疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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自然科学における数学の有効性についての論文に対する引用一覧

 

数学の有効性についての一つの答えを主張している論文をかつて読んでいた。いまは読んでいないけど。今回はその論文の引用だけ。このような考えもあるのかと、そのようなサンプルである。

論文: 

渡辺久義 

宇宙のデザインと統一認識論
−科学を可能にするものは何か?−

http://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-papers-j-watanabe-hisayoshi0001.pdf

 

どうしていまこのようなことをするのか。それは私のmacのノートにかつてこの論文のメモをしていてたのだが、現在たくさんのノートがある。よって、少しでも減らすために、ここにメモを書くのである。要は自分用である。

 

少しコメントを加える。

「自然科学においてどうして数学がかくも有効なのか」という問いを答える一つの方法は「人間がそのように進化したから」というものである。要は人間の数学的能力を進化論的に正当化させるということである。普通に考えればそのような結論になる。

ところが、渡辺はそうではなくまさにその回答をID説(インテリジェント・デザイン説)によって、正当化させようと試みているのである。この点が従来の考えと異なる。

もちろん、渡辺の主張を認めるかどうかは議論されなければならないことであるが、新しい一つの代替案の提案として、渡辺の論文は価値があるだろう。だが、個人的にはそのような考え方には賛同できない。私は基本的には従来の進化論的回答を認める。

だが、この問題はそもそもそのような宗教的・神学的問題ではない。この問題をちゃんと真面目に本気で考えるならば、数学的・科学的に考えなければならない。そちらのほうが主流である。進化論的アプローチはその問いの答えを補強する傍流にすぎない。その傍流が進化論なのかID説なのかという問題は瑣末にすぎない。なぜなら、数学や科学そのものを哲学していないからである。

この問題は進化論・ID説・創造説のどれかを選べれば解けるといった代物ではない。

 

だいたいこのような感じである。

それでは以下に引用しよう。

 

その答え[引用者注: われわれ人間が数学的な抽象能力と優美さに対する鑑賞能力を持ったその理由の答え]が何であるにせよ、このような問いは少なくとも、科学の唯物論的あるい はダーウィン的な枠組みの中では、問われることさえない重要な問題を指し示すも のである。唯物論的科学は、世界を前にしての驚異の正当性さえ認めようとしない だろう ―― 「確かに未解決の問題はある、しかし宇宙を神秘的なもの、我々を超えた 畏敬すべきものとしてみるのは、非科学的でもあり科学にふさわしい態度ではない」 と。そういう態度によってそれは、科学的探究にとって最も肝要の問いを問うことを軽 蔑するのである。

(p.2)

 

 

 我々は科学的唯物論という知的環境にあまりにも慣れ親しんでいるので、この宇 宙は本質的に生命のない世界であり、ただ生命をもつ地球がそこから意味のない変 り種として生じてきたにすぎない、といったふうに考え勝ちである。これはカール・セ ーガンとか物理学者のスティーヴン・ワインバーグといった唯物論者を通じて、特に 鼓吹された宇宙像である。我々はまた、自分のもつ推理的能力も美的感覚もダーウ ィン進化の産物であって、したがってそれらは自分の努力によって獲得した特質だと 考えようとする。もしそれが真実なら、我々の数学能力はただ生き残るために、現実 生活で使うためにだけ有用なはずである。たとえ我々が高度に進んだ抽象的な数学 体系をつくり上げたとしても、それは単に人間の主観の世界に属するものであって、 見えない外の世界にあてはまるという、アインシュタインにおいて起こったようなこと は期待できないであろう。(ここまでp.2)

(ここからp.3)

これはもし我々が、唯物論の枠内、すなわち見える物質と盲目的力の世界にとど まっていたならば、決して解くことのできない謎である。これ一つを取ってみても、科 学的唯物論というものが、科学の最も重要な問題を前にして退かなくてはならなくな る十分な証拠である。したがって我々は物質以外の何ものか、何らかの心の要素を、 科学に取り込まなくてはならなくなる。

(pp.2-3)

