疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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留学で学んだこと考えたこと(1): 自分の誤りを認めることの難しさ

どうも僕です。

今日はエッセイです。留学したときに学んで考えたことをまとめました。セクションがないので読みにくいかもしれませんが、読んでくれたら嬉しいです。

 

留学して思ったことは、「自分の誤りには自分で気づきにくいこと」と「自分の誤りを指摘してくれる人のありがたさ」である。それはロシア語を学んでてそう思った。
自分の誤りに気づくのは自分自身によってか他の誰かによってかのいずれかである。自分の誤りを自分自身で指摘することは難しい。例えば、自分が考えたロシア語の文章が文法的に間違っていないのかどうか自分で確かめることは難しい。さらにそれが自然な表現なのかどうかは尚更難しい。
一般的に自分で考えたことや行為を自分自身で批判・チェックすることは難しい。我々にはそれぞれに認知的バイアスや認知的不協和を持っているからである。これはしょうがないと言えばしょうがない。
自分の誤りを自分で気づくことができないならば、他の誰かからによる批判で気がつくしかない。だがこれも結構難しい。というのも他人からの批判を素直に受け入れられない自分が往往にしてあるし、他人も本当に自分のために指摘しているとは限らないからである。「あなたのためを思って、言っているのよ」という紋切り型は基本的には「自分のため」に言っているようにである。


だが、にも関わらず、自分に対して批判してくれる人は良い人であるということをちゃんと理解するべきである。喩えば、日本人であるあなたが日本語を勉強している外国人と接しているとしよう。このとき、外国人が間違った日本語をしゃべるたびに「その日本語間違っているよ」と指摘するだろうか? もしも、あなたがその人の日本語講師ならばもちろん、毎回訂正するだろう。それが先生であるあなたの仕事だからである。だが、単に付き合っている外国人に対して毎回日本語の間違いを訂正するだろうか? それは面倒なことだし、たとえ文法的に誤ってたとしても意味が理解できるので、外国人に間違いを指摘せずそのままにするだろう。ところが、その外国人は誤りを指摘されていないので、その言葉が正しいものなのだと勘違いする。そして間違いはそのままとなるだろう。誤りを認識していないがために重要なところでヘマを犯すかもしれない。例えば、その外国人はいつも二人称を「オマエ」と言っているとする。もしその外国人のことを思っていれば、あなたはその外国人に「『オマエ』は親しい人たちや軽蔑するときに言うべきだよ。目上の人や上司に『オマエ』と言っちゃいけないよ。そのときは「あなた」と言うんだよ。」と指摘するだろう。ところが、もしあなたがその外国人を特に思っていなかったり、どうでもいいと思っているならば、そのような指摘はめんどくさいから何も言わないかもしれない。すると、誤りを指摘されなかった外国人はすべての人に対して「オマエ」でいいのだと勘違いをして、上司に対して「オマエ」と言い、怒られるということがあるかもしれない。
私はこのような体験を実際、ロシアでした。つまり、たとえ誤ったロシア語でしゃべっていたとしても、普通のロシア人は指摘しない。文脈や雰囲気で悟ってくれる。そして彼らには私の誤ったロシア語を指摘する義理はない。しかし、私は誤りを指摘されていないからこの表現で間違っていないんだと(結果的に)勘違いした。留学する前はロシア人にロシア語の誤りを逐一指摘されていたが、それはその人がロシア語の先生だったからである。そして逐一指摘されることを鬱陶しいと思っていたが、それも改めた。むしろ間違いを正してくれる人はありがたいことなんだと。


人に誤りを指摘されることは重要なことであるとは学んだけれども、その人がどのように誤りを指摘するかという問題もある。細かいところで言えば、単純に言い方の問題もある。言っていることは100%正しくても汚い言い方をされたり、軽蔑的に言われたら、やはり指摘された人は聞く耳を持たない。
誤りをどの程度言われるかは様々である。
例えば、ある人が「私は日本人です」を "I is China"と言っていたとしよう。そのとき、別の人が「それ誤っているよ」と指摘する。だが、その「誤りの指摘度合い」は様々である。
(1) ただ単純に「その表現は誤っている」と指摘する。
(2) 「こことここが誤っている」と誤っている箇所を指摘する。この例では「"is"と"China"が誤っている。」
(3) どのように誤っているのか具体的に指摘する。この例では「"I"のときは"is"ではなく、"am"を使わなければならない。そのような文法的な誤りを犯している。"China"は"日本人"という意味ではなく、"中国"という意味である。そのような意味的な誤りを犯している。」
(4) 誤っている理由を指摘して、どのように改善すべきか考えさせる。この例では、間違いの理由を言った後に、「...その言い方が間違っていることがわかった。それではどのように言うべきだろうか? 教科書を見てみようか。その後に、もう一度答えを出してみようか。」
(5) 誤っている理由を指摘して、正しい表現を言う。この例では、間違いの理由を言った後に、「...そうとは言わず、正しくは"I am a Japanese"と言うんだよ。」
(6) 誤りを指摘して、正しい表現のみを言う。間違っている理由は言わない。この例では、「その言い方は間違っている。そうではなく、"I am a Japanese"と言うのです。」
(7) 誤りは言わず、正しい表現のみを言う。この例では、「『私は日本人です』と言うには"I am a Japanese"と言うんだ。」

