疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.1 『「リベラル保守」宣言』

今日は中島岳志先生の『「リベラル保守」宣言』と『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある先生の記事を書評します。そのあとに、先生の思想を批判してみたいと思います。内容がとても多いので1回で紹介することはせず、全部で4つか5つの記事になります。

 

 中島岳志  『「リベラル保守」宣言』新潮文庫 電子書籍

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

 

 

  

私は先生が北大にいたとき一度だけ話を聞いたことがあります。それは講演会であり、内容は北村一輝だったと思います。著作を読んで思った彼の評価は、結論を言うと、「有名な人物や思想家を丹念に書く伝記作家としては才能があるが、ひとりの(仮に言うならば保守)思想家としては全く大したことはない。」というものです。少し考えて、先生の考えにまだまだ穴があるように思えたし、結局はバークや福田恆存や先生の師匠でもある西部邁の受け売りに過ぎないと思ったからです。この人の話は声が良いし、わかりやすいのですが、内容は大したことを言っていないし、橋下徹さんが先生を批判するのも同情できます。先生が以下に書かれる私の批判内容について少しでも説得的な反論をしてくださるならば、私の現在の先生に対する評価も変わると思います。

 

 

本書のまとめ

本書は中島の思想をまとめたものである。つまり、中島の保守思想の理論とその応用が書かれている。

序章および第一章では保守思想の理論が書かれている。保守とは「理性への限界を認める立場」であり、そこから2つの思想が導かれる。つまり、一つは伝統や慣習のような経験知を重視する保守の思想であり、もう一つは寛容なリベラルマインドの思想である。理性の過信を戒め、政治は漸進的に進めるべきだと主張する。 保守は人間はいつでも不完全な存在であるから過去にも現在にも未来にもユートピアは存在しないと主張する。したがって、保守は復古主義でもなく、反動主義・現状追認主義でもなく、もちろん共産主義でもない。「あらゆる現代は過渡期である」のである。

第二章以降は中島の保守理論の現実問題への応用である。

第二章では原発問題について保守の立場から脱原発を支持する。そして原発支持論者に潜む「理性への過信」を批判する。

第三章は橋下政治への批判である。橋下の伝統を軽んじ、グレート・リセットを掲げる橋下の「理性偏重」を指摘する。

第四章では保守派があまり関心のない貧困問題について議論されている。新自由主義経済により雇用の不安定化を生じさせ、それによりこれまで築き上げてきた日本の伝統が壊れたことを指摘する。

第五章では大東亜戦争への持論を述べる。中島は左右両陣営の先の大戦の主張を共に評価をしない。代わりに、先の戦争の思想にあった設計主義的な理性の過信を批判する。当時の保守思想家が示した先の大戦の評価を述べる。

第六章では、東日本大震災の教訓について述べられている。人が人として生きるための場所が規制緩和などの新自由主義政策によって壊されたことを指摘する。さらに第四章との関連で原発事故による人々の生きる場所の破壊も原発反対の根拠の一つであると主張する。現代日本の地域社会はそのようにして破壊されているが一刻も早く復活させるべきだと主張する。

第七章では徴兵制反対の理由を述べている。徴兵制とは軍の大衆化であり、それは自衛隊としての誇りを失わせることになるからということである。

第八章ではナショナリズムが議論されている。日本人が自然にもつナショナリズムを肯定して、ナショナリズムの意識から同胞を救うための国家的再配分の充実化を正当化する。そのことによってこれまで進められてきた「小さすぎる政府」を改め直すことができると主張する。

書籍版あとがきでは本書の出版裏事情が書かれている。もともと本書はNTT出版から出る予定であったが、橋下批判の章があったためそこを削除して欲しいと言われた。そのような橋下批判の自粛そのものが橋下現象であると中島は思い、出版の経緯をあとがきに書いた。

文庫版のあとがきは安倍政権について書かれている。

 

 

各章のまとめとその批判

はじめにpp.5-8

中島の個人史。中島の著作はしばしば冒頭で彼の個人史が語られる。

…西部氏は人間の理性を超えた伝統や良心、経験知に依拠した漸進的改革の重要性を力強く説きました。

p.6 

 

一方で、『発言者』以外の同時代の日本の「保守派の論客」とされる人々の本や論考なども読んでみました。しかし、私はどうしても多くの「自称保守派」の議論を受け入れることができませんでした。それどころか、激しい反発と嘔吐感さえ沸き起こり、彼らの著作をあっという間に手放してしまいました。
    戦後民主主義批判が高まっており、左翼への激烈な反発をつづった文章がもてはやされ始めていました。そこでは極めて短絡的な左翼批判が繰り返され、リベラルな精神を足蹴にする議論が溢れていました。
    私は、この「反左翼」の議論に強烈な違和感を覚えました。彼らは「左翼の反対側」たることで自己のポジションを確認する「逆説的な左翼へのパラサイト」ではないかと思いました。

p.7

 