 

過去のある時点に始まった宇宙は、最も単純な化学元素と化合物から始め、次により単純な生 命の段階から、次第に複雑な生命段階を通過し、今、人間を通じてより内面化され、 人格化され、精神化されつつある。人間は他のより低いレベルの動物と、体の構造 でなく、精神的な諸能力を通じて決定的な違いがあるのである。
このような宇宙像は、ド・シャルダンにも統一思想にも共通するものと私には思わ れるが、このような見方によらなければ、アインシュタインやウィグナーによって提起 された問題を解くことはできないだろう。言い換えれば、我々の宇宙は、たとえ部分 的に理解されはしても、全体としては理解不能のままであろう

(p.4) 

 

このような根本的な問題において我々の指針となる統一思想に進む前に、いわゆ るインテリジェント・デザイン理論(以後ID)にふれておきたい。IDこそ、今のところは 優勢な唯物論的科学と、統一思想をつなぐ橋になるものと考えるからである。...
...第二段階は、そこからさらに一歩を進め、宇宙の全面的な再解釈を提案する。この 段階でのIDは、宇宙の微調整という宇宙学的事実と、我々の環境的諸条件(水、光、 火、温度、その他の惑星的諸条件)が我々に驚異的に合わせられているという事実 を考慮に入れる。宇宙がデザインされているという事実が、ひとたび疑いのないもの として受け入れられるなら、全面的なパラダイムの転換が要求されることになる。宇 宙全体が、これまで我々の取ってきた観点とはまったく別の観点から眺められなけ ればならない。自然法則さえも、我々のためにデザインされたものと考えねばならな い。科学は、宇宙全体がデザインされているという前提から出発しなければならなく なる。

(p.5) 

 

統一思想は、人間という目標がまず最初に神の心 にあり、進化の全体はこれを実現するための逆の過程だと教える。

(p.6) 

 

ここでアインシュタインがどう言ったのかを思い出していただきたい。彼は「この宇 宙について最も理解できないことは、それが理解できることだ」と言った。ユージン・ ウィグナーも同じような主旨のことを、「自然科学における数学の途方もない有効性 は、ほとんど神秘と言ってよいものである」と言った。ところで、このような謎の解答は、 科学そのものの方向に見出されるものでないことを知るべきである。それは一つの 大きな「意図」あるいは「目的性」としての、宇宙全体の構造そのものに求めるよりほ かない。それは科学的な活動と推理能力がともに、宇宙的(あるいは神の)デザイン によって、特定的に我々人間にとって利用可能にされている条件そのものに、求め られるべきである。
これら偉大な科学者によって指摘された神秘あるいは理解不可能性は、論理的な 解答をもつものではない。それは宇宙がなぜ、これほどに絶妙に微調整され、人間 のために調整されているかという問いが論理的な解答をもたないのと同様である。 いわゆる人間原理は、我々に「与えられた」驚くべき事実だというだけであって、科学 的探究の対象ではなく、自由な解釈にゆだねられたものである。だからある人々は、 そこに畏怖や驚異を感ずべき理由を見出さない。なぜなら、彼らの論理では、「我々 の世界はこれ以外のあり方ではありえない。でなくて、どうしてあなたや私がここにい (ここまでp.6)

 

(ここからp.7)
られるのか?」というだけだからである(これを「弱い人間原理」という)。あるいは別 の人々にとっては、このような神秘は単純に存在しない。なぜなら彼らがそれを認め ると、唯物論的科学の枠の外に何かを認めなくてはならなくなり、それは彼らの専制 体制にとって大きな危険となるからである。あるいはこのような厄介ものは、「多宇 宙」仮説といった巧妙な便法によって切り抜けなければならない。

(pp.6-7)

 

