。
リア王をわれわれはなぜ感動するのか?
リア王とわれわれは時代も違うし立場も違う。王様ではないしひどい娘を持っていないし。それでもわれわれがそれに感動するのは人間として共通の部分があるからと言われるが、それならば一般論として語られたら、感動するかと言えば、まったくそうではない。一般論とは例えば相続においては子供を簡単に信用するなというもの。その物語のシンギュラリティーは他者を感動するためには必要である(pp.95-96)。

 

大澤
p.96: だから、普遍的であるということと、シンギュラーであるということは必ずしも矛盾しない。両者の間には、ふしぎなつながりがある。そのつながりにこだわっているのが、文学だと思う。文学だけではないですが、文学は、特にそのつながりへのこだわりが強い。

 

 

大澤
p.96: 普遍的なものを普遍的なものとして扱って勝負するのが普通の意味でのサイエンスだとすると、小説やあるいは文学の一般はシンギュラリティーのほうから普遍性に向かっていこうとする。

 

 

大澤
p.96: サイエンスは、再現性が鍵で、誰がやっても同じにならなければならず、文科系の学問では、たとえば誰がヘーゲルを読んでも同じということにはならない、という話がありましたね。ただ、ここで注意しなくてはならないのは、なら、文科系では、気楽に何を書いてもよいのか、「俺はとにかくこう思う」と書けばよいのか、といえば、もちろんそんなことはない。たとえば独自なヘーゲル読解が提示されたとき、やはり、そこにヘーゲルの読みとして普遍的な妥当性や説得力があると思わせないといけない。要は、普遍性とか一般性とかに、特異性を経由して向かっているのか、それとも、直接に、「再現性」があるという形で向かうのか、の違いだと思う。


p.96: 続き
(改行) シンギュラーなものの中にある普遍性を引き出すことこそ「考える」というしぐさであって、それを言葉にしていくという作業が一方である。

 

ここでわかることは、私がしようと思っている内容ではあまり「シンギュラリティから普遍性へ」という流れを書くことが難しいということである。大澤も述べているようにこのような流れで議論ができるのは「文学批評」が最たるものであるからである。他方、私が行おうとしているものは、そのような類ではないから、なかなか難しい。

 

 

大澤は西洋の思想の輸入と思考について語る(p.97)。昔は両方が融合していたが、最近は分離しつつあると言う。一方で哲学研究があり他方で西洋の思想を咀嚼して対決する作業(要は批評)がある。そのような西洋の思想を一切考慮に入れないで関係なく哲学をすると内容的に浅くなると大澤は言う(p.97)。

 

 

Section: 日本における知の「泣き別れ」現象pp.97-99

 

  • 鷲田

鷲田は講談社現代新書赤坂真理の『愛と暴力の戦後とその後』を述べる(p.98)。そこでは今、使っている言葉がこれまでのわれわれの言葉とどういう違いがあるのか検証している。このような作業を哲学研究者はしていない。彼らは翻訳された西洋の哲学概念と仏典から翻訳された概念を文脈なしに普通に使っていると彼は言う。

 

ちなみに鷲田の著作を読んだことがあるけれども*3、そこでもしばしば語源をチンタラぐだぐだと言っていた。さきほどの「エッセイ」もそうだけれども。

 

  • 熊野

熊野
p.99: 一見したところ非常に地味なテキスト研究にすぎないものの中に、とってもきらめくビジョンを含み、心躍らせるファンタジーを含んだものがある。そのレベルから、さっき挙げた大森先生にある種の典型と頂点と達成を見るような次元まではグラデーションがあって、しかもグラデーションがあってほしいと思うんです。

 

 

 

Section: 吉本隆明柄谷行人インパクトpp.99-102

 

  • 鷲田 

鷲田は日本での哲学研究と文芸批評の活動場所の入れ替わりを指摘する。つまり、かつて哲学研究は大学で行い、文芸批評はアカデミズムの外(ジャーナリスト)で行なっていた。だが、いまは逆で、哲学研究の人はアカデミズムから減りつつあり他方で文芸評論家が大学教授の職を得ているという(p.99)。

 

鷲田は柄谷行人の『世界史の構造』、山崎正和の『世界文明史の試み』、今村仁司にも言及する。彼らは体系を志向していると彼は言う(p.100)。

 

  • 大澤

 大澤は柄谷行人が群像で『マルクスその可能性の中心』を出したことは客観的に言って、かなり画期的であったと言う(p.99)。 

大澤
p.101: 例えば自分が今書いているものは、今月号だけ読んでもらおうと思っているわけじゃなくて、運がよければ十年後、二十年後にも読んでもらいたいというつもりで書いている。

 