本書は、私の思考の軌跡の途中経過を示したものです。いずれしっかりとした理論書を執筆する予定ですが、とりあえずは大きな枠組みと、具体的な事象への批評を示すことで、全体像のラフスケッチを描いてみたいと思いました。

p.8

 

序章 「リベラル保守」宣言pp.11-27 

保守とリベラルは逆の概念に思いがちである。だが、リベラル保守こそが重要であると著者は主張する。

私は「リベラル保守(liberal conservative)」という立場が重要だと考えています。真の保守思想家こそリベラルマインドを有し、自由を積極的に擁護すべきだと思っています。

p.12 (Section: 「リベラル」vs.「保守」?pp.12-13より)

 

平等という名の画一化

p.12

 

寛容とはリベラルのことである。 保守思想は寛容を是とする。

真の保守思想は、他者への寛容を是とするリベラルマインドによってこそ生命力を得ることができます。
   革命政府による平等社会実現を目指した共産主義者は、抽象的な人間による絶対的正義の実現を目指した結果、自己とは異なる価値観を持つ人間を排斥し、抑圧してきました。彼らは人間社会の完成可能性を信じ、理想社会の実現を目指した果てに、他者への寛容性を欠いていきました。

pp.21-22 (Section: 「寛容」としてのリベラル pp.19-22より)

 

寛容はいいもののそれはそれで新たな問題が生じる。それが価値相対主義である。それは結局、真の寛容が崩壊する。

結局、「私の追求している真理とあなたの追求している真理は別」という前提に立ち、その際を互いに認め合おうという相対主義が前面に出てきてしまうのです。
      多元主義相対主義に陥るとき、真の寛容は崩壊し、自己と他者を切り離す<断絶のポリティクス>が起動します。ここに対話による和解の契機は失われ、共通善への意志は失速してゆきます。

p.24 (Section: 相対主義の限界 pp.22-24より)

 

真理はただ一つである。 我々が知り得るのは真理の影のみである。

宗教や文化の差異は、真理の差異ではありません。それはあくまでも真理に至る道の多様性であって、言語化できない究極の真理は常に一つです、一つでない真理は真理の名に値しません。真理が三つも四つもあるとすれば、それは絶対的存在ではなくなってしまいます。
   ただし、時間・空間に縛られた有限の人間には、無限の真理を完全に掌握することなどできません。我々が知り得るのは、「真理の影」であって、真理そのものではありません。真理は常に地平の向こう側に存在するのです。

p.25 (Section: 多一論的なリベラル保守へ pp.24-27より)

 

そのような寛容のパラドックスを超える方法がある。それは西田幾多郎の「多と一の絶対矛盾的自己同一性」やインドの不二一元論(ふにいちげんろん)や中国の老荘思想など東洋思想に馴染み深い多一論である。つまり真理の至る道は複数あるが真理そのものはただ一つであるという考えである。保守はそれを認める。

真正のリベラルは、真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認めます。キリスト教であろうが仏教であろうが、イスラームであろうが、形式は異なれども、究極のメタレベルにおいては、同一の真理を共有していると考えます。そして、ここに真の意味の寛容が生まれ、相対主義を乗り越えることができると捉えているのです。

p.26 (Section: 多一論的なリベラル保守へ pp.24-27より)

 

我々は、相対主義リベラリズムを克服し、多一論的リベラリズムへと歩みを進める必要があります。

p.26 (Section: 多一論的なリベラル保守へ pp.24-27より)

 

「多一論的なリベラル保守」という立脚点こそ、今の時代に求められているスタンスだと、私は考えています。

p.27 (Section: 多一論的なリベラル保守へ pp.24-27より) 

 

 

第一章 保守のエッセンスpp.28-111

まとめ

近代保守思想はフランス革命を支えた啓蒙主義に対する批判から生まれた。

引用文(1)

そもそも近代保守思想は、フランス革命を支えた啓蒙主義に対する批判として、その姿を現しました。近代保守思想の潮流は、伝統的な政治体制が根本的な崩壊の危機に立たされたときに、再帰的に誕生したのです。

pp.30-31 (左翼とは何か?pp.30-33より)

批評のQuestion 1を参照。

 

保守を定義するためには左翼とは何かを知らなければならない。左翼とは「人間の理性によって理想社会を実現することが可能である」という立場である。

では、近代保守思想を誘発した「左翼」思想とは、どういったものなのでしょうか。最大公約数的に定義するなら、「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能と考える立場」と言えるでしょう。彼らは、人間の理知的な努力によって理想社会の構想を設計し、それを実現することによって、未来に進歩した社会が現前すると仮定しました。人間の努力によって、世の中は間違いなく進歩してゆくというのが、左翼思想の根本にある発想です。

p.31

そこから、進歩の概念が生じ、設計主義が生じる。

人間が完成可能なわけですから、もちろんその人間によって構成される社会も、進歩によって完成形に到達すると考えます。ここから合理主義的に社会を改造し、理想社会を構築しようとする設計主義が出てくるわけです。

p.31

共産主義社会民主主義アナーキズムなどの左翼には国家の存在の如何にしたがって立場が変わっていく。だが、彼らに共通するのは「「人間の理性によって平等社会を作ることができる」という進歩主義」(p.33)である。

