疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.5 中島の保守思想へのいくつかの疑問

中島岳志の著作の書評の続き。中島岳志の保守思想に対するいくつかの疑問を呈す。これらの疑問が解決されない限り、中島の思想に説得力はないと思われる。中島の思想に関することは前の記事に書いたのでそれを参照していただきたい。

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.1

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.2

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.3

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.4

 

 

 

疑問 1: 保守の定義について  中島の保守の定義はほとんどの人に当てはまるのではないか?

中島の保守の定義は「理性の限界を認める立場」ということである。一方で左派は「理性の無謬性を認める立場」であるとのことである。さて、第一の疑問はこの保守の定義はほとんどの人に当てはまるのではないかということである。

かつてならば(例えば冷戦下)、人間の完全性が信じられていたかもしれない。つまり社会主義共産主義の理想がまだリアルに感じられていたかもしれない。そのような時代ならば、中島の保守の定義は悪くはないだろう。なぜなら理性の限界を認めている人が少なかったからである。だが、現代は違う。ソ連が崩壊して社会主義共産主義に説得力がなくなったり、リーマンショックなどの市場の万能性の否定などが起こったからである。よって、現代においてよっぽどの頭の人でない限りほとんどの人は「理性には何らかの限界がある」と認めるだろう。したがって、中島の保守の定義はあまりにも広すぎではないのか。これが第一の疑問である。 

もちろん、これは定義の問題に過ぎない。ただ、この定義が適切かどうかが問われているだけである。中島が「保守の名がほとんどの人に当てはまってもいい」と考えるならばそれはそれでよい。 しかし、「あの人も保守」「この人も保守」とたくさんの人に「保守」の名が当てはまったならば、その定義はあまり有効なものではない。

 

 

疑問 2: 理性に限界があることそのものをどのように示すのか?

「理性の限界を認める立場」が中島の定義した保守である。では、「理性の限界」や「人間の不完全性」や「人類の進歩の否定」はどのように認められるのか? 次の2つの方法が考えられると思われる。

一つは理性自身によって理性の限界を「証明する」という方法である。つまり理性にはどこか穴が「存在する」ことを証明するということである。カントはこの流れである。

もう一つは理性の限界を実証的・帰納的に「示す」方法である。 例えば、「我々はかつてこのような悲惨なことを犯した。反省したにも関わらずまた失敗してしまった。したがって、人間の理性には限界がある」といった方法である。

 

中島は「理性の限界をどのように認めるのか」という問題を意識していないように思われる。少なくとも深く考えていない。もしかしたらそれは「経験的にそう信じるか否か」という証明の類の問題ではないのかもしれない。だが、文脈から察すると、理性自身の理性批判は否定的であると思われる。というのも、理性による理性批判は中島の言う「理性の無謬性」を前提にしているからであり、それを中島は拒否しているからである。

したがって、おそらく中島はもう一つの方法で「理性の限界」を理解するのだろう。だが、この帰納的な推測は逆のパターンも言える。つまり、「人類は最初は野蛮だったかもしれないけれども、基本的人権や自由がだんだんと認められていっているではないか? 科学は進歩しているではないか? 着実な進歩があるではないか。だからいつかはこの世界にユートピアが誕生するのではないか。」というように、人間の完全性を示すこともできるということである。結局このような歴史的・帰納的な方法によって「理性の限界」を完全に示すことはほとんど不可能なのだろう。

結局、「理性の限界」を示すことは難しく、「信じるか信じないか」といった問題なのだろう。

 

 

疑問 3: 理性の限界を認めたとしてもその限界がどのようなものなのか議論しないのか?

さて、仮に「理性の限界を認める」立場だったとして、それがどのようなものなのかということを----演繹的にせよ帰納的にせよ-----議論することはできないのか? 議論することはしないのか? 例えると以下のようなものである。

あるコンピュータがあるとする。人はそのコンピュータに欠陥があるのか無いのかで意見が分かれる。ある人たちがそのコンピュータには欠陥があると認めたとしても、「どこの部分に欠陥があるのか?」ということで意見がさらに分かれるだろう。ある人は「キーボードに問題がある」と言うかもしれないし、別の人は「ディスプレイに問題があるかもしれない」と言うかもしれない。「このコンピュータには欠陥がある」と言うだけでは普通、十分ではなく「その欠陥はどこにあるのか、どの程度のものなのか、修理可能なのか」といったことまで考えるのが自然である。

