疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#12: 森神逍遥著『人生は残酷である 実存主義(エリート)の終焉と自然哲学の憧憬』

 こんにちは。

 今回は森神逍遥の『人生は残酷である』を書評します。

 

引用ページはすべてiBookである。

人生は残酷である-実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬

人生は残酷である-実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬

 

 

 

本書のまとめ

本書はなかなか評価しづらいものである。というのも、本書は「自分とは何か」という壮大な哲学問題と教育・メディアの問題が同じ本に語られているのである。一般的な哲学書とも言えないし、かと言って一般的な右翼書とも言えない、なんとも形容しがたい内容である。もっとも、このことは筆者も承知している。

一章から二章、三章への展開[引用者注: 第一章は哲学的問題を、第二章三章は時事問題を扱っている]は読者にとって思いもしない内容だと思うが、すべてはつながっている。逆に言えば、こういう書き方は私にしかできないように思う。一見無縁の事柄に感じられるが、形而上学的存在としての人と形而下学的現実を生き抜かなければならない人の矛盾と葛藤と昇華という弁証法的思考を語っている。p.8

 

 

著者について

評者は著者を本書で初めて知った。少し調べてみたが、プロフィールなどはよくわからなかった。本書を読む限り著者は以下のような経歴である。

著者は福岡県に生まれ、10歳のときにある神秘的・哲学的な体験をする。それは「<自分>は自分だけではない!」というものである。そこから洋の東西を問わず哲学書を読んだとのことである。ときに修行もして、著者の言う「自然哲学」を悟ったとのことである。

著者は幾らかの哲学書を読んでいるし、いくばくかの哲学史にも通じていることがわかる。だが、哲学科で勉強したのかそれとも独学なのかは正直わからない(もしかしたらどこかに書かれているかもしれない)。

 

 

本書について

本書はエッセイのようなものである。というのも、本書では著者の「感想」が多数登場して論考という代物ではないからである。「〜と思う」や「〜と感じる」や「〜かも知れない」と曖昧に語られることも少なくない*1。さらに、文章の引用も正確ではない(ページ数が記載されていない。時には「いくつかの本の中で....」と一切出典を示さないこともある(p.93)。引用中の強調が、誰のものなのかわからない(p.96)。)。

ただ、「人生の生きる意味は何か?」「自分とは何か?」という哲学的な問題を真摯に向き合っていることはとても評価できる。

このような「自分とは何か」という問いはさまざまな哲学者によって議論されてきた。例えば、永井均池田晶子や同郷人である中島義道である。特に中島は著者と同じように幼い頃に「哲学的な問い」にぶち当たって、それを今まで考え続けてきた。二人とも状況が似ているので、最初読んでいるとき「中島義道と境遇や関心ごとが同じじゃないか。彼のことをどう思っているのだろう」と思った。そうしたら、途中から(pp.85ff)、中島はじめ永井と池田を取り上げていた。そこで著者は彼らを分析哲学の流派として批判している。要は彼らは言葉の分析に終始していて言葉遊びをしているに過ぎないということらしい。彼らへの批判が正当なのかどうかは置いといても、もし「自分とは何か」という疑問にかられていて彼らの著作を手に取ったが、いまいち共感しなかったならば、著書を一読した方がいいかもしれない。

 

本書はもう一つの哲学の流派を批判している。それはサルトルである。サルトル実存主義を日本のエリート思想の総本山として批判をしている(pp.138ff)。この認識が正しいのかどうかもサルトルへの批判が正しいのかも評者は判断しない。

そして、それらの思想の代わりに「自然哲学」を提唱している(pp.157f)。だが、その著者の言う「自然哲学」の意味は結局わからなかった。

著者は哲学に精通しているだろうけれども、現代哲学全般を誤解も含めて単純化して話しているように思った。 

 

哲学議論を行った後、今度は戦後左翼批判・メディア批判・トランプ現象などの時事を評論する。その批評は右の考えを概ね沿っているものであり、とりたてて問題はなかった。だが、「自分とは何か」といった深遠な哲学的問題とそれらの時事とのつながりや流れを評者はまったく理解することができなかった。後半はただの典型的な右翼の批評だからである。

 

まぁ、だいたいこんな感じである。以下にいくつか気になった箇所を引用して終わる。哲学問題と時事問題が混ざり合う他にはない著書であり、もしそれらの問題に関心を持たれるのならば、一読してみてはいかがでしょうか? 私はもう読まないけど。

 

 

気になった箇所のいくつかの引用

人は一生を通してあらゆるものから知識を得ていくのであるが、その無意識下に存在するのは生まれ育った空間にほかならない。都会か町か村かで、その人物の根幹が決定する。

p.26, 「生命のやりとり」より

 