したがって左翼思想のアンチとして登場した保守主義はこのような考え方を疑う。つまり、「人間の理性による理想社会の実現は不可能である」と保守思想家は考えるのである。

保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性よって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
   保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根源的に疑います。

p.34(保守とは何か? pp.34-37より)

 

引用文(2)

人間の理性や知性には決定的な限界があります。どれほど優れた能力の持ち主でも、世界のすべてを把握することはできず、非合理的な人間がかたちづくる未来社会のあり方を見通すことはできません。世界は永遠に不確実で、不透明です。
    賢者は、理性がパーフェクトな存在ではないことを理性的に把握し、知性には一定の限界があることを知的に認識します。保守思想は理性を否定するのではありません。真に知的な人間は、理知的に思考すればするほど、その思考には決定的な限界があることを理知的に掌握します。知性ある人間は、理性の乱用から距離をとり、傲慢を遠ざけようとします。保守思想が疑っているのは理性そのものではなく、理性の無謬性なのです。

p.38 (進歩でも復古でも反動でもなくpp.37-39より)

批評のQuestion 2を参照。 

 

保守は人間の不完全性・理性の限界を認め、そこから理性よりも神や良識や伝統を尊重する。

保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
   保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。

p.34

 

保守は進歩に対する楽観的・希望的な観測などよりも、歴史的に蓄積されてきた社会的経験値を重視し、慣習や社会制度を媒介として伝えられてきた歴史の「潜在的英知」に信頼を置くのです。

p.35

 

保守は、時間的変化に応じ、歴史に潜む潜在的英知を継承するための漸進的改革を進めようとします。その漸進的改革は、根本のところで「進歩に対する諦念」を内包しています。

p.36

 

 

保守は理性を疑っているので、エリートによる設計主義を否定する。さらに、人間の不完全性から過去・現在・未来にいたるユートピアの存在を否定する。つまり、過去のある時期にユートピアは存在しなかったし、現在もユートピアは存在しないし、いつか来る未来にもユートピアは存在しないと主張するのである。

懐疑主義的人間観をもつ保守思想家は、エリートの設計主義による理想社会の実現という構想に対して、疑いの目を向けます。保守は「裸の理性」によって構想されたユートピア幻想を否定し、急進的な改革や革命を厳しく批判します。

p.35

 

人間は過去においても、現在においても、未来においても不完全なままです。不完全な人間が構成する社会は、歴史的に完成したためしがなく、今後も完成形に到達する可能性はありません。

p.35

 

このように人間の不完全性を直視する保守思想家は、過去の一定に帰ればすべてがうまくいくという「復古」の立場はとりません。また、現在の制度を絶対に変えてはならないという「反動」の立場もとりません。なぜなら、過去も現在も、未来と同様に不完全であるからです。

p.36

 

保守の思想は小林秀雄が述べる「あらゆる現代は過渡的であると言っても過言ではない」という考えやラインホールド・ニーバーの詩---そこには自分には何が変えることができて何が変えることができないのかその分別の知恵を神に願っている詩---に通じるものである(p.36)。

重要なのは、変化に対する覚悟を持つことと、堅持することの沈着さを持つことです。そして、「何を変えるべきか」「何を変えてはいけないか」を見極める知恵を、歴史から継承された平衡感覚に求めることです。

p.36

 

保守は進歩史観を否定する。

引用文(3)

保守は「進歩」という立場をとることができません。残念ながら、未来の人間社会も欠陥だらけの代物にすぎず、すべてが満たされた世界を人為的に構成することはできません。進歩思想には間違いなく理性への傲慢が潜んでいます。保守は、そのような立場を懸命に避けようとします。

p.39

批評のQuestion 3を参照。 

 

保守主義者は革命やグレート・リセットなどの急進的な改革を支持せず(そこに孕む理性偏重ゆえに)、漸進的な(グラジュアルな)改革を支持する。

保守は社会変化に応じた漸進的改革を志向します。急進的な革命主義ではなく、現状にしがみつく固執的な反動でもなく、保守はグラジュアル(漸進的)な改革を望みます。

p.40

中島が示している漸進的な改革の一例を示そう。長い引用であるがご了承してもらいたい。

引用文(4)

一例を挙げましょう。現在の日本社会が直面している少子高齢化という状況は、かつての高度経済成長期には考えられなかったような変化と言えます。医療の発達により、人間の寿命は延び、価値観の多様化などによって子供の数は減少していきました。我々は、かつての日本社会とは大きく異なる人口構成の社会に生きています。おそらくこの流れは今後も続き、若者の相対的人口は減少し続けることになるでしょう。
   このような社会の変化に対して適応しなければ、日本社会を維持していくことができません。過去の制度のままでは変化に対応することができず、現実との不整合が生じることになります。我々は変化に応じて制度をグラジュアルに改革しなければならず、そのための努力を怠ってはなりません。
    漸進的な改革を進めるときに重要なのは、歴史に基づいた歴史感覚です。現在は常に過去によって支えられています。

pp.40-41(漸進的な改革 pp.40-42より)

