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福澤諭吉の『文明論之概略』のpp.108-116(120)を読んで感動した話

サボり記事第四弾

予約投稿第三回: 2/1, 23:59予定。

 

今回は福澤諭吉の著書『文明論之概略』の一部を紹介したいと思います。

私は何年か前に中戸川先生から『文明論之概略』をもらいました。途中で読むのをやめましたが、第四章の「一国の智徳」に書かれてある「統計的手法」についての箇所を読んだとき「諭吉すげぇー」と思ったのでその感動が伝わればいいなと思います。

現代語訳『文明論之概略福澤諭吉齋藤孝訳、ちくま文庫、2013年、第1刷発行

 

 

 

 

 第四章: 一国の智徳 セクション 「統計」という方法(pp.108-112)からセクション原因には「近因」と「遠因」がある(pp.112-116)の要約

一国にはさまざまな人がいる。知的で優秀な人もいれば悪い人もいる。智徳のある人が1人でもいればその国も智徳であるという訳ではない。「国の智徳とは、国全体に存在する智徳の総量を言うものだからである。」(p.103)。そうすることによって、その総量を他国と比較することによって国の智徳を評価することができる。

しかし、国の構成員である人の心は複雑怪奇であり変化しやすく測りがたい(p.105)。そのようなものに法則などあるのか? 

 

 

セクション 「統計」という方法(pp.108-112)

一見すると、人間の心に法則はないように思われる。だが、実はそれには一定の法則があり、文明を論じる者はその方法を持っている(p.108)。

それは、天下の人心を一体のものと見なして、長いスパンで広く比較し、そこで実際に観察できるものを調べるという方法である。

p.109

例えば、天候は明日晴れるのかそれとも雨なのかと予測することは極めて難しい。そこには法則性が見当たらない。だが、一年間に何回晴天で何回雨天であるかという長期的な傾向がある。つまり法則性がある(p.109)*1

 

同様に一国についても長期的な法則がある。

人心についても同様のことが言える。一個人、一家族についてその心の動きを知ろうと思えば、そこに法則があるようには思えないが、広く一国についてこれを調べれば、正しい法則があることは、晴れの日と雨の日を精密に割だすことと何のちがいもない。ある国のある時代には、智徳はこのような方向に進んでいた、とか、この原因によってこの程度の進み具合があったとか、このような邪魔があったのでこれくらい遅れた、とか、あたかも形あるもののようにその進退や方向を見ることができるのだ。

pp.109-110

イギリスのバックルという名の学者の『英国文明史』を引用して、殺人や自殺者の数には一定の法則があると福澤は指摘する(pp.110-111)。

より卑近な例として福澤は蒸し菓子について話す(pp.111-112)。暑い日には蒸し菓子などの腐りの早いものはその日のうちに売れなければ菓子屋は赤字を出してしまう。だが、そのような話は聞いたことがなく、「まるであらかじめ約束があるように、客が、自分の都合を度外視して、ただ菓子屋の仕入れで余りが出ることをおそれるかのように日暮れにはありたけの菓子を買うようにすら見える」(p.111)。これは不思議なことである。もちろん各個人や各家庭がいつどのくらい蒸し菓子を食べるかどうかということを知ることはできないし、本人ですらわからない。つまり蒸し菓子を食べる人の心は理解不能である。「しかし、町中の人心を一体と見なしてこれを観察すれば、その心の働きには必ず法則があって、その進退方向は明らかに見ることができるのである」(p.112)。

 

セクション 原因には「近因」と「遠因」がある(pp.112-116)

したがって、一国の情勢を知るためには個々の事物によって判断してはならない(p.112)。そうではなく統計的手法で判断しなければならないと福澤は言う。

広く物事の動きをみて、それが一般的に観察できるところによって比較するのでなければ、本当の状態は明らかにならない。このように広く実証的に考える方法を、西洋の言葉で「スタティスティック」(統計学)という。

p.112

この方法によって、婚姻、出生、病人、死人などの人間の法則性を見つけることができる。

例えば、イギリスでの婚約数は穀物の価格にしたがっている。これは例外なくそうであり、日本のデータはまだないがおそらく日本の場合もイギリスと同じだろうと推測する(pp.112-113)。

