疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について No.3 『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について 

つづき。

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について  No.1

読書感想#13: 中島岳志著『「リベラル保守」宣言』『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう--カフェで語る日本の未来』にある中島の記事について  No.2

中島岳志への思想批判

 

 

第六章 東日本大震災の教訓----トポスを取り戻せ pp.178-198

まとめ 

本章では、はじめに関東大震災(1923年9月1日)と阪神淡路大震災(1995年1月17日)を振り返り、それらに共通の事象を指摘する(pp.183-197)。 

 

関東大震災

阪神淡路大震災

景気の衰退

第一次世界大戦終結による不景気(1914)

バブル崩壊(94)

社会不安によるテロ

朝日平吾(1921)、中岡艮一(1921)、亀戸事件(震災後)、甘粕事件(震災後)

オウム真理教による地下鉄サリン事件(95)秋葉原無差別殺傷事件(08)

ベストセラー

河上肇『貧乏物語』(1917)

春山茂雄『脳内革命』(95)小林よしのりゴーマニズム宣言(95)松本人志『遺書』(94)小林多喜二蟹工船』ブーム

労働者運動(雑誌)

革新系雑誌『改造』『解放』の創刊(1919)

フリーターズフリー』『ロスジェネ』創刊

中島が指摘する関東大震災前後と阪神淡路大震災前後の類似性 

 

日本は関東大震災以前から迷走していた(p.184)。震災が起こり天譴論(てんけんろん)が議論され、「震災直後の日本人は、これまでの「安逸」「驕奢(きょうしゃ)」「淫靡」「享楽主義」「惰気」「無責任」を反省的に捉え、新たな時代に向けた方向転換を模索」(p.187)した。が、結局、震災は東京から「トポス」を失い、人々は「トポス」を復活させることなく、享楽と暴力によって閉塞感を埋め合わせた(p.193)。

阪神淡路大震災のときも同様であった。震災以前にはバブルが弾け、震災とテロが起こった。すると、「日本人は恐怖と不安に大きく感情を動かされ、不可解なもの・得体の知れないものを理解しようとする意欲を失い(p.194)」、代わりに「人々は「断言」を求めました。複雑な世の中を丁寧に読み解くことよりも、強い言葉で答えを与えてくれる存在を希求したのです。これ以降、みのもんたのような断言口調の司会者が、支持を獲得するようになります。」(p.194)

1995年の流行語大賞は「無党派」であり、「まいっか、言っとけ、まいっか/こまった時は、さぁ、まいっか/深く考えないで、まいっか」と歌うEAST END×YURIの「MAICCA まいっか」が大ヒットした(発売は震災直後の2月)p.194。

人々は戦後の歩みへの反省を回避し、不安と対峙することを怠りました。「まいっか」と恐怖心をやり過ごそうとし、他方で根拠なき断言に縋ろうとしました。

p.194(Section: 一九九五年の不安 pp.193-197より) 

関東大震災のときと、同じように人々は「トポス」の再興をすることをしなかった(p.195)。

 

中島は2つの震災を議論した後に、中島の言う「トポス」が議論する。人は社会の中で一定の役を持っていなければならないと言う。

人間は社会の中で役割を演じて生きています。その役割が剥奪されたとき、アイデンティティを見失います。

p.197(Section: 生を支えるトポス pp.197-200より)

ここでは、福田恆存の言葉を再び引用する(p.198)。そして、人間の生きる意味を与えてくれる「トポス」の重要性を指摘する。

人間は常に何かに縛られて生きています。時間と空間を超越して生きられる人間など、存在しません。我々は過去からの連続した時間の中に生を受け、特定の空間の中で生活しています。
     我々は時間と空間を引き受けることによって、自己の存在意義を確認します。いまここで生きている自分が、歴史的に構成された社会や共同体の中で意味ある存在として「存在している」ことを認識します。自己には他者との関係性の中で果たさなければならない役割があり、その役割を果たさなければ「他に支障が生じる」という実感が、自己の生を支えます。この時間と空間の接点で「所を得る」ことが、トポスを獲得するということです。トポスを剥奪された人間は、居場所も出番も喪失し、アイデンティティを見失います。

pp.198-199

 

この「トポス」の観点から再び、原発に関して議論している。原発事故が起これば「トポス」を破壊するという主張である(pp.200-203)。ここの議論は第二章と重複している。