批評のQuestion 4を参照。

 

「保守は、「理性に基づく進歩」ではなく「過去へと遡行する前進」を志向します。」(p.41)

 

保守思想において重要なのは「再帰性」である。それは特定の価値を客体化して、自ら主体的に引き受けることを言う。 

再帰的」というのは、特定の価値をいったん客体化した上で、主体的に引き受け直す意志のあり方を指します。

p.62(保守のロゴスと再帰性 pp.61-63より)

 

保守にとっての漸進的改革とは、悪習を排するためのものである。保守が守るべきものは「精神のかたち」である、と中島は言う。我々は「精神のかたち」を再帰的に選ばなくてはならない、と。

人間は様々な慣習の中に生きています。そして、その慣習を介して歴史的に獲得された経験知や良識を身につけています。しかし、保守思想が守ろうとするものは、その慣習の実体そのものではありません。保守にとって重要なことは、慣習の中に潜んでいる「精神のかたち」であり、その「精神のかたち」(つまり伝統)こそが特定の集団の安定的秩序を構成しているという自覚を持つことなのです。
    保守にとっての「伝統」とは、慣習という実体を伴いつつ、その実体を通して表現されている「精神のかたち」です。そして、その「伝統」はそのあたりに転がっている昔の遺物などではなく、意志を持って意識的に捉え直さなければならない再帰的存在です。
  であれば、保守は特定の慣習にしがみつくのではなく、時に「精神のかたち」から逸脱している(と良識的に見なされる)慣習については、それを「悪習」と見なして改革することもやぶさかではありません。慣習の実体を反動的に保全することが、保守思想に適っている(かなっている)というわけではないのです。この点を理解しておかなければ、特定の慣習に固執する反動主義者になってしまいます。

pp.66-67(伝統によって悪習を改革する必要性pp.66-67より)

 

さて、保守思想とは「理性の限界を認める立場」である。それは政治そのものへの限界にも通じることになる。つまり、保守は政治の万能性も否定するのである。

もちろん政治は極めて重要な営為です。政治を欠いた社会は存在しません。
   しかし、すべてのイシューが政治に還元される社会も、やはり問題があると言わざるを得ません。

p.75(オークショットの政治主義批判 pp.74-77より)

 

引用文(7)

私たちはニヒリズムを超えて、人間社会の完成不可能性に堪える意思と覚悟を持たなければなりません。
   「政治の万能性」を懐疑し、「好ましいことを不可能でなくする」ための改革を持続する態度こそ、保守派の政治に対する構えです。自己の存在論的問いを「政治」に全面的に求めることは、断じて避けなければなりません。政治はすべてを救済してくれるものではなく、人間の真に重要なアイデンティティに解をもたらしてくれもしません。

p.81(Subsection: 福田恆存「一匹と九十九匹と」pp.77-81より)

批評のQuestion 7を参照。

 

したがって、保守は宗教などの「政治の外部」に注目せざるをえなくなる。チェスタトンにとってはキリスト教であり、福田恆存にとっては絶対者であり、中島にとっては親鸞及び浄土真宗である(p.99)。

保守思想にとって、宗教への関心は欠かすことのできない要素です。人間の理性の完成可能性を疑い、その能力の決定的限界を謙虚に受け止めようとする者は、人間の不完全性を認識するための指標として、「超越なるもの」を必要とします。

p.98(保守における宗教の役割 pp.96-98より)

 

現代においてデモクラシーを否定するのではなく、うまく制度を整え何とかして社会の秩序を保つことが大切だと、極めて常識的で抽象的な結論を中島は導く。そして、デモクラシーを健全にするためには「中間団体」の存在と「伝統」の存在と「絶対者」の存在を指摘する。

現代社会においてデモクラシーを否定し、回避するのではなく、この不完全で過ちを犯しやすい政治制度をうまく飼いならし、社会秩序を何とか保っていく方法を模索するのが、懸命な態度ではないでしょうか。
    我々が先人から学ぶべきは、デモクラシーが健全に機能するためには、人間交際の基盤となる「中間団体」が重要であり、歴史的な「伝統」、そして神や仏といった「絶対者」の存在が前提となるということではないでしょうか。

p.102(敬天愛人のデモクラシー pp.100-102より)

 

最後に保守においての「絶対的目的」と「相対的目標」の区別について中島は議論する。このような区別は中島が自称する多一論的リベラリズム保守に通ずるように思われる。

彼[引用者注: 高坂正堯(こうさかまさたか)]が論じているのは、理想と現実の「生き生きとした会話」の必要性であり、そのバランス感覚を歴史から学ぶ態度の重要性でした。

p.105(E.H.カーと高坂正堯pp.102-107より)

 

高坂が、ここで「絶対的目的」と「具体的目標」を区別したのは、カントが「統整的理念」と「構成的理念」を区別したことと似ています。カントは、人間が絶対に到達できない究極な理念を「統整的」とし、それに対して具体的で現実的な政策目標を「構成的」と定義しました。そして、この理念の二重性が担保されない限り、現実社会の改善は進まないと説いたのです。

p.107

 このような区別は福田にもあった(p.108)。福田は垂直に交わる不動の絶対主義としての絶対平和の理念と相対的理念を区別して考えていた。「絶対があつてこその相対ですから」(p.108)。

  

批評

Question 1: 引用文(1)より。そもそも保守はアンチ左翼から生まれたから、アンチ左翼としての保守は別に間違っていないのではないか? 「逆説的な左翼へのパラサイト」(p.7)と中島が言うのが、保守のもともと伝統ではないのか? 