同じようにいまのことを理性の限界について考えてみよう。理性に限界があると考える人もいれば、理性は完全であると考える人もいる。仮に「理性には限界がある」と認めたとしても、それでおしまいではあまり意味はなく「どの部分が問題なのか? (例えば人間の情念は問題だ)」や「この部分は完全である(例えば数理的思考)」などを議論して、初めて「理性には限界がある」ということに意味を持つだろう。もっとも理性がどのようなものなのかということを理性自身で示すのか、それとも科学的・歴史的な知見から帰納的に推測するのかわからないけれども、いずれにしても我々の理性はどこに欠陥があるのかということを議論してもいいはずである。だが、中島はそのようなことは一切しない。ただ、「理性には限界がある」ということしか言わず、「理性の限界とはどのようなものなのか」ということを言っていないのである。それはまるで「このコンピュータには欠陥がある」としか言わず、「そのコンピュータの欠陥はどこにあるのか? どうすれば直るのか?」といったことを一切議論していないのと同じである。その言説はあまり意味がない。

 

この「理性の限界はどのようなものなのか」という問題は特に中島の「原発問題」などの科学の議論に関わる。というのも、中島は「人間の理性は限界がありしたがって、完璧な原子炉を作ることはできず必ず事故が起こり、その事故は甚大である。だから原発は廃止にすべきである」と言っているが、これは思考停止である*1。さらに、中島はがそれは我々の理性がどのようなものなのか吟味せずに、理性の限界から否定するのは早計である*2。それはまるで「このコンピュータには欠陥があるから、これは使わない」と言っているものである。

 

 

疑問 4: 進歩史観について 保守は漸進的な進歩も否定しているのか?

保守は理性の限界を認め人間の完全性を否定する。人間は完全ではないので、過去・現在・未来のいつの時代のどの場所でもユートピアは存在しないと考える。理想社会は共産主義が考えるように到来しない。その意味で保守は反進歩主義である、と。徐々に改革するべきであると保守は考えるのである。

それでは、保守はどのような意味で「反進歩主義」なのか? つまり

(1)  進歩そのものを否定している

(2)  進歩そのものは認める、したがって、理想社会へと近づくことはできるが、理想社会に到達することは決してできない(しこれまでもできなかった)

のどちらの意味で保守は「反進歩主義」なのか?

 

ここで私が主張したいのはおそらく保守であろうとある意味で(つまり(2)の意味で)進歩主義を認めているのではないかということである。

そこでもしも保守が進歩そのものを否定している----つまり(1)である----と仮定する。すると、一体「漸進的改革」とは何なのか? それは2つあるだろう。つまり一つは (i) ある究極的な理念に近づくために現実を少しずつ変えるということである。もう一つは (ii) 現実の問題を解決するために、究極の理念は関係なく、現実を少しずつ変えるということである。

もしも、漸進的改革が (i)ならば、現実が理念に少しずつ近づくという意味なのでこれは明らかに進歩を認めていることになる。だが、いまは(1)であるのでこの考えは除外される。それでは漸進的改革の意味が (ii)ならば、一体、究極の理念(統整的理念)は何のために考えられているのか? 現実問題を解決されるためにも何も役に立っていない代物なのである。それならばそんなもの一切考えなくてもいいのではないか? しかし、そのようなものを考えなければ相対主義に陥ってしまう。

 

さらに、我々は漸進的改革によって「より良い社会になった」や「より悪い社会になった」と判断するが、それは一体どのように判断されているのか? それは「究極的理想からの距離によって」ではないのか? 「究極的な理想と比べて、より良くなった」と考えるのではないか。しかし完全な反進歩主義つまり(1)ではそのように究極的な理想との比較することが不可能である。より良くなったやより悪くなったと比較することができるない。

 

以上の議論から、保守であろうとも進歩主義であると思われる。ただ、保守の立場とは、「究極の社会へ近づくことはできても(つまり進歩することはできるけれども)、そこに到達することができない。さらにワープのように理想へ一気に近づくこと(つまり革命)はできず、一歩一歩地道に歩いてしか近づくことはできない」であるのではないか。そして、もしそのような主張ならば、ほとんどの人が認めることであろう。

 

 

理想(理念)が複数あるとき人により進歩か退歩かちがう。ある政策をおこなったとする。このとき、ある人は理想に近づいたとして進歩したと考えるだろう。しかし、別の人は別の理想を持っておりしたがってその政策によって退歩したと考えるだろう。そのような人々の認識の違いはどうするのか?