たとえば、イギリスで毎年結婚する者の数は、穀物の価格にしたがっている。穀物の価格が高ければ婚姻数は少なく、価格が下落すれば婚姻数は多くなり、この割合に」(ここまではかつて例外がないという。日本では、まだ統計の表を作る者がいないので、このことについては確実なことは言えないが、おそらく日本でも、婚姻数は米の価格にしたがうのだろう。

pp.112-113

結婚にはさまざまな原因がある。当人の好き嫌いもあるし身分や貧富の都合もあるし、親や仲人の言うことにも従わなければならないし、そんななかで縁談が成立することはまさに「偶然」としか言えないだろう。つまり、一つ一つの結婚は偶然によるものである。そこには法則性がないように思われるが、しかし、大域的には法則性があり、それは米の相場なのである。結婚に関する真の原因は米の相場なのである(p.113)。

この方法は有効である。

このようなやり方で物事を考察すれば、その働きの原因を追求するに当たって、たいへん便利なことがある。

pp.113-114

 

当人の好き嫌いや親の命令などの原因は「近因」と言い、対して米の相場などの真の原因を「遠因」と言う(p.115)。近因の数は多く人を惑わしやすいが対して遠因の数は少なく一度わかれば確実である。さらに遠因は多くのことを説明する。したがって、我々は近因ではなく遠因を探さなくてはならない(p.114)。

前に言った結婚のことも、その近因をいえば、当人の心であり、両親の命令であり、仲人の言葉であり、その他さまざまな都合によって成立しているとは言えるが、これら近因だけでは、その事情を詳しく明らかにすることができないだけではなく、かえって混乱のもとになって人々を惑わすこともある。この近因を捨てて、遠因がなんであるかを探り、そこで食物の価格という事情にたどりつき、そこではじめて婚姻数の多い少ないを左右する真の原因に到達し、確実な法則を発見することになるのである。

pp.115

 

文明を論じる学者にはヤブ医者が多い。つまり彼らは遠因を探ることなく近因にのみに執着する。したがって見誤ってしまう。なんと残念なことであるか(p.116)。

しかし、文明を論ずる学者にとってはちがう。学者はヤブ医者だらけで、身近に見聞きしたことだけにこだわって、物事の遠因を探求することを知らずに、欺かれたりものが見えていなかったりで、つまらないことを言っては、軽率に大きなことをやろうとしている。まるで暗闇で棒を振るようなもので、当たりっこない。当人にとっては哀れむべきことであり、世の中にとってはおそろしいことだ。気をつけなくてはならない。

p.116

 

 

雑多な感想

驚嘆なワケ

要は福澤は人間や国に対しての統計的な手法を勧めている。これに私は驚いたのである。もっとも福澤が原因と言うとき、それが「因果関係」なのか「相関関係」なのか明らかにしていないことは問題である。婚姻と米の相場の関係が因果関係なのかそれとも相関関係なのか、どちらなのか議論を要するはずであり、それがどちらなのか結論づけることは極めて難しい。だが、少なくとも福澤はこの時代から統計を重視していたということである。さらにその方法は天候などの科学の対象だけでなく人間の対象でさえ適応可能でありそうすべきであるとさえ言っているのである*2

例えば、統計的方法について「科学的対象についてはそれを認めるが人間の行為などの非科学的対象については認めない」という立場があるかと思う。そのように考えている人は現在でも多々いると思う。しかし、福澤はそのようには考えておらず統計的な実証的な方法を、人間や社会に対しても等しく適応することを説いているのである。たとえ、個々人の行動を予測することができないとしても大域的には法則性があると言うのである。このような考えを100年以上前にしていたのである......

翻訳者である齋藤孝はこの福澤の見解をどう思うのだろうか...。釈迦に説法だが。

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どこかの記事で齋藤孝は次のように言う。「たとえば、「今、奥様の間では、どういう俳優が人気があるんですか?」「皆さん、どんな趣味を楽しまれているんですか?」などと聞くと、予想もしない答えが返ってくるでしょう。すると、単に面白いだけでなく、「この世代は何を好むのか」というマーケティング調査にもなります。こうした肌感覚のマーケティング調査は、どこかの会社が行なった数量的な調査結果を読むよりも説得力がありますし、正しいことが多い。」

 

 

「智徳の総量」というぐらいだから福澤はかなり数量的に考えていたのだろう。物事を数量的に考えていたのだろうか...