 

Question 2: 引用文(2)より。では、一体理性の限界とはどのようなものなのか? 思考の限界とはどのようなものなのか? 

 

Question 3: 引用文(3)より。進歩の否定と多一論は矛盾するように思われる。あくまでも、ユートピアに到達できないだけであって、ユートピアに近づくことはできないのか? もし近づくこともできないならば、多一論と矛盾するように思われる。多元主義はただの相対主義に成り下がってしまうのではないか?

 

Question 4: 引用文(4)より。ほう、では具体的にはどのような政策があるのか提言してもらいたいな。グラジュアルな政策とやらを。もちろんそんなものは書かれていない!!! このような誰でもが知っている当たり前のことしか言わないのである!! 何が、漸進的な改革だよ!!

 

Question 5: 中島は橋下批判をする際に、次のように言っている。

橋下氏は、意志ある首長には改革が可能であると語る一方で、議院内閣制では「誰が首相をやっても改革は前に進まない」と批判します。そして、旧来の仕組みを改革するには、「首相公選制と道州制導入しかない」と力説しました。
    ここには理知的能力の過信や驕りと共に、議論の軽視が見られます。個々人の理性的判断が無謬でない以上、我々は他者の声に耳を傾け、傾聴に値する見解によって自己を変革させなければなりません。

p.44(「グレイト・リセット」への懐疑 pp.42-44より)

中島は道州制の導入に批判的である(別の箇所ではよりはっきりと書かれている)。そうなるとますます中島岳志明治維新の評価が気になる。廃藩置県によってこれまでの文化や伝統が壊されたことは否定できないからである。

 

Question 6: 世論と独断の共犯関係pp.56-59より。

だからと言って、すべての議論をすっ飛ばし、独断で決定する政治が良いとは思えません。議会制民主主義の重要な点は、代表者が国会という場で異なる他者と出会い、対話と交渉を通じて合意形成するところにあります。少数者の意見でも「なるほど、一理ある」と思える意見であれば、それを最大限に尊重し、状況の中で調整することが重要なポイントとなっています。

p.58

 一体、このようなまともな議論が国会で行われたことがあるのか? 与党も野党も政局しか考えていない。官僚の文章を読んでいるだけじゃないの?

 

Question 7: 引用文(7)より。政治に自己の存在論を求めてはいけないとは書かれているけれども、それでは、政治には何を求めるべきなのか? 

 

Question 8: 敬天愛人のデモクラシー pp.100-102には、一応、明治の頃の話はあるが、明治維新の評価はない。

 

Question 9: とくに批判の意味はないけれども、気になった箇所。

真の保守思想家にとって、日米安保に寄りかかり、自国防衛の覚悟を引き受けようとしない現実追随主義者は、「絶対者を欠いた絶対主義」を振りかざす進歩主義者と同様の存在にすぎません。その点で、憲法9条と日米安保体制は、極めてリンクしやすい性質を持った存在だということができるでしょう。真の保守は、思想的次元において日米安保体制を疑うべきなのです。

p.110(福田恆存「平和論にたいする疑問」 pp.107-111より)

「命よりも大事な価値がある」だったり「憲法9条を信奉するものは絶対者を欠いた絶対主義者」と主張しているが、よくそんな人が『週刊金曜日』というゴリゴリの左翼メディアの編集委員として中島が活躍しているのが、不思議でならない......。どうしてなんでしょうねぇ......

 

 

第二章 脱原発の理由 pp.110-131

まとめ

第二章以降は具体的な問題を保守の観点から批評するというものである。原発問題に対して左翼が反原発だから保守はその反対を支持するといったアンチの論理を超えるべきだと中島は言う。

「左翼が反原発を唱えているので、反対のことを言うのが保守」というアンチの論理を乗り越えるべきです。原発論争が日本の保守派が左翼へのパラサイトから抜け出し、思想としての保守を探求するきっかけになるべきだと私は考えます。

pp.133-134

中島は保守の観点から脱原発を支持する。本章では前半部分でその理由を述べ、後半部分で原発推進論者の吉本隆明に潜む「設計主義的合理主義」を批判する。 

 

原発問題に対する中島の意見は、一気に原発をなくすのではなく徐々に原発をなくして最終的には脱原発にするという極めて常識的なものである。

かく言う私も、原発には否定的な意見を持っています。一気にすべての原発をなくしてしまえという急進的な立場ではありませんが、漸進的(傍点著者)に脱原発を進めていくべきだと考えています。

p.113

その理由は保守の論理からであると言う。

保守は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、代わりに人間の能力を超えたもの(神や伝統など)を重要視する。革命のような極端なものには人間の驕りがあるのでそれを嫌い、漸進的な改革を志向する。