おそらく、この問題は多一論で解決されるのだと思う。真理は一つであるからそのようなことは見かけの問題にすぎないといったようにである。この疑問はあまり重要ではないと思われる。


 

疑問 5: 何が統整的理念であり何が構成的理念であるかどのように判断できるのか?

中島はしばしばカントの「統整的理念」と「構成的理念」の用語を使う。「統整的理念」とは人間が絶対到達できない究極な理念のことであり、「構成的理念」とは、人間が到達できる理念のことである。それでは、ある考えや理念がどちらの方なのかどのように判断するのか、その判断基準は何か。

例えば、憲法9条の掲げている理念----つまりは平和主義・戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認----は、統整的理念なのかそれとも構成的理念なのか。つまり憲法9条の理念は究極的な目的なのかそれとも実現可能な目的なのか-------この判断は極めて難しいであろう。これは人によって判断が異なるのではないか? もし、何が統整的であり何が構成的なのかの判断が異なれば、たとえ保守の間であろうとも対立が起こるだろう。それは次のようなものである。

例えば、ある保守の人 Aは憲法9条を統整的と考えているとする。しかし別の保守の人 Bはそれを構成的であると考えているとする。Bが9条の理念を達成しようと努力しているところをAが見たら、Aは呆れるだろう。さらに、保守の立場からBを批判するだろう。「お前は実現不可能な理念を追求している。それを実現可能な目的と捉えているが、それは理性の無謬性や理性の限界を認識していない!」-----このようにAは批判するだろう。もちろん、Aは憲法9条の理念は構成的である考えているので、Bと論争して場合によって対立が深まり仲違いするだろう。

 したがって、いざこざが起こらないためにも何が統整的であり何が構成的なのかの基準は定めるべきであるが、一体それはなんなのか? 中島は答えていない。議論すらしていない。

 

 

疑問 6: 何が漸進的改革で何が非漸進的改革ではないのか、その基準はなにか?

保守は漸進的改革を望み、革新的な改革や革命を望まないと言う。では、一体、何が漸進的な改革であり、何が非漸進的な改革なのかその基準は何なのか? 

おそらく、中島の答えは歴史の平衡感覚であろう。だが、これは極めて曖昧である。より説得のある論を望む。

何がちょっとずつの改革であり何がちょっとずつでない改革なのか、結局それは人によるのではないか? もしもそうなら中島の主張はほとんど意味のないものである。

 

疑問 7: 人知を超えたものについて  人智を超えたものは神や宗教以外ないのではないか。なぜ、慣習や伝統も人智を超えたものなのか。

中島は保守は人間理性を懐疑して、代わりに人知を超えたものを重視する。私の疑問はこの「人知を超えたもの」である。それは人間の理性によって作られていないものである。これを文字通りに受け取るとその一つは「神」や「宗教」である。だが、どうして「人知を超えたもの」に伝統や慣習までもが入るのかいまいちよくわからない。そこは少し飛躍しているように思う。または、直感的には伝統も人知を超えたものであると賛成するけれども、厳密に示すのが難しいような気がする。結局、伝統も、偶然が含まれた人間の創作物ではないのか? もしそうなら人間が不完全である以上、伝統も不完全であるので信頼に置けない(つまり理性と同程度のもの)のではないかということである。さらに、古いものだからといって無批判に尊ぶ姿勢はどうかと思う。もっともこの疑問はそれほど根拠はない。

 (未完)

 

疑問 8: 伝統と因習の違いは何か?

伝統が重要であるというが、それでは伝統と因習の違いはなんなのか? 因習を悪しき伝統とするならば、よい伝統と悪しき伝統の違いはなんなのか?

因習と伝統の違い。女子教育。
何を変えるべきであり、何を変えてはならないかの判断は、歴史の平衡感覚と言っているが、かなりあいまい。

女子教育について考えてみる。
私の理想は選択の自由が増えることである。選択の自由が増えたとき、われわれまたはわれわれの社会は進歩したと言う。
私がもし明治時代の人であり、女子教育について意見を述べられたら、こう言うだろう。私は女子教育に賛成である。なぜなら、教育したいのにできない女性が減ること、つまり選択の自由が増えるからである、と。
一方で、現代においても西アジアなどイスラーム文化の国には女子教育に消極的で反対なところもある。それに対してはどう思うのか。それは、彼らの文化を尊重するということである。女子教育を推進する現地の人を間接的に支援することはあり得るが、自分たちの価値観で彼らを評価したり、蔑んだりしてはならない。なぜなら、われわれは部外者であるからである。部外者は直接彼らに指図したりすることをしてはならない。それが寛容である。
つまり、自分自身の国のことなのかそうではないかで反応が変わるということである。