そして、最後に「トポス」の復活を高らかに宣言する。

われわれは長年にわたって、トポスを破壊し続けてきました。裸の自由を礼讃し、あらゆる拘束を疎んじてきました。そして、自らの実存を掘り崩してきました。
      いま取り戻すべきなのはトポスです。他者との立体的で有機的なつながりを回復し、中間共同体を厚くしなければならないのです。社会的包摂を強化し、地域における相互扶助の関係を再構築しなければなりません。
我々は苦しみから逃れるために、「享楽」や「暴力」、「断言」に擦り寄ってはなりません。自分の手の届く範囲で地道に、共同体を再構築しなければなりません。天下国家に対する大言壮語を繰り返すのではなく、自己の家族や共同体と正面から向き合わなければなりません。そこから始めるしかないのです。
      失った「顔」を取り戻すために今すぐ行動を起こしましょう。課題は、私たちのすぐ傍にあるはずです。

pp.202-203

 

もちろん言うまでもないが、「では、どうすればいいのか?」という具体性は一切ない。それは、中島の著作においてつっこんではならない一種のタブーでもある。中島に政策らしき具体的で漸進的なものなど何一つ持っていないからである。彼はあくまでも「思想」にしか興味を持っていない。

 

批評

Question 1: 中島が言う「トポス」および「トポス的論理」とは何か?

本書ではいわゆる「トポス」なるものが言及されている。中島の思想において重要なキーワードの一つであることに間違いない*1。それはそうなのだけれども、結局中島の著作を読んでみても中島の言う「トポス」というのがよくわからない*2。少なくともかなりの多義性を含んでいることは疑えない。

まず、中島が言う「トポス」とは、「自己の生きる場所」という意味であるように思われる。

東北の農民や漁民にとって、田畑や海は、単なる資源ではありません。その空間は、彼らの実存と深いレベルで結合しています。彼らにとって、長い年月をかけて耕してきた農地の喪失は、単に生産手段を失うだけでなく、存在論的な基盤の喪失に他なりません。そこはどの土地にも替えがたいトポス(自己の場所)なのです。

p.123

 

「江戸ッ子」は、人間交際と共同体によって保持してきた「『顔』という人類最高のパス」を失いました。人間関係の基盤を喪失したことにより、自己の存在根拠となる場所(=トポス)を失い、意気地を失ってしまいました。彼らは平準化され、根無し草のまま漂流する大衆と化していきました。

pp.191-192

 

彼[引用者注: バーク]は、人間の尊厳を重視するがゆえに、「自らの場所(トポス)」で「立ち上がる」さまを擁護し、人間の社会的拘束性を重視したのです。

p.209

 

これらの引用文にはご丁寧に「トポス(自己の場所)」や「自己の存在根拠となる場所(=トポス)」と書かれている。したがって「トポス」とは「自己の生きる場所」と解釈できる(だったら、そんな言葉使わず、はなからそう言えや....)。

他にも「トポス」は「自己の実存を確認できる場所」という意味でもある。

はたして、現代社会にトポスは存在するのでしょうか。人々は自己の実存を確認できる「場所」を獲得しているのでしょうか。

p.200(Section: 原発事故によるトポスの破壊 pp.200-203より)

 

そして中島の言う「トポス」の二つ目の特徴は、「それがなくなると生きていくことができなくなる」「それがなくなると精神に異常をきたす」ということである。

トポスを剥奪された人間は、居場所も出番も喪失し、アイデンティティを見失います。

p.199

 

バークは「トポス」が失われることによって、人間がバラバラな個人に溶解し、アイデンティティの喪失に直面することを恐れました。

p.224(Section: 保守のトポス pp.221-225より)

 

 

中島の言う「トポス」は、中間団体の言い換えでもある時がある。

このとき日本人は、トポスの再構築に取り組むべきでした。社会の包摂力を高め、中間共同体の立て直しを図るべきだったのです。

p.195

 

われわれは長年にわたって、トポスを破壊し続けてきました。裸の自由を礼讃し、あらゆる拘束を疎んじてきました。そして、自らの実存を掘り崩してきました。
      いま取り戻すべきなのはトポスです。他者との立体的で有機的なつながりを回復し、中間共同体を厚くしなければならないのです。

p.202

 