保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。よって、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神仏のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する者の心中には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。

p.114

 

保守派は設計主義的な合理主義を拒否する。そして保守派は進歩主義も拒否する。

保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。
    保守派は進歩主義を疑います。人間の理知的な力によって未来は究極の理想に向かって進歩するという発想を退けます。

p.114

 

このような人間の不完全性に注目すると、あらゆる科学技術に対して不信が生じてしまう。そうなれば、すべての技術は停止してい世界は滞る(p.116)。したがって、保守が科学技術の是非を問うときは、それの利便性とリスクを天秤にかけて判断しなければならないということである。例えば、自動車事故で年間4000人以上の人命が亡くなっているし、飛行機事故も決してなくなりはしない。だが、それらのリスクと利便性を考慮して我々は自動車も飛行機も選んでいるのである。

重要なのは、事故や故障が起こることを前提に、その利便性とリスクを天秤にかけて利用する英知とバランス感覚です。

p.116

したがって、原発問題も同様にリスクと利便性を天秤にかけて判断しなければならない。

原発も、同様の前提の下で考える必要があります。原発のリスクと利便性を天秤にかけたとき、どのような判断をするべきかを考え抜く必要があります。

p.116

つまり、人間は不完全だから原発はじめとしたあらゆる科学技術はいけないという話ではない。そうではなくリスクと利便性の両方を考えてその技術を使用するかどうかを判断しなければならない。

 

さて、そのような前提のもとで原発について考えよう。原発は一旦事故が起こってしまうと中長期的に国土が汚染されてしまうというリスクがある。国土の喪失は保守主義者にとって決して認めることのできない暴挙である。このリスクは自動車などのリスクとは全然様相の違うものである。

自動車も飛行機も、確かにリスクを有しています。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。また、周囲もかなり広範囲にわたって放射能の危険にさらされ続け、水や食品に影響が出続けます。長い年月をかけて構成されてきた歴史的景観、人間の営み、農地の土壌---そういったものを一気に放棄しなければならない事態が生じてしまいます。直接的な被害だけでなく、その不安や精神的圧迫感なども考慮すると、そのリスクはあまりにも大きすぎるというのが実情でしょう。原発事故はこの国土を手間隙(てまひま)かけて整備し、守ってきた先祖に対する冒涜であり、歴史を寸断する暴挙です。

p.117

 

原発事故は、他の事故とはフェイズ(様相)がまったく異なります。人命を超えた壮大な価値そのものが、決定的な危機にならされるのです。

p.123

 

原発事故が起これば、これまで積み重ねられてきた伝統や歴史を破壊される。しかもその破壊は他の災害とは違い修復不可能性を有する。これは保守派が決して看過することのできないリスクである。

原発事故は広大な国土を台無しにし、そこで歴史的に積み重ねてきた先祖の英智を根源的に破壊します。長年の間、有名無名の日本人によって継承されてきた伝統や慣習が、一瞬にして消滅の危機にさらされるのです。保守派を名乗るものであれば、そのような事態を全力で阻止し、命を懸けてでも死守しようとするはずです。
     震災や戦災でも、社会は破滅的な被害を受けますが、人々の努力によって復興や再生が可能です。今回の地震では、津波によって膨大な家屋が流され、町が破壊されました。しかし、凄惨な爪痕を残した後に津波が引き、一時の動揺が収まると、人々はまた生活を回復し、町を形成して生きます。そして、伝統を再生すべく立ち上がることが、新たな活力にもなります。人間は喪失に直面することで、真の価値を再帰的に想起します。この再帰的な意識こそが、伝統を継承する意思へとつながるのです。
     原発事故はそのような前提するも破壊します。放射能で汚染された地域には、相当程度の期間、防御装置なしでは立ち入ることすらできません。復興や再生の土台となる空間そのものが失われるという事態に陥るのです。

p.122

 

 

さらに、日本は地震大国である。地震が起こることを前提として生きなければならない。地震の規模は問題ではなく地震の場所が問題である。活断層がどこにあるのか分からない以上、日本中のどこでも地震が起こる可能性がある。我々はこの「ナショナルな宿命」(p.119)を受け入れなければならない。

日本という国にとって、地震は宿命的存在です。ここで生きるということは、地震を前提に生きることに他なりません。

p.118

 

日本列島のどこに活断層があるのかをすべて完全に把握することは、現在のアカデミズムでは不可能なのです。
    結局のところ、私たち日本人は活断層の存在を前提に生きなければならないという「国民的宿命」に行き着きます。どの活断層がいつどのように動くのかは、今のところ誰も正確には予想ができません。未知の活断層が動く可能性も十分にあり得ます。

p.119

 