フロイト心理学では、5〜6歳くらいまでに基本的な人間の性格が決定するといわれている。私は、それは10歳頃までの幅があるのではないかと思っているが、要は人は思いのほか幼い時にその人格の形成がなされるということである。

p.27, 「幼児期に性格が決定する!」より

フロイトが根拠。それと著者の思い込み。その根拠はない。

 

このような親やここでは述べていないが兄弟等との関係が、大きく人格を決定することを私も経験上よく知るのである。

p.31

肉親の関係が性格を決定づけることの正しさを筆者の経験で裏付けされている。つまり、その正しさの根拠は筆者の経験。

 

もちろん科学はさらなる発展をすることが望ましい。何より人びとの暮らしが豊かにならなければならない。

pp.32-33

 

そんなとき、アドラー心理学が声をかけてくる。自分探しなどという下らないことはおやめなさい。それよりも変わるのがこわくて他人から傷付けられるのがこわくて、<いま>に安住しているその「変わらない決心」を捨てなさい。そして「嫌われる勇気」をもって、あなたの人生の目的に目を向けなさい!と。勇気さえ持てば、どんなことだってできる。人生は振り返るものではなく社会貢献の目的に向かって突き進むものだ、とアドラーは語る。

  だが、その程度の勇気など楽々と持っている者たちはいくらでもいる。しかし、そういう彼らも多くの苦難を経て、成功していくのである。ましてやそこまでの勇気を持たない人の嫌われる勇気とは、人生を少しだけ明るくしてくれる程度にすぎない。

p.35

アドラー心理学を蔑視する著者。

 

[引用者注: 池田晶子の感性は]どこか私の感性とも似たところがあり、感心していたのだが、途中で彼女の饒舌な論理展開の飛躍や、思考を標榜しておきながら既成の倫理観へと導くといった論理矛盾が気になりはじめ、それっきりになった。いまになって現代哲学理論を学ぶに及んで、彼女の理論がここからのものだったのかと、気付かされたものだ。それでは彼女が常識派(いい人)だけに矛盾だらけとなるしかない。

p.84

著者は池田晶子に最初は共感していたということ。 

 

ことばは意思伝達の目的で発達したもので、ことばをもって何かを規定するためのものではない。

p.93

言語に絶対の価値を与えていない。その考えが分析哲学を嫌う理由である。

 

無為自然<自然哲学>の思想であり一切の母体であることを示している。

p.100

著者の言う「自然哲学」の箇所のひとつ。

 

子どもたちの元気な声は天使のようで私は幸せになる。ところが、中島氏[引用者注: 中島義道]は節度をもっての発言ではあるが、それがうるさい、思考や眠りの邪魔になるとどうもおっしゃっているらしい。

  確かに、狭い飛行機や列車やバスの中で金切り声を上げ続けられるのは、生理的に耐え難いものがあるが、それは、子の問題ではなく親の育児能力の問題であることの方が大半である。しかし、それも含めて、子どもが泣き叫び騒ぐのは自然の原理であって、否定されるものではない。ましてや、自分も同じ時期があったのであり、それを許容できないなどというのは、問題があると私は思う。同時に親を教育する必要がある。近年、保育所の声がうるさいという訴訟が増え、役所はそういったクレーマーに従うようになってしまっているが、これは絶対間違いである! それは自然の原理すなわち自然哲学に反するからである。子は人類の宝である。その声を騒音と感じるなど、感じるおとなの方こそ問題なのであって、そのおとなこそ隔離すべき存在であるのだ。

 

p.116「子どもの声は騒音か天使の声か?」より。強調は原文

ここは著者の言う「自然哲学」についてわかる数少ない箇所の一つ。「自然哲学」とは簡単に言えば自然(nature)に従うということである。子供の泣き声の意見は常識的である。もちろんそれに反対しない。ただ、中島に対する著者の反論の根拠が、「自然の原理すなわち自然哲学」とか堅苦しく装飾されているが、要は「子どもが泣き叫ぶことは自然なことだから」というものである。それは反論の根拠となり得るのか? それではそもそも自然とは何か?

「自然に反してはいけない」ということになれば、おそらく「女は子供を産むことが自然だから子供を産め」となるだろうし、「ゲイやレズなどのLGBTは自然に反するからダメ」となるだろう(著者がそのような考えかどうかはわからない)。このような考えを素直に従えば、保守的・右寄りになるだろう。実際、著者はゴリゴリの右である。

一体何をもって「自然である」というのか? 

評者の疑問は「自然であるから」や「自然に反するから」などの根拠は果たして正当な根拠となり得るのかということである。

 

 

めんどくさくなってきたからこの辺で終える。

 

 

僕から以上

*1:p.27, p.40, p.51, p.47,p.54, p.109, p.104