それでは、この原理に従うならば、現在の日本で(問題となっている)同性婚についてはどう考えるのか。
選択の自由が増えるという意味では私は喜んでそれを認めよう。危害が加えられないという前提は言うまでもないが。
つまり、個人的には認める。だが、もし同性婚を社会的に認めるならば、話は別である。社会的に認めるとは、制度的に認めるということだけでなく、具体的な金銭的な免除や優遇政策などにも彼(女)らに与えてもいいということである。
私はそれについては微妙である。

これは、明治時代の女子教育についてならば、こうなるだろう。
私はもちろん女性が教育を受けることに大いに賛成である。だから勝手に私立の女子学校を作って構わない。だが、もし女子学校を国費を使って作るのならば、話は別だ、ということである。一個人として思想的に認めるということと、税金を使ってもいいかということは、やはり差があるだろうということである。

 

イスラーム世界には女性の姦通が死刑とされるとことがある。我々からしたらそれは因習であると思うが、相手の伝統や文化であるので否定することはできない。それが寛容であるはずだ。ではどうすればいいのか? 一体、伝統と因習の違いは何か?

(未完) 

 

疑問 9: 人が生きる意味を与える場所・役割が与えられている場所について  いわゆる中島の言うトポスについて

 

人間は自由は欲していなくて役割が必要である。その役を演じることが生きる意味を与えると。そして人に役割を与えてくれる場所を中島はトポスと言う。新自由主義の影響でトポスが破壊されアトム家された個人となった。いまこそトポスの復活を!と中島は主張する。自らのトポスで生きるというのは、聞こえはいい。だが下手をすると「女は子供を産む機械」や「女は家庭に入り、子供を育てることが自然である。それが一番だ。」となりかねない。これはどうするのか?

他人が生きる道を口出しすることはできない。
個々人が、自らのトポスを探らなければならないのではないか。そこには、自由と責任が伴う...(未完)

 

 

疑問 10: 伝統と伝統はしばしば対立してしまうが、そのときどのように判断するべきなのか?

 伝統は別の伝統とぶつかってしまうことがある。具体例はいまのところ思いつかない。伝統を保守すると中島は言うが、そのように複数の伝統が存在するとき、我々はどちらを選択すればいいのか? 

 

疑問 11: 伝統と自由・寛容はしばしば対立するが、そのときリベラル保守はどのように対応するべきなのか?

例えば、職業選択について。一方で世襲的な職分という伝統がある。親がある特定の職業に就いていたからその子供もその職業に就くといったことである。さらに、ある特定の集団(ギルド)を作り、部外者にはその職人の技を受け継がせないということもある。その排他性は非寛容である。他方で、我々には職業選択の自由がある。閉鎖的なギルドを解放すべき(規制緩和)という考えもある。

このようにしばしば伝統と自由・寛容は相反するときがある。このとき、「リベラル」と「保守」は---たとえ、リベラルを自由とも寛容とも両方解釈したとしても---対立するが、どのように判断するべきなのか。

 

おそらく、中島は自由よりも伝統を死守するので、この場合自由を捨てるだろう。別にそれはそれで構わないのだが。中島は往往にして自由や寛容を捨て伝統を守る。 

 

疑問 12: 保守思想において明治維新は否定されるのか?

これまで中島の保守思想の理論的な側面に関して疑問を呈してきた。最後の疑問は特定の歴史の評価についてである。


最低でも論じなければならないこと: 明治維新天皇

保守思想とは理性の限界の認識であり、漸進的な改革を支持し、大変革を忌避する。だが、日本史において大変革と言うべき事象がある。それは明治維新である。つまり、保守において明治維新の総括はいかなるものなのかという疑問である。

簡単に言うと、明治政府がおこなったことはこれまでの「伝統」を破壊し尽くしていったと言えるし、さまざまな非漸進的な改革の連続だったと言えよう。明治政府は保守思想には反すると思われる大胆な政策を短時間に実行したのである。もはやこれは革命と言ってもいいだろう。だが、言いたくないのならば言わなくてもいいけど。

このような保守思想とは相反する明治政府を中島はどのように評価するのか?