 

福澤は気づいていないのかもしれないが、無意識のうちに統計の良いことを適応している。つまり、統計的に得られた情報を他のところに適応しているのである。例えば、イギリスでの婚姻の数と穀物の価格の関係を、ある種の一般法則とみなして、それは人種に関係がないと思われるので、日本にもその関係を適応しているのである。日本にそのようなデータはないし、さらに婚姻も日英で文化的な意味が異なるにも関わらずである。

統計的手段による結果の一つの利点はそのようなことである。つまり、結果が一般的なので他のところにも使えるということであり、結果として経済的であるということである*3

 

ただ統計的な結果が出たときに福澤が「なぜそうなるのか」ということを考えているのかどうか気になる。例えば、婚姻数と米の価格という関係が見つかったとき、「なぜそうなのか?」と当然疑問視するだろう。普通は「これこれだから」とその原因を考えたくなるはずである。したがって問題は次である。福澤はある統計的な結果が出たときその原因の探求を認めていたのか、それともその原因の探求はしなかったのか、その結果が応用できればそれでいいと考えていたのか。 

 

また、福澤はしばしば「喩え」を使って説明していて、そこが気になる。福澤の比喩について考えてみても面白いかな。

 

福澤の思想とその後の影響

福澤がイギリスの学者を引用していることからも明らかなように、福澤がこのような考えをしたのは、イギリスの経験主義の影響からであると思う。福澤はもともとオランダ語を学んでいたがそれは古いと言われて英語を勉強し直したという話は有名である。その影響だと思う。その辺のことをもう少し調べてみたい。面白そう。というのも、明治の日本の哲学(文系・理系問わず、つまり学問全体)は基本的に大陸哲学が中心であり、なかでもドイツ哲学に多大な影響を受けたからである。例えば、医学はドイツから影響を直接的に受けていて、それは現在でもドイツ哲学流の考え方として影響し続けている*4。ドイツ哲学にはこのような統計的手法を軽視する傾向がある*5

さて私の疑問は、福澤はドイツ哲学に影響を受けたのだろうか? さらに後世の学者はこの福澤の考えをどのように捉えたのであろうか? もし福澤の考えが日本の主流となり常識となっていれば日本は今頃、どうなっていたのだろうか? 次号を待て。

 

 

最後に

福澤諭吉には学者としてさまざまな顔があります。一つ目は思想家(哲学者)としての顔です。日本的なプラグマティズムの持ち主の方でその考えは有名な『学問のすゝめ』にも現れます。二つ目は政治思想家としての顔です。日本やアジアをいかに欧米の帝国主義から自主独立するのかということを考えられていました。その延長に論争の絶えない「脱亜論」があります。三つ目は教育者としての顔です。慶應義塾を設立したことなどに現れています。
福澤研究者は研究者ごとに専門が分かれます。福澤の思想に注目するのか、福澤の政治思想に注目するのか、福澤の脱亜論に注目するのか、福澤の教育論に注目するのか。特に福澤の脱亜論は今再び左右両陣営から再燃されています。
福澤諭吉について私はこれまで「一万円札の人」と「学問のすゝめを書いた人」ぐらいにしか思っていませんでした。福澤の著書は『学問のすゝめ』と『文明論之概略』をさらっと読んだ程度です。文章が昔のであるため読みにくいというのもありますが、そもそも興味はなく、教養程度に読んでいました。しかし、もう少し福澤の全集や福澤研究者(例えば丸山真男)の本などを読んでみてもいいのかなと思います。

 

 

僕から以上

*1:「たとえば、晴天と雨天についても、朝晴れていたからといってそれが夕方の雨を示すものではない。ましてや、数十日の間に晴れの日が何日あって雨の日が何日あるか、ということについての法則を見つけることなど人知の及ぶところではない。けれども、一年間を通して晴れの日と雨の日を平均して測れば、晴れの日は雨の日よりも多いことがわかるだろう。これを一地方についてだけではなく一国について観察すれば、それはますます精密になるだろう。また、この実験を世界中で行い、前の数十年と後の数十年の晴れと雨を比較したならば、前と後の数十年では晴れの一雨の日の数は必ず一致し、数日のちがいもないだろう。あるいはこれを百年先年のスパンで行えば、まさに一分のちがいも出ないことになるはずだ。」p.109。たくさん行えばそれだけ正確になるということもここで指摘されている。

*2:前の「スタティスティック」の引用を参照。さらに以下の文も参照「文明を論じる学者は、この変化を察するための方法を持っているのだ。この方法で観察すれば、人間の心の働きには一定の法則があるだけではなく、またその法則が正しいことは、四角と丸がはっきり違うように、判で押した文字を見るようにはっきりわかり、誤解の余地もないのだ。」pp.108-109

*3:わざわざ「日本の環境を考慮して」などとしなくてもいい。

*4:津田敏秀『医学的根拠とは何か』Ch.4. Section 2

*5:例えば、歴史研究において、統計的手法を用いて文献の年代を推定する方法ができたとき、当時の歴史学者の大家であるツェラーはそのような方法を否定した(そうだ)。『数理科学の諸問題』のどこかの論文に書いてあった。だがあまり確証はない。