真のところは、これほど問うに値する、これほど意味のある問いかけは他にないの である。最も疑問とすべき基本的な問題は次のようなものであるべきである ―― 「我々がそもそも外界を認識でき、次にその意味や秩序を理解し、そして究極的にそ の宇宙的意味まで推測できるのはなぜなのか?」もし我々の心(意識)と外界が無 関係で、デカルト哲学において考えられているように、別々の原理によってつくられ ているなら、あるいは我々の心がもともと「白紙」でもっぱら誕生後の経験によって構 成されるのなら、どうして我々の推理能力や、科学におけるより高度な創造的発見 が可能なのだろうか。あるいは、もし我々の心がダーウィン方式で進化して、外界に 自らを適応させているにすぎないとしたら、そのようなより高度な推理がどうして可能 だろうか。そのように考えるなら、我々の内面的な自己と客観的な世界との間に、共 通する何ものか、アプリオリな照応関係があると考えるのが自然であろう。そしてこ れは、宇宙を一つの有機的全体とみる我々の見方によっても要請される仮定である。

(p.7) 

 

我々はあまりにも強固に唯物論に条件付けられ ていたために、何となく人間は自然に対して関係がなく、敵対さえするものという考え を抜け出せなかったことに気づく。「そもそもの初めから」我々は自然に合うようにデ ザインされていたと教えられてみると、間違った人間中心主義によってつくり出して いた不必要な困難が、氷解するのである。科学そのものが、それによってより易しく なるわけではない。ただ、科学を可能にしている土台そのものが、突如として照らし 出される。デザインという考えに反対する人々は、この土台を無視しているのである。

(p.9) 

 

宇宙の究極の意味が開示され完成されるのは、人間を通 じて、人間においてである。これは人間の起源の唯物論的解釈に基づいた、いわゆ る人間中心主義と混同してはならないものである。
だとすれば、宇宙を理解できる人間の能力とは何なのか? 我々が抽象的な概念 を定式化し、宇宙を把握することを可能にする数学・言語能力 ――これはどこから生 ずるのか? そもそも「ロゴス」というものはどこから来るのか? それは宇宙を征服 するために我々が発明したものでは断じてありえない。また我々の数学や言語の能 力は、生存競争の過程において、我々が自力で獲得したものでもない。それは我々 に与えられたものでなければならない。

(p.11) 

 

我々の数学と言語の能力は、抽象の能力、動物の知らない全く 新しい、より高い存在次元を構築する能力だが、これは動物の言葉の進化的延長で なく、我々が創造されたときに、我々に与えられたものと解釈しなければならない ― ―たとえそのより高いレベルが選ばれた少数者だけのものであろうと。すべての動 物の中で、我々だけがロゴス(あるいは大文字のロゴス)の世界を知っているのであ る。
ひとたび我々が統一思想を受け入れるならば、宇宙(大宇宙)を構築するのに用い られたのと同じ原理(ロゴス)が、人間の脳(小宇宙)を構築するのにも用いられたと 想定するのが自然なことに思われ、したがって我々の推理能力が宇宙の構造や原 子内部の構造を解明することがある ――それはいつでも起こるのではない ――とい う事実が納得できるのである。アインシュタインやウィグナーにとって神秘であり理解 不能であったことが、我々にはもはやそうは思えなくなる。

(p.12) 

 

「傲慢」対「謙虚」ということ、また「数学の言語が物理法則の公式化に適していると いうことの奇跡」に関して、警告として言っておかねばならないことがある。ウィグナ ーはこの言葉と同時に、「すべての数学の概念のうち、物理学に利用されるのはほ んのわずかでしかない」と言っていることに注意せよ。
この言葉を引用しながら、『意味に満ちた宇宙』の著者も、数学にこの不思議な力 があるからといって、「すべての美的に心地よい形式的な数学システムが、物理学 や化学に役立つとか、すべての見たところうまく行った数学の経験的適用が、時のテ ストに耐えるわけではない」と言っている。
紙と鉛筆だけで宇宙の秘密を解いたことになっているアインシュタイン以来、あらゆ る科学者が彼と張り合って、あまりにも数学に頼りすぎ、これを「実体化」するに至っ たといわれる。これはニュートン以来、あらゆる学問分野がニュートン的数式化にあ こがれたのと似ている。

(p.14)

 

 

僕から以上