疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と乃木坂(けやき坂)が人生の唯一の楽しみです。

三日坊主にならないために。内容はないが適当に書く。或る葛藤。

こんにちは。

今年になって、とりあえずできるだけブログを毎日更新しようと思い、これまで1日、2日と連続で書きました。が、ここにきて、挫折しました。三日坊主です。

しかし、そうはならないために、とりあえずですが何か書きます。もちろんネタはあるにはあるのですが、そのためのブログ作成が大変ということです。

 今日は友達に会って話をしました。これはとても有意義でした。

ここで、私は一つのジレンマを彼らに話しました。それは次のようなものです。

 

一方で、私には数学や勉強の楽しさというものを広くみんなに知ってもらいたい。学ぶことの楽しさやわかったときの喜びなどを体験してほしい。だから、私はたとえ勉強ができないという子でも、むしろそのような子にこそ、勉強の楽しさを理解するために教えたい、と。

他方で、勉強は簡単にはできないし、わかるためにはそれなりの苦労をしなければならない。が、わざわざそのような苦労や試練を全ての子どもたちにさせなければならないのだろうか?できなくて、自信を失い、自尊心を失うのならば、数学や嫌なことを避けて、その子の好きなことや既に興味のあることに集中させればいいのではないか?わざわざ、嫌いな子に教えなければならないのか?そのような疑問が最近、家庭教師のバイトをする経験を通じて起こった。

 

このジレンマは一方で啓蒙という側面があり、他方では自分の身勝手な強要という側面がある。

 

友達にこのことについて意見をうかがった。結論は正直まとまらなかった。それに相手もわからないと言った。ただ、「できる限り子どもに対して強要してはならない。」だが、「義務教育は社会で生きるための最低限のことなので、たとえ多少の強要・強制があったとしても、それは仕方がない。」「高校以降は彼ら・彼女ら個々人の自由によって、選択できる社会であるべきである。」さらに「選択ができて、もしその道がダメだったときにやり直すことができる社会にするべきである」との意見を言ってくれた。

 

 

私にはこのジレンマについて或る譬えがある。海外の名作を考えてみよう。それは例えばシェイクスピアの著作やゲーテの著作などである。これらの著作を本当に理解するためには、少なくとも原文を読まなくてはならない。例えば英語であったりドイツ語であったりである。さらに、著作が書かれた時代のことも知らなければ本当のシェイクスピアゲーテを理解することはできないだろう。このような研究はとても有意義で楽しいことであるが、それは一部の専門家しかできない。英語やドイツ語を必死こいて勉強しなければならず、全集を読まなければならないだろうしその著者だけでなく、彼らが影響を受けた人物の作品も読まなければならないだろう。これらは苦痛で努力が必要なことである。普通の人では到底できない。そのような苦痛や試練を乗り越えた一部の人だけが、本当の快楽を手に入れることができるのだ。

だが、我々はわざわざそこまでの苦労をしなくとも、シェイクスピアゲーテを理解したり楽しんだりすることができる。たとえ、英語やドイツ語を知らずとも。それは、翻訳本があるからである。

もちろん、専門家からしたら翻訳本は完全ではないし、原文ならではのニュアンスやおもしろさがあるのだろう。翻訳本ではその味を伝えることはできないかもしれない。だが、それでも我々市井は、翻訳本である程度ならばその世界を楽しむことができる。そして、そのような名著を味わうという至高の体験が世間の一人一人に広くあることが善いことであり、それが文化的な国民となるのだ。

 

これと同じように、真の数学(物理)の楽しさや有意義を理解するためにはとてつもない苦労を強いるかもしれないし、その愉悦に浸ることのできる者は少数かもしれないしそこまでのことを万民がする必要はない。だが、そこまでしなくともある程度ならば広く万民に数学の楽しさを理解させることはできないのだろうか。翻訳本のように。そしてみんなが知っていることが文化的で科学的な国民ではないのか。このようにである。

 

このような考えは容易に「啓蒙」を導くだろう。それは新しき道を知らぬ者に教えるということである。

 

さらに、これまでは知識が一部エリートにしか共有さえず独占されていたが徐々にたくさんの人たちに共有されていったという「知識の自由化の歴史」も啓蒙を支持する一つの理由である。

 

だが、啓蒙は別の観点から言えば、「あれも読みなさい。これも読みなさい。これが古典でありこれ以外読んではいけません。」といった上から目線で指導するということにもなりがちである。それがはたしていいのか。

 

興味ある人が読めばそれでいいのではないか。上から目線で強制する権利がどうしてその人(例えば教授)にあるのか。なぜそれを読まなければならないのか。苦労して理解しなければならないのか。

 

たとえ、優れた翻訳本があったとしても、名作を一生読まずに死んでいく人はいる。或る人からすればそれは「もったいない。人生を損している」と言われても、である。興味ないものは興味ないのである。興味ない人に対してどうして読まなければならないのか。苦労をしなければならないのか。もちろん、苦労の先に楽しさがあるのだろうけれども、それは本当に万人が理解できるものなのだろうか。ある人にとっては苦労の割に楽しくはないのではないのか。そしてそれを強制する義務や責任や権利が一体どこにあるのだろうか。

 

 

僕から以上