大澤
p.101: 吉本さんは、情況への過敏度でまず勝っていて、そこからテイクオフしようとして、『心的現象論』とか『共同幻想論』とかを書かれたのですが、情況の中で発したものに比べると、やや波及力が落ちる感じになっていると思う。

 

  • 熊野

熊野曰く、柄谷行人の『日本近代文学の起源』はかなり近代文学研究者に影響を与えた(p.100)。熊野は吉本隆明の理論的な仕事にはそれほど関心はない。『心的現象論』は評価しずらい。だが、初期の詩や作家論はとても面白いし美しいと思っている(p.100)。


熊野は吉本よりも埴谷雄高(はにやゆたか)に強く惹かれるとのことである。『死霊』を途中からリアルタイムで読めて嬉しかったとのこと。埴谷の政治論文は吉本のと違い今でも読める。情況を取っ払っても読めるそうだ(p.102)*4

 


Section: 新人賞応募作に期待することpp.102-104

 

新人賞応募についてどのようなことを期待するのか。

 

  • 熊野

熊野は読んでいてワクワクするようなもの、快感を与えてくれるものを期待しているとのことである。また、哲学を引用すれば喜ぶだろうと安易に思われるのは心外だとのことである。 だが、そもそもこのような雑誌に、本質的な議論をすること自体、かなり勇気のあることだと述べている。

熊野
p.102: 先ほどの大澤さんの言葉を転用させてもらえば、そこに単独なものを介して普遍性に向かう鋭い思考の回路が存在するならば、すぐれた評論たり得るだろうし、僕らはそれを十分に楽しむだろうと思うんです。

 

熊野
p.103: あと、背景にしている理論が骨格ごとわかってしまうものも余り見たくないですね。選者の顔ぶれを見て、哲学書を引けばいい、というもんじゃない。あくまでまずテキストとして、こちらに読む快楽を与えてほしいということです。

 

熊野
p.104: さっき大澤さんがおっしゃったけれども、例えば研究者の卵にとっては、ある意味で学会誌に応募するよりもすごくチャレンジングなことだと思うんです。今さら哲学系の雑誌で、本当に本質的で巨大な問題を立てて、論文なんて応募できませんからね。

 

 

  • 大澤

大澤はいろいろなテーマの論文が募集の対象となったので、窓口が広がったと言っている。さらに、大澤にとっては文理が一緒になっても構わないと言う。要は「シンギュラリティから普遍性へ」という流れであれば、内容は基本的にはなんでも良いとのことである。

赤坂真理の『東京プリズン』のように(p.104)自らの手で探求するというのも、悪くはないがその内容とかつての哲学者などの文献とをうまく関連づけられたらなおのこといいとのことである。

これは聞いちゃいけないのかなと思っているものをガンガン言っちゃって構わないとのことである。

 

大澤
p.102: 
結論的に言えば、今までより間口が広くなったと考えていただければいいんですよ。もちろん、いわゆる狭義の文芸批評だっていいわけです。ある種のシンギュラーな出来事性とか、体験とか、霊感とか、そういうものから普遍性へと向かっていくのが思考というものです。

 

大澤
p.102: 文学に触発されて始まったっていいし、ほかのところから、例えばある出来事について考えたものから始まってもいい。ある普遍性へと向かっていく一つの思考様式がそこにあれば。
(改行) もっと言えば、先ほど文科と理科の話があったけれど、文科と理科はもうある意味で一緒になったっていいんです。僕は今、講談社の別の雑誌で、進化生物学とか動物学とか霊長類学とか、そういう理科系分野の仕事と絡んだ連載(「社会性の起原」・「本」誌連載)をしていますけれども、これをやってすごく感じるのは、文科と理科が一緒になることの意義です。

 

大澤
p.103: だから僕らが「群像」で批評をやるというのは、ズバ抜けて間口が広がることだと考えるべきではないか。そういうふうに考えてほしいと思います。

 

大澤
p.104: その感覚[引用者注: 素手]が必要なんですね。ただ、そのときに既に準備されているいろいろな道具をどのぐらい使えるかによって、深みがまた変わってくる。自分で考えるということと、それを例えばデカルトが考えていることとどうシンクロさせられるかということですが。

 

大澤
p.104: みんな本当は薄々思っているけれども、そんなこと聞いちゃいけないのかな、みたいなことになっている疑問です。そういう本当は生の疑問であるものにチャレンジしてほしい。

 

  • 鷲田

 鷲田は小さな感受性を大切にして、そこから一般的なことを議論してほしいとのこと。心がときめくものがいいとのリクエストもある。

秋山駿のような目の前の石から哲学が始まるような人を半ば期待している(p.104)。

 鷲田

p.103: さっき熊野さんは哲学論文でも心がときめくと言っていたけれども、新人賞の選考で読ませていただく側の希望としては、やっぱりそういう、心を鷲掴みされるものを読みたいと思います。