さらに、「トポス」には「役割」や「職分」という意味も加わっており、そこから「トポスの論理」とは「職分の意識」や「役割に応じた秩序」といった意味となる(と思われる)。

 

福澤が説くのは、「トポス的平等」です。社会の中で「職分」を獲得して生きることが高次の平等を生み出すのだと彼は見なすのです。

p.200(Section: 生を支えるトポス pp.197-200より)

 

バークは神を前提とする「トポス的平等(役割原理に基づく平等)」のあり方を「道徳的平等(moral equality)」として擁護しました。

p.210(Section: 騎士道の擁護、軍の大衆化への嫌悪 pp.209-212より)

 

中世ヨーロッパ社会では、戦う者は「貴族」であり「騎士」でした。それに対し、「平民」は働く者であり、有機体論的社会観に基づく職分の意識(トポスの論理)が強く働いていました。

p.206(Section: 徴兵制はフランス革命から始まった pp.205-207より)

 

バークの世界観では、農民には農民の、商人には商人のかけがえのないトポスが存在します。人間は自らのトポスを認識し、そこで職分を全うすることで全体の秩序維持に寄与します。

p.222(Section: 保守のトポス pp.221-225より)

 

彼[引用者注: バーク]が擁護する平等は、ネイションを平準化・均質化させるような平等ではなく、有機体的社会観に基づく職分的・トポス的平等です。個々の国民が自らの役割をしっかりと認識し、自らのなすべきことを行うことで全体が構成される有機体こそ、保守すべき共同体と見ていきました。

p.223

 

最後に文脈から「トポス」とは、代替不可能な役割や仕事や場所という意味であるように思われる。

「雇用柔軟型」という概念は、派遣労働という形態を拡大させ、多くの若者が不安定な労働市場で買い叩かれました。彼らは代替可能なパーツとして扱われました。いつでも誰とでも付け替え可能な存在として利用され、十分な保証がない環境で働かされました。
     派遣労働は、人間のトポスを決定的に奪いました。

p.195

 

以上の引用をまとめると中島の言う「トポス」とは(1)自己の生きる意味やアイデンティティを与えてくれる場所であり、(2)具体的には中間団体であり (3) 自分にしかできない役割(を与えてくれる場所)、つまり代替不可能な役割

といったことを言っている。これ以上、中島の「トポス」には触れない。中島は「トポス」を多義的に使用している。したがって読者を混乱させる要因になるだろう。なぜ、わざわざ「トポス」とのたまうのか? 「自己の生きる場所」で十分ではないのかと疑わざるを得ない。

いずれにせよ、中島の保守思想において彼の「トポス」は重要なキーワードであるため、一度、「トポス」についてまとまった議論をして欲しいと思う。評者はこの「トポス」認識のもと、以下に中島の「トポス」批判をおこなう。

 

Question 2: 中島の「トポス」理論についての疑問

(1) ある人の「トポス」はどのように決められるのか? その人自身なのか? 自分以外の誰かによってその人自身の生きる意味や役割を決めることができるのか?

 

中世のような世界ならば生まれたら職業や自分の役割は決まっているだろう。漁師の親に生まれたならばその子は漁師になると言った具合にである。つまりこの世界ならば生きる意味は定まっている。自由がない代わりに、職分が定まっており、その人にはアイデンティティが与えられ安心するだろう。つまりその人自身にはトポスが与えられている。が、そのような自由のない世界をほとんど誰も望まないだろう-----中島含めて。実際、中島は「現代社会に、「士族」階級を復活させることは不可能です。」(p.212)と言っているから、過去への復古を否定するだろう。

現代のような自由な社会においては、「トポス」ははじめから決まっていない。自由な世界ならば自分の役割を選ぶことができる。当然ながら見つからない人も出てくるだろう。その時は、「見つかんなかったお前が悪い」とはならないのか。つまり、自由が手に入っている代わりに、生きる意味や自身の役割は自分で決めなければならないのではないだろうか? それが見つからなかったらそれは自分のせいではないのか? つまり一種の自己責任論である。

さらに言えば、「生きる意味や自分の役割がわからない」という人に対して、第三者がその人の役割を決定することができるのかということである。例えば、両親が「あなたの将来を思っているから言うけれども、あなたはこれこれに就きなさい。それがあなたの幸せよ」と子の役割を決めることが可能なのか? 他者が決めるのはその人の人権や自由を認めないことになるのではないか? 