完全に安全な原発などは存在しない。そのように考えることは理性を過信しているので、保守主義者はそのようには考えない。

「安全な原発には賛成」という専門家がいますが、そのような前提は人間が人間である以上、成り立ちません。原発は事故が起こることを前提に考えなければならず、私はリスクの高すぎるこのシステムには批判的にならざるを得ません。人間の不完全性を冷徹に見つめる保守思想に依拠する以上、原子力発電という過剰な設計主義的存在には懐疑的にならざるを得ないのです。

p.117

功利主義的に死者数で事故の規模を測ってはならない。なぜならそのような考えこそ保守が批判していなものであるからである(p.121, p.124)。

 

 

要は、中島の論拠は(1) 原発事故が起これば、それは国土を失うほどの甚大で再起不能なものであり、それを保守が認めることはできず、(2) 地震を生じさせる活断層がどこにあってどのような規模であるかどうかも、我々は知ることができない以上、日本中で地震が起こることを想定せざるを得ず、したがって、地震が起こらない場所に原発を立てるということもほとんど不可能であり、(3) 地震が起きても大丈夫な完璧な原発を作ることは、設計主義的理性主義であり、保守思想ではそれを認めることはできない、というものである。

保守派にとって原発の是非は極めて難しい思想課題となっています。私自身は地震大国というナショナルな宿命と伝統の継承という文明の宿命を重視するがゆえに脱原発の方向を探るべきだと考えています。

p.133

 

 

後半は原発推進論に潜む「理性主義」を批判する。その代表として吉本隆明の2011年8月5日『日本経済新聞』のインタビューと彼の著書 『「反核」異論』を取り上げて批判する。

吉本の原発推進論には、二つの側面があります。一つは「進歩主義」という側面です。科学を前進させることは人類の進歩そのものであるとし、原発の危険性は「完璧な防御装置をつくる」ことで乗り越えるべきという発想は、理性・知性の無謬性を基礎とする設計主義的合理主義に依拠しているのでしょう。
    しかし、吉本の発言には、もう一つの側面が付随します。「原罪」という認識です。「原罪」とは、神の命令に背いてアダムとイブが禁断の木の実を口にした罪のことで、キリスト教ではアダムの子孫である人類はこの罪を負うとされます。つまり、人間の存在そのものに内在する罪が「原罪」です。
    吉本は、科学を推し進め、危険な原発を作ってしまったことを「原罪」と捉えました。原発は人間の存在自体の罪に由来するもので、原発を否定すれば、人間であることを否定することになると主張したのです。

p.126

 

吉本は、「科学」と「政治」の分別を強調しています。彼にとっての科学とは、政治とは別次元の普遍的存在です。政治の恣意性に対して、科学は絶対的な存在です。絶対の次元に属する科学と、相対的な価値の闘争である政治を混同してはならないと吉本は訴えました。
     吉本にとっての核エネルギーの技術は、科学による新しい物質エネルギーの解放という普遍的次元の問題です。もし、それを手放せと言うのであれば、人類の存在そのものに対する反動であり、科学的解明を否定することにつながると、彼は考えているのです。そして、その観点から、反原発を訴える「既成左翼」を批判し、科学的進歩主義に立つ自らこそが真の左翼であると主張したのです。

p.128


つまり、核エネルギーの解放は、政治や倫理を超えた自然の「本質」に属しており、これを政治的に抑制すると「暗黒主義や原始主義」に陥ると訴えたのです。原発を進めることはすなわち自然を解明することであり、反原発の主張は人間に退化を要求する反動主義に他ならないのです。

p.129

 

保守派の立場ではこのような考え方を支持することはできない。

保守派としては、この吉本の議論を受け入れるわけにはいきません。人間の不完全性の認識を基礎に、理性や知性の限界を見つめてきた保守思想は、科学の本質的問題をさらなる科学の進歩によって乗り越えようとする態度に異論を挟まざるを得ません。人間が不完全である以上、原発が抱える安全性の問題や核廃棄物の問題を完全に乗り越えることはできません。いつか必ず何らかの欠陥が生じ、人為的なミスが起こります。そして、その欠陥やミスが、大規模に国土を破壊する事態へとつながります。私たちは、人間の誤謬性を前提として、特定の科学技術の実用化を進めなければなりません。

p.131

 

さらに、中島は人間の科学追求自体にも懐疑の目を向ける。

科学の追求は、果てしなく続きます。人間が立ち入ってはならない領域に、踏み込んでしまう可能性もあります。長い年月をかけて蓄積されてきた人間社会の倫理や摂理が崩れ、極度の戸惑いと不安が巻き起こります。

(中略)

例えばDNAの複製技術が進化し、クローン人間が誕生すれば、人間存在の根源的なあり方が変化するでしょう。そうすれば、「私は誰なのか」という問いが空転します。
    人間には、科学を追求する性質があります。世界の原理を探究したいという欲望を完全に捨てることは難しいでしょう。この人間的行為が人間社会を崩壊に導く可能性がある以上、絶対的な矛盾が生じます。

p.132 

 