様々な指摘のバリエーションがある中で、どれが良くてどれが悪いだろうか。例えば、(1)のように指摘されたらどうだろうか。この場合単純に誤りを指摘されただけである。もし指摘された人が、指摘した人の言うことを正しいと認めたならば、その人は「自分が間違っていること」自体を認識することができるだろう。ところが普通は「じゃあ、どこが間違っているの?」と問いただしたくなるだろう。しかし問いただしても何も教えてくれなかったり、「自分で考えろ!」と叱責されたり、ましてや「そんなこともわからないの? もしかしてバカなの?」と嘲笑されたりしたら、それは理不尽である。そのような誤りだけを指摘するならば、いっそのことその人の発言は信じない方がいいだろう。たとえ、その人が正しかったとしてもである。なぜなら、誤りの理由を教えてくれないからである。
しかし、もし先輩や上司がそのような意地悪な人であったら、どうすることもできない。向こうはその社会で経験を積んでいて、他方でこちらは経験を積んでいないものであるので、彼らが言うことは十中八九正しく、自分が誤っていることは確かであろう。ところが、「お前は間違っている」としか言われなかったならば、改善しようにも改善できず、どうすることもできないからである。せいぜい、自分を責めることしかできない。
一方で、(2)や(3)や(4)の指摘はかなり具体的であるので、自分の誤りを認識できるし改善策も見つかりやすい。このように指摘してくれるならば、その人の言っていることを信じるに値するだろう。
(5)と(6)と(7)はそのすべてで「答え」を教えている。(5)は誤りを理由を教えたのちに、答えを言っている。(6)は誤っていることは言って(だが、どこが誤っているかは言わず)、答えを言っている。(7)は何も考えさせず最初から答えを与えている。誤りのみを指摘する(1)がよくないのと同じように、(6)や(7)もよくないだろう。これは「私の言う通りにしていればいいの」という思考停止に過ぎないからである。単なる批判者による自己満足しかない。そのような指摘をする人も(1)と同様に信じなくても良い。
したがって、もし誤りを指摘するならば、(4)か(5)がいいだろう。つまり、誤りの理由をちゃんと教えて、その上で改善点を考えさせるかもしくは答えを教えるという指導方法である。しかし現実は「答え」を教えることは難しいだろう。現実問題は誰も「正解」を知らないからである。「君は間違っているよ」と指摘され、「どこが間違っているのですか」と言ったら、「そう言う常識だから。この業界ではそれが普通だから」と言われたらどうだろう。おそらく似たことは言われたこともあるだろう。が、それは「文法的には間違っていないが自然的な表現ではない」という語学でよく言われる理由よりも、より理不尽であろう*1

さらに誰が言っているかということも意外に重要である。ロシア語の誤りをロシア人が指摘してくれれば、基本的には「ああ、そうなのか」と納得する*2。けれども、ロシア人でない人にロシア語を指摘されたら、素直に受け入れにくい。同様に、上司や憧れの人に指摘されれば、素直に受け入れるが、そうでない人には無粋な態度を取るということも十分にあり得る。本来ならば、そのような「誰に言われるか」ということは「何を言われるか」と無関係であるはずなのだが、我々はそうそうにそれらを区別することができない。


以上より、我々は以下のことを理解すべきである。
(1)できるだけ自分に対して謙虚であり、自己批判の目を持つこと
(2)他人の批判や指摘はたとえ嫉妬や嫌がらせがあったとしてもその目を受け取ること。ただし言い方や批判の度合いによってはその批判を無視することも大事。
(3)そして他者を批判するときは、ただ誤っていることを指摘するだけでなく、どのような誤りなのかどこを直すべきなのかもちゃんと言うべきであるということである。批判とは矛盾の指摘であり、批判の解消とは矛盾の解消である。

しかし、そうなるとよっぽど自分の関心ある人でなければ、「ちゃんと批判しよう」とは思わなくなる。さらに批判してもそれを相手がどう捉えるかもわからない。もしかしたら嫌われるかもしれない。逆恨みされるかもしれない。それだったらいっそのこと何も指摘しない方がマシじゃないかと思う。それか適当に指摘するか。難しい問題である。

(了)

 

 

僕から以上

*1:ちょっと文章が飛んでいる気がする。文章のつながりに飛躍がある気がする。

*2:けれども「どうして、その言い方は間違いなの?」と質問してちゃんと答えるかどうかはわからない。結局、彼らにはロシア語ネイティブという特権しかなく、言語的な知識を彼らは持ち合わせてないからである。だからほとんどの人はたとえ間違えであることを指摘できたとしてもその理由を論理的には説明できず、「そう言うから、そうなの」としか言えない。例えば、外国人が「ワタシハヒトリノロシアジンデス」と言ったら、あなたは「いや、文法的には間違っていないけれども、そうは言わない。『私はロシア人です』で十分であり、『一人の』は必要ない」と指摘するだろう。しかし、そのときにその外国人が「どうして『ヒトリハ』は必要ないの? だって、I am a Russianって言うじゃん?」と聞かれたら、どう答えるだろうか? ほとんどの人は「そう言うから、そうなの」としか言えないだろう。ちゃんと日本語という言語を知っていて、その知識のもとでそれを説明できる人は少ないだろうし、それをできる人が日本人でなければならないというわけでも必ずしもない。