明治政府の評価はさまざまである。西欧列強の時代に富国強兵を行い日本をアジア初の先進国の一員とさせたから、明治政府はいいんだというものがある。また、別の評価では結局大東亜戦争まで突き進んでアジアを侵略した元凶であるから明治政府はいけないというのもある。

 

だが、これら両者は明治政府を「結果」で評価している。もしも保守主義者ならば結果のいかんにかかわらず明治政府を批判するだろう。それは「明治政府は理性を過信し、漸進的改革をしなければならなかったにもかかわらず、大変革を行った」と。「さらに結果としてこれまでの伝統や秩序を破壊した。」と言わなければならないだろう。つまり、保守主義は明治政府が引き起こした結果ではなく明治政府の過程そのものに痛烈な批判をしなければならないはずである。

私の疑問は真の保守と自称している連中(つまり中島をはじめとする西部一派)が明治政府について批判を行ったのかということである。明治維新は保守思想の急所である。

 

中島は橋下を批判しているがそもそも維新の会のモデルは明治維新である。維新でも歴史的な根拠はある。

さらに中島は人間の生きる意味を与えてくれる場所(トポス)の重要性を指摘して、橋下の大阪都構想はこれまで作り上げてきた地域のつながりや生きる意味を破壊すると批判した。だが、そんなことを言うならば、明治政府は廃藩置県という地域の破壊をしたのである。これはどう考えるのか? もし廃藩置県が良くて大阪都構想が悪いというならば、どうして廃藩置県では地域が破壊されず、大阪都構想では地域が破壊されるのかその根拠を示さなければならない。しかし、そのように考えるのは不自然であり、普通に考えるならば「廃藩置県であろうとも大阪都であろうとも両方地域社会は破壊される(破壊された)」となるだろう。地域社会の破壊がいけないことと中島が主張するならば、もちろんその点に関して言えば、明治維新は悪いと認めざるを得ないだろうと私は考えるのだが、どうなのだろうか?

さらに言おう。江戸時代までは武士や百姓や町人などの間にある種のヒエラルキーがあった。それは秩序を与え、人々に生きる意味を与えていたはずだ。武士には武士の誇りというものがあったはずだ。要は中島の言うところのトポスが与えられていたのである。だが、新政府は何をしたかと言うと中世封建制社会の身分制度を廃止し平民とされたのである。これは明らかに伝統と秩序の破壊である。中島はじめとする自称保守思想家はこのような大転換を行った明治政府に対してどのように評価するのだろうか?

連中の回答は次のいずれかだろう。

一つめは保守の論理通りに明治政府を断罪することである。それは結果論ではなく非漸進的な政策過程をおこなったからだと批判するということである。

二つは従来の左右問わず結果論から新政府を評価することである。たとえ、グラジュアルな政策という精神から逸脱していたとしても、結果的にそれでよかったんだ(または悪かったんだ)というようにである。ここでの結果は大東亜戦争の敗戦である。

最後は目的論から正当化されるということである。明治政府は確かに革新的な破壊的な政策を行ったかもしれないが、それが「西欧列強から独立するため」という善い目的のためであったから、新政府の大胆な過程もいいんだという論法である。目的は手段を正当化させるということである。

 

最後の論法はそれはそれで問題であるので、結局、連中がどのように評価するのか注目される。 

 

 

天皇に関する問題は特に中島に対してである。昔、中島はそれに関しての論争をおこなったらしい。結果は負けて、それ以降天皇に関して発言しなくなったとのことである。だが、この問題も重要であるので中島の主張を聞いてみたい。

 

論じて欲しいこと: 移民問題カースト制度

他にもさまざまな時事問題を中島に論じて欲しい。現在、アクチュアルな問題の1つとして移民問題がある。それについてはどう思うのか? おそらく、急激な移民受け入れは秩序を壊すから反対というだろう。「じゃあ、日本の少子高齢化はどうするの? 」「移民問題対岸の火事として無視するの?」「じゃあ、急激じゃない移民の受け入れはどのくらい?」と聞いたら、どう答えるのかね....