 

鷲田
p.103: そのときに、最小のもの、あるいはシンギュラーなものというのは、暮らしの中で感じたささいな事柄、出来事であってもいいし、その人ならではの、例えば詩人がこの世界というものに対してチクチクッと刺すような小さな違和を感じる、その小さなものであってもいいし、あるいはテキストの極小部分であってもいい。

 

鷲田
p.103: ある言葉でもいいし、出来事でもいいし、どんなものでもいいと思うんだけれども、その小さな穴や裂け目を潜り抜けたものを、既成の座標軸に位置づけるのではなく、別の領域にいわば斜交的につなげていってほしい。実はこの小さな感受性、あるいはこの小さな出来事のこの表現はこんな意味を持っているんだ、こんな新しいビジョンにつながっているんだということを見せてくれるのが評論かなと僕は思っているんです。

 

 

まとめ

彼らが望んでいる論文をまとめると

  • 小さいことや特別なことから普遍的なテーマへと議論が進むこと(大澤)。
  • 心がときめくファンタジーな論文(熊野)。
  • 書き方にはこだわらない(鷲田)。
  • 文理の垣根にはこだわらない(大澤)。
  • 生の疑問を問うような論文(大澤)。
  • 自らの手で議論することと哲学者の議論をうまく関係づけられていること(大澤)。
  • 安易に哲学者の引用をすることは逆にマイナス(熊野)。
  • ある程度、西洋の思想をキャッチアップしたもの。それらを咀嚼して対決すること(大澤)
  • テキストに従いながらのオリジナルな論文(熊野)

 といった感じだろうか。

私がかつて考えていたのはゴリゴリの数理哲学であるし、仮に今度提出する論文の内容がゴリゴリの数学の哲学であっても、それはそれでよくないであろう。ある程度西洋の思想をキャッチアップしたうえで、純粋な哲学的議論ができればいいなとは思う。そのようなテーマは一つあるが、問題は二つある。一つは「特異から普遍へ」という要素がほとんどないということである。もう一つはテキストの読解を通じてのオリジナルな論文というものである。このような文献学的な方法はあまり好きではないし、訓練したこともないから苦手である。自由に論じるということと精緻にテキストを読解することのバランスをいかにするのか私にとってかなりの難題である。この両者にはかなりの断絶があるからである。これを成し遂げるのは至難の技である。

まぁいいや。本当に書くかどうかもわからないし。時間そもそもないと思うし。

読んだ方がいい本がいくつかあったから、時間があったら読もう。

次は翌年(2015年)の優秀作品賞を読んで、彼ら審査員の感想について述べていこうと思う。

僕から以上

 

 

 

 

*1:理由は、論文の内容があまりにも数学的、物理学的であるため、-----たとえ後述するように文芸批評以外のテーマでも受け付けると言っているにせよ-----このようなゴリゴリの文芸雑誌に提出するのは場違いであると判断したためである。もちろん、論文があまりうまく書けなかったというのもある。結局何が言いたいのかわからないという代物であった。

その論文のテーマは「数学の不合理なまでの有効性」であった。哲学寄りの人にも理解ができるように、中身は(1) ウィグナー(E.P.Wigner)の論文The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciencesと(2) フッサールの『危機』の第九章「ガリレイによる自然の数学化」と、(3) ガリレオケプラーニュートンの近代科学の誕生の歴史(要は科学史)と、(4) 最後に哲学的問答を考えていた。が、この話題を書くためには少なくともMark SteinerのThe Applicability of Mathematics As a Philosophical Problemを読まなくてはならないと思ったし(そしてそれは未だに読んでいない)、またあまりに数学的、物理学的な内容なためこんな雑誌に書く内容じゃないと諦めた。

*2:はじめに考えていた論文の内容は最後問答であった。いきなり対話篇みたいになる。

*3:『哲学の使い方』

*4:ちなみに私は埴谷について全く読んでいないにもかかわらず彼のイメージはとても悪い。というのも、彼の名前を初めて知ったのは上野千鶴子『生き延びるための思想 新版』であった。そこで、彼女は埴谷に言及していて、彼は避妊も行わないにもかかわらず彼の奥さんに中絶を何回も強制させたとして「こんな人の考えなんて全くダメ!」とボロクソに言っていた。「その人の考えと行為は別々であり、思想は思想で批判しなきゃダメだろ」と思ったが、にもかかわらず、上野の言及によって初めて埴谷という存在を知り「なんてやつなんだ」と悪いイメージがついた。だから、そんなやつに強く惹かれていると言っているやつはさぞかしなんだろうなと、熊野に対して勝手なイメージがついた。一番初めに誰にどのように教えられるのかということが、その後の判断を決定づけることを自らまざまざと知った。