ある人の生きる意味や役割----つまり中島の言うところの「トポス」----は自分自身にしか決められない。誰にも口出しすることはできないはずである。なぜなら、その人の自由を支持しているのであり、他人からの口出しや強制は自由の侵害であるから(それとも、そのような強制は認められることなのか?)。したがって、もしその人が誤った選択をして、自身の「トポス」を得られなかったとしても、それは自己責任ではないのかということである。

同じこと:

我々にトポスが必要であることは認める。つまり我々には生きる意味を与えてくれる場所が必要であるということである。それはそうなんだけれども、その特定の場所は、その人自身が決めるものであってその場所を他人がどうこういう権利はないと思う。我々には一人一人生きる場所を選ぶ自由があり、それは誰にも指図されるべきものではない。役割は自分で決めなければならない。誰かが決めるものではない。にも関わらず、我々は他者の生きる場所を口出しすることが可能なのか?

 

 

(2) 代替不可能な役割を持つ人はほとんど存在しない。ほとんどの人は代替可能な存在ではないのか。

中島は「トポス」の重要性を指摘して、それによって人々に代替不可能な役割を与えてくれると主張する。

自分の場所を確保し、互いに貢献し合って生きているからこそ、社会は機能しています。差異を持った者が個別の能力を生かしつつ、代替不可能な存在として社会の中に位置づけられているからこそ、人は実存を満たして生きてゆけます。意味ある生を送っているという認識を獲得しています。

p.200

そして、新自由主義政策によって、「トポス」が破壊され、代替可能な役割しかなくなったと主張するのである(p.195上の引用を参照)。だが、その人にしかできない役割を持っている人など、ほとんどいない。つまり代替不可能な人物はそうそういない。ほとんどの人は代替可能な存在である。我々はその代替可能性の絶望から逃れるため例えば、家族を作って、その小さな世界での代替不可能な存在となり、生きているのではないか。わざわざ、社会がそのような代替不可能な役割を与える必要があるのかということである。もっとも、結婚もできないほどの貧困や格差は是正されるべきであるが、それ以上のことに関しては、そもそも代替不可能な存在ではないから、別に地域や社会がすべての人に対して彼らの「トポス」を保障する必要はないと思う。

 

メモ

自由な世界ならば自分の役割を選ぶことができる。それはうまくいけば自分が演じたい役を演じることができるということである。自分が演じるべき役をもらうことができるかもしれない。ところが主役を演じることのできる役者など数が限られている。ほとんどの俳優は当初希望していた役をもらえなかった人たちである。それでも彼らはその役を演じるのである。もし自分の演じたい役ができず失敗すると、その人は意味のない役しか演じることができないかもしれない。でも、それは自己責任ではないのか。

中島はしばしば福田恆存の『人間・この劇的なるもの』を引用する。そしてその箇所には「演劇」や「役を演じる」という言葉が出てくる。それは別に福田が劇作家だがら普通なのだが。「役を演じる」などの演劇のアナロジーから議論が発展できると思う。

(未完)

 

Question 3: 

2000年代半ば頃からは、若者たちが労働運動に目覚め、各地にプレカリアート(不安定労働者)運動が拡大しました。

p.196

ホンマか? 中島の友達(雨宮しょりん)周辺だけのローカルな動きじゃないの?

 

Comment 4:

バブルの象徴と言われる「ジュリアナ東京」は、実はバブル崩壊期の91年5月にオープンし、94年8月に閉店しました。バブルの終わりは、バブリーの終わりではなかったのです。

p.193

強調は筆者

これは中島の鉄板ネタである。

 

Comment 5: 

2008年、秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大の動機の中心には、鬱屈を満たされない承認欲求が存在しました。
     事件は連鎖し、各地で同様の無差別殺傷事件が起こりました。加藤への共感を示す若者も大量に出現しました。

p.197

中島は加藤の犯罪の動機が社会的不安からであると考えている。一方、萱野の考えによれば、加藤の犯罪の動機は死刑があったからだと言う。つまり加藤は死にたくて、死刑制度があったからそれを利用するために犯罪を犯したというわけである(萱野の死刑についての著書に書かれている。いつか書評したい)。識者によって、ある同じ事件に関して解釈が異なっている。これはおもしろい。