 

カースト制度については中島がインド研究者であったからである。意見を伺ってみたい。もちろんカースト制度には問題があるだろうし、中島も考えているだろう。だが、カースト制度よりもレイプ問題の方がより深刻であり早急に解決されるべき問題だろう。おそらく、中島にとってカースト制度の解決のヒントはガンジーだろう。しかし、もし保守の立場に立つならば、たとえ我々からみたら奇異な伝統や習慣も、簡単に排除しろとは言えないだろう。

 


おわりに

長くなったが、最後に要約しよう。

私の中島の保守思想の批判は主に5つである。

  1. 保守の定義がひろすぎる。
  2. 理性の限界を漠然と捉えている。
  3. 保守は進歩主義を否定しておらずむしろそれを前提としている。
  4. 何が漸進的な政策でなにがそうでないのかの基準がわからない。
  5. 保守思想において明治維新は正当化できない。

 

 

だいたいこのような疑問である。これらが解決されなければ、私は中島を思想家とは見ず、伝記作家と見なす。

誰か私のこの記事をまとめて先生の授業のレポートに出してほしいな。タイトルは「中島岳志の保守思想とその批判」で。

 

 

追記 2018/07/29   疑問  13: 伝統は利権の温床になる

伝統だからという理由で他より優遇される。さらに誰かが変えようと言ったらならば「伝統を守れ」と批判する。だが、結局「伝統だがら守りましょう」というのは単なる一部の人たちの利権を守っているに過ぎないのではないかという疑問である。「伝統を守るため」という理由は自分たちの利権のための言い訳に過ぎないのではないかということである。もちろん、何が本当に守るべき伝統であり、何がそうでないのか判断することは極めて難しいが。

抽象的な話であるため、例を示そう。

昨今、炎天下における高校野球について議論されている。真夏の炎天下の中、球児たちは甲子園で試合をしているのである。それは熱中症の危険を伴い、死者が生じる危険すらある。だから、高校野球の時間を変更するなどの改善策が議論されている(cf:

高校野球巡り“甲子園派”と“ドーム派”大論争!憧れの夢舞台か?選手の安全か? - FNN.jpプライムオンライン

)。

だが、もしも本当に球児のために思うならば、「イニングは9回ではなく7回までにする(実際、ソフトボールは7回)」や「ベスト4から甲子園でナイターで行い、それ以外はいくつかの球場で同時並行で行う(実際、サッカーはそう)」などの議論があっても当然である。だが、そんなことは一切ない。「水分補給をする」だの「ベンチに理学療法士を駐在させる」だの、そんなのまやかしであり、根本的な解決ではない。

畢竟、スポンサーの朝日にせよ兵庫県にせよ自分たちの利権をみすみす手放すことなどしない。「伝統」という名で改革案を否定したり批判するだろう。実際、引用した箇所には「甲子園は“聖地”ですからね。100年の歴史があります。(略) だけど、大して考えもせずすぐにドームに…という発想が、僕は気に食わない。」と伝統である甲子園に固執してドームで行うという提案を拒否する人がいる。

 

私は諦めているが(部外者なので正直どうでもいい)、熱中症による死者が出てきて初めて本当の議論が起こるだろう。下手したらたとえ死者が出たとしても、その人は軟弱者であったと非難するか、美談にするかで結局、何も根本的な改善は行われないかもしれない。こういう連中は.....。

 

私の主眼は高校野球批判ではない。そうではなく「伝統」ということによって思考停止に陥ったり、改革に反対するということである。さらに、伝統というのは名ばかりで実際は自分たちの利権を守ることが主であることがありえるということである。

そんな伝統ならさっさと滅びちまえとつくづく思う。

 

実際、中島は橋下の「伝統芸能補助金廃止」を批判している。それは要は「橋下は伝統否定論者である」という批判である。

だが、伝統という名で利権を貪り食っているならば、それを正すことは正義である。逆に、利権を守るために「伝統を守れ」と主張するのは不正義である。

伝統を批判している人が必ずしも伝統否定論者ではないし、逆に、伝統を守れと主張する人が必ずしも正しいとは限らない。この辺りはとても難しい問題である。正直、私にはわからない。

いまのところはこの辺で。あまりまとまっていないが。

 

 

僕から以上 

 

 

 

 

*1:もちろん私も脱原発を支持するが、このような論拠からではない。中島の論拠がおかしいと言っているに過ぎない。

*2:中島は科学研究そのものにも理性の限界ということだけから疑念を示している。だが我々の理性の限界がどのようなものかわからないのに、そのように疑問を呈するのは同様に早計である。例えば、「我々の理性は道徳には限界があるが、科学研究にはほとんどない」と考えるならば、科学研究そのものの否定は生じない。「あくまで問題となるのはテクノロジーでありサイエンスではない」という考えである。