人間の原罪は、人間が歴史的・社会的・集団的に蓄積してきた良識や経験知によって抑制され、その行きすぎた発露には待ったがかけられてきました。保守派は、この「精神のかたち」を「伝統」と呼び、これを保守しようとしてきました。
    ニュートリノ、クローン、iPS細胞、原子力----
人間はこれからも果てしなく原理の追求を行うでしょう。ある段階で人間存在の根本を崩すような局面に遭遇したとき、この原罪を抑制する規範を発動しなければなりません。この精神の継承こそ、「文明の宿命」なのです。

p.133

食欲も性欲も原罪である。だが、それらを全面的に解放せよとはあまり考えられない。「暴飲暴食は慎むべき」という規範によってブレーキがかけられる(pp.132-133)。同様にして知識欲もブレーキがかけれらなければならず、原罪の自由な解放を認めるわけにはいかないと中島は言うのである。 

 

批評

中島の主張自体は常識的であり、その根拠も悪くはない。評者も賛成である。だが、中島ははじめ「科学技術を評価するためにはそのリスクと利便性を天秤にかけなければならない」と言っているにも関わらず、原発のリスクしか議論していない。つまり原発の利便性を一切議論せず、リスクと利便性を天秤にかけることなく脱原発の判断をしているのである。この議論は読者にミスリードを誘う。ちゃんと、原発の利便性も議論した上で、反原発の結論を導いてくれたらなおのことよかった。それだけに残念である。

 

あのような未曾有の大惨事はやはり1000年に一度のものであり、今回の惨事を例外とみなす考えも悪くないように思われる。というのも、そのような滅多に起こらないことを考慮して、原発を廃止することは、合理的な選択ではないかもしれないからである。脱原発に伴うコストを支払い、代わりに原発の利便性を捨ててまで、1000年に一度の大惨事を回避しなければならないのかと疑問に思うかもしれない。原発事故は起こしても国土喪失という最悪の事故を回避するということは可能かもしれない。「国土喪失するかもしれないから原発反対!」というのはあまりに短絡すぎであり理性的な判断ではないかもしれない。

正直、評者もその反論を完全に否定できない。やはりちゃん原発の利便性と脱原発のコストを鑑みたうえで結論を出さなければならないと思う。心情的には中島と同じであるが。

 

中島の主張のほとんどがそうであるのだが、脱原発の具体的な政策がないというのが挙げられる*1。「なるほどね。君は徐々に脱原発するべきだという意見だね。それはわかったのだが、それじゃあ、具体的どうすればいいと思うのか、ぜひ意見を聞かせてくれないか?  いつまでに原発をゼロにするんだ? 代替のエネルギーはどうするんだ? 汚染物質はどうするんだ? 原発廃炉をどのように進めるんだ? 」

このような質問を中島したら、具体的な考えがあるのだろうか? もちろんない。中島はそのような具体的な政策についてはほとんど関心がないからである。思想的なものにしか興味がないから。

 

最後に科学の追求そのものへの疑念についてである。中島は人間の知識欲を認めつつも、それを場合によっては抑制しなければならないのではないかと、疑問を呈している。それは食欲や制欲が完全に認められておらず常に社会によって抑制されているのと同様に知識欲も社会に抑制されなければならないのではないかということである。正直、評者はその意見に与することはできない。

まず、中島は「科学研究」と「技術革新」を区別する必要がある。科学研究はサイエンスの分野であり、それは知識欲の発露である。対して、技術革新はテクノロジーの分野であり、それは社会への応用である。中島が危惧するクローン人間の登場や原子力問題はテクノロジーの問題である。それはそれで議論しなければならないし、社会やその伝統に抑制される。それは認める。例えば、ドイツでは脱原発を支持するが、フランスではそうではないというのはそれぞれの国柄や文化や慣習などに左右されての結論であると思う。

だが、科学研究自体の探求はそのような社会的な抑制があってはならない。そこは無条件の自由な知識欲の解放である。つまり評者の考えは、「サイエンスの分野ではいかなる制約もあってはならず自由な知識欲の探求であり、それは正しいことである。が、その科学の知識を応用するテクノロジーの分野では社会的な制約や文化を考慮されなくてはならない」という常識的なものである。もしも、中島がサイエンスの分野でもある種の社会的な制約も必要であると考えるならば、評者は反対である。

実は、そのような「科学探求自体の罪」を指摘した人がいる。それは唐木順三である。唐木は最晩年の『「科学者の社会的責任」ついての覚え書き』で、科学探求自体の罪について言及している。正直、数年前に読んだっきりで内容は忘れてしまったが、評者のような「サイエンス」と「テクノロジー」の峻別を唐木は批判していた。{E = mc^2}を発見した時点で原爆は予想できたのではないかということである。発見すること自体は悪なのではないかという問いであった。科学及び科学者の責任についての問題は極めて重要でかつ難しいので、これ以上のことは述べない。が、保守の観点から科学者の社会的責任についての議論を聞いてみたいと思う。これから中島がどの程度までその話題を議論するか楽しみである。

 

 

(第三章に続く)

*1:本書を批評すればそのことが中島の具体性のともわない意見を容易に見ることができる。