 

Question 6: 中島は関東大震災の時期と阪神淡路大震災の時期や東日本大震災の時期の類似性を指摘している。だが、世の中はユートピアにならないという考えならば、つまりいつの時代でも何かしらの問題を社会が抱えているならば、それらの類似性はいつでも簡単に見つけることができるのではないか。したがって、その類似性の指摘はあまり意味ない。後から振り返ればいくらでも類似点として共通点としてみなすことができるからである。中島が指摘した類似点も多少の強引さを感じた。逆のことで類似性を示すこともできるのではないかとも思った。例えば、95年には戦後50年であるから戦争に関して議論が活発になったとか(加藤なんちゃらの論文)。それは人々が真剣に考え出したとも言えるとか。

 

 

第七章 徴兵制反対の理由 pp.199-207

まとめ

本章では徴兵制について議論されている。まず中島は徴兵制はフランス革命から始まったことを指摘する(p.205)。それは、身分制の徹底的な破壊の結論として生まれたのである(p.205, p.206, p.207)。このようにしてこれまで伝統として存在した「騎士道」が破壊され、「軍の大衆化」が起こった(pp.210-211)。

そして、現代社会において徴兵制を導入することは「軍の大衆化」であり、それによって隊員の「尊厳」を失わせることになると主張する。だから、徴兵制に反対だと中島は主張する。

現代社会においては、徴兵制の導入によって「軍の大衆化」が促進され、「武人としての気概」が軍隊から簒奪される可能性は高まっています。

pp.211-212(Section: 騎士道の擁護、軍の大衆化への嫌悪 pp.209-212より)

 

自衛隊員となって自ら「国防の任を負う」ことを意志的に選択する人間を擁護することは重要なのではないでしょうか。すべての国民が「にわか軍人」となる「軍の大衆化」を指向するよりも、志願入隊した隊員の「尊厳」を国民が大切に守り、憲法でしっかりとした位置づけを行うことこそが急務なのではないでしょうか。大衆によって構成されたモンスター化した軍隊ではなく、強い意志をもって国防という役割を担おうとする先鋭集団のほうが、安心と信頼を置くことができます。

p.212

 

徴兵制の導入により軟弱化した若者を鍛えることができると考える保守派がいるが、それは自衛隊の「トポス」を破壊することとなるので、誤りであると主張する(p.212)。

 

批評

Question 1: じゃあ、徴兵制を施行した明治政府は間違えだったのだと批判するのか? この流れではそうだろう。別に明治政府を批判しても構わない。ますます、明治維新の評価が気になる。 

 

Request 2: フランス革命の総括をする場合、悪いところしか見ていないが、いいところはどこかあるのか? 例えば国民国家の誕生や理工科学校の創設などがいいところであると思われるが。つまり、中島のフランス革命についての評価が知りたい。 

 

第八章 保守にとってナショナリズムとは何か pp.208-227

まとめ

本章はナショナリズムについて議論されている。ナショナリズムの政治化はフランス革命においてであると指摘される(p.215)。 民主と結びつくナショナリズムを擁護したのは丸山真男である(pp.215-216)。

中島はリベラル・ナショナリズムの可能性に言及する(p.217)。

リベラル・ナショナリズムは、愛国心に基づく国民間の信頼を通じて、国家的再配分の強化とデモクラシーの活性化を目指します。ナショナリズムは保守の占有物ではなく、社民主主義的な左派リベラルが国民主権デモクラシーの構成要素としての尊重する論理ともなるのです。

pp.217-218(Section: ナショナリズム国民主権 pp.214-218より)

 

中島はこの後ナショナリズムと大衆の誕生を議論する。大衆は中世に自分の生きる場所が失われた後に、誕生した。

引用文(1)

世俗言語と均質的時間によって基礎づけられた新しい社会において、人々は「自己の場所(トポス)」を失っていきました。世襲的な職分を果たすことで存在論的意味を獲得し、ホリスティック(全体的)な世界の中に包摂されてきた人類は、有機的な社会から切り離され、個人として産業社会の荒野に放たれました。中性的世界の崩壊は伝統的コミュニティから切り離された「大衆(=mass)」を生み出し、人間を均質化したのです。

pp.220-221(Section: ナショナリズムの形成と大衆社会の確立 pp.218-221より)

その後、中島はバークの考えを説明する(pp.221-224)。バークはナショナリズムもデモクラシーも完全に否定したわけではなく、それらによる有機的社会が破壊されることに危機感を抱いた(pp.221-223)。

 

引用文 (2)

ここでバークが言う「本性上の貴族」とは、固定化された階級的存在ではありません。彼にとっての「本性上の貴族」とは、様々な試練を経たのちに「徳」と「資質」を獲得した人間です。彼らは思慮深く、変化の波を乗りこなす能力を有します。曰く「保存しようとする気質と改善する能力とを兼ね備えることが、私にとって為政者の規準である。」。

p.224

 

保守の目指すデモクラシーは中島の言う「トポスの論理」に支えられているデモクラシーであると主張する。

では、保守が擁護すべきデモクラシーとは何でしょうか。ナショナリズムとは何でしょうか。
      それはトポスの論理を基礎としたデモクラシーであり、ナショナリズムです。国民それぞれが自らの社会的役割を認識し、責任と主体性をもって「場所」を引き受けるところがから生まれてくるデモクラシーであり、ナショナリズムです。

p.224(Section: 保守のトポス pp.221-225より)

 

東日本大震災で気づいたのは、自身のうちにあった「ナショナルな想像力」である(p.230)。ネイションは再帰的なものである(p.230)。ナショナリズムは忘却される。

引用文(5)

私たちは震災を通じてネイションという他者と出会っています。それ以前に我々は「内なるネイション」と出会っているとも言えます。
      ナショナリズムは、単なる自然の感情ではありません。日常の中に沈殿する「ナショナルな想像力」は、自然状態では想起されることなく、一種の忘却の中にあります。しかし、我々が非日常的な危機に直面したとき、それは不意に目を覚まします。

p.230(Section: 「内なるネイション」との出会い pp.230-232より)

 

これまで過度に進んだ「小さな政府」をナショナリズムによって止め、国家による再配分を進めるべきであると中島は主張する。

引用文(6)

震災という非常時を経て、国民はナショナルな自覚を獲得し、東北の同胞を支えるという意識を持ちつつあります。このナショナルな意識を、国家的再配分の動機づけへと接続し、新自由主義を突破していかなければなりません。同胞の苦しみを自らの苦しみと連続させ、支援の手を差し伸べる責任感こそ、ナショナリズムの重要な機能だと確信しています。

p.231

 

「内なるネイション」との出会いを通じて、国民と再会した我々は、苦境に陥る仲間たちに手を差し伸べる責務があります。そして、その中心的な役割を果たすべきは国家という存在でしょう。国家によるナショナル・ミニマムの保証と再配分の強化こそが、現在の国家的な課題です。

p.232

 

ナショナリズムを適切につなげるべきだと、中島は具体的な案もなく、宣言して本章は終わる。 

私たちはナショナリズムを排外的な意識へと安易に先鋭化させるのではなく、国内のネイションに対する責務へとつなげていくべきではないでしょうか。

p.232

 

批評

Question 1: 引用文(1)について。自由と伝統は相反するときがある。世襲的な職分と職業選択の自由は相反するのではないか?

 

Question 2: 引用文(2)について。そんな「本性上の貴族」なんているの? そのような人をどのように判断するのか? 君たち保守派が嫌う抽象的な人物なんじゃないの? 

この引用文によって中島は「自分は階級社会を支持しているわけではない。自分が考えている「トポス的平等な社会」は階級社会のことではない」との言い訳が読むことができるかもしれない。あくまでも「本性上」であるからである。ただ、普通に読めば「トポス的社会 = 階級社会」となる。役割云々とか言っているし....

 

Comment 3:

自分が立っている場所にリアリティがなく、同行した妻との会話によって何とか現実につなぎ止められているような、そんな心地でした。

p.226(Section: 震災とナショナリズム pp.225-227より)

中島は結婚している。子がいるかどうかは不明。

 

Question 4:

死者が6万9000人を超えた2008年の四川大地震。そして死者31万人以上と言われる2010年のハイチ地震
      いずれも東日本大震災以上の死者数を出しながら、私たちはその存在をすでに忘却しつつあります。

p.227(Section: ナショナルな想像力 pp.227-230)

死者数で物事の大小をはかっちゃダメだったんじゃないの? 第二章参照。 

 

Question 5: 引用文(5)と(6)について。

中島が主張する「ナショナリズムによる国家による再配分の正当化」は、そもそも正当化できないし、仮に正当化できたとしても問題がある。

(1): 中島は確信しているそうだ。勝手にどうぞ。で、どうやって実現するの? もちろん、何一つ実現性は書かれていない。具体性が一切ない。つまり、中島の考えでは、「震災のとき見ず知らずの他者に対しても、同胞の意識を持っただろ? それがナショナリズムだよ。だから、みんなで国家による再配分をして、貧しい人たちを助けよう!」ってこと? 一体こんなことで国家による再配分を正当化できるのか? これは決定的に重要な問題である。

(2): なぜ政府が強制的に税を徴収することが、ナショナリズムによって正当化されるのか?チャリティで十分ではないか、チャリティしかできないのではないか?チャリティとは善意のこと。

(3): 引用文(5)に示されているように、ナショナリズムは忘却される。つまり、災害などによってナショナリズムが顕現されるが、時が過ぎればまたナショナリズムは忘却される。そのようなものによって、税の徴収を正当化できるのか?

(4): 仮に、ナショナリズムによる税の徴収を正当化できたとして、それでは当然ながら「誰が助けられるべきか」ということが特定されなければならない。つまり、「誰が日本人なのか?誰が日本人でないのか?」ということが、問題となる。このことは、どう考えているのか?そして、ナショナリズムによる税の徴収の正当化ができたら、次のような声は正当なものとなるだろう。「我々の血税がどうして日本人ではないものに使われているのか!?それは間違いだ!いますぐにでも辞めさせろ!日本人だけに税金をつぎ込め!」
したがって、もしナショナリズムによる税の正当化が認められるならば、「日本人とは誰か」ということはアクチュアルな問題となる。それは、「在日は日本人なのか?」という問題へとつながる。もし、在日が日本人ではないとすれば、在日に対して予算が使われることが否定されなければならない。
中島はこのような問題に対してどう考えるのか?

そして、このようなナショナリズムの正当化は中島の思うのとは逆に容易に排外的になってしまう。


 

書籍版あとがき pp.228-233

第二章および第六章はそれぞれNTT出版から『「文明」の宿命』と『危機の思想』に収録されている(p.228)。ほかのもほとんどが『表現者』で発表されたものだそうだ(p.228)。NTT出版に当初、出版される予定であったが、いざこざがあって結局出版できなかったそうだ。

 

 

文庫版あとがき pp.234-239

文庫化にあたり、現在形の文章を過去形に改めたり、文言の補充を行なった箇所がありますが、本筋の内容については手を加えていません。扱っている事象は数年前のものが多いですが、批評のポイントは何も変わっていませんので、あえて大幅な加筆はしませんでした。

p.243 

そりゃそうだよwwwww だって具体的な政策なんて一切書かれていないんだからwwwww 書き換える必要なんてないんだもんwwwwww

  

 

感想

中島岳志のいいところ

  • 伝記作家としての才能。マイナーな人の紹介
  • いちおう、保守思想の理論を探求していること。なんちゃって保守ではないこと。実は、右左通じて、そう言ったそもそものことを考えている人は少ないと思う。右翼思想を研究するゴリゴリ右翼や左翼思想に染まり上がったゴリゴリ左翼は絶滅危惧種である。世の中にはなんちゃって保守やなんちゃって左翼がたくさんいる。ちゃんと「右翼とは何か」「左翼とは何か」「ナショナリズムとは何か」と考えている人が少ないということである。その中で中島は自身の思想を練り上げている。

 

 

本書の全体的な傾向 

  • 基本的に出典がない。どこのReferenceからの引用文なのかわからない。引用している本が明記されていたとしても、どのページ数なのかは記載されていない。だから、これはエッセイと見るべきである。論文ではない。重複もあるし。

 

(続く)

 

*1:もう一つが「再帰的」というキーワードである。

*2:ここでは中島が述べる「トポス」や「トポス的論理」や「トポスの論理」はすべてかぎかっこ(「 」)でくくる。と言うのも、評者にとってトポスは圏論でのトポスを意味するからであり(そしてトポス的論理というのも実際ある)、したがって、それと中島の言う「トポス」を明確に区別するためである。