疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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数学の抽象と具象: 具体例は抽象化される。

数学を学んだり研究したりする上で、具体例の重要性について議論されていた(主にネット)。数学以外の一般的な議論においても、抽象と具象の行き来が重要だとどこかに書かれていた(気がする)。「抽象」は「曖昧」とか「わかりづらい」と悪い意味で使われがちである。「大臣の答弁は抽象的である」といった具合にである。一般的な議論は置いといても、少なくとも数学においては概念は他の学問と同様に抽象的である。そして(どこかに記事を書いたけれども)数学にはそれ特有の抽象性として、記号を用いた「抽象からの抽象」がいたるところに存在する。

最近、圏論を学んでいてひしひしと感じるのは、数学の具体例はしばしば抽象化されるということである。
例えば、同値関係を導入して、整数の集合 {\textbf{Z}} から有理数の集合 {\textbf{Q}} を構成する方法がある。それを抽象化して一般の可換環から分数環(商環)を構成する方法を得る。さらに、その分数環を圏論の分数化へと抽象する。そのときの手がかり(具体例)となるのは、抽象的な分数環となるのである。
他にも、最初は、アーベル群や加群は整数の集合などから抽象化された概念であった。しかし、それらに慣れたならば、次はアーベル圏へと抽象化される。さらにそれからアーベル圏の複体のなす圏 {\textbf{Chain}(\mathcal{A})} は三角圏の具体例となる。
このような具体例の抽象化は、数学概念だけにとどまらず定理もそうだと思う。はじめにピタゴラスの定理は抽象的なものであったが、それに慣れると今度はそれを一般化するような定理があるのではないかと思うだろう。それでついに余弦定理を得るのである。

物理学などの科学は理論と実験とがある。理論をつくったり法則を導いたりするだろう。そのプロセスは抽象である。他方で、実験して理論が正しいかどうかを検証する過程は具体である。科学のはじめは理論も素朴なものであり、マクロのものであった。しかし、時代が進むにつれて電気になったり電子になったり宇宙となったりどんどんと抽象化していった。はじめは原子は圧倒的な抽象物であったが慣れることによって、いまや当たり前の存在となり、それよりももっと小さい(抽象的な)対象物を研究材料としている。

数学も同様なのではないかと思い始めている。数学にも抽象(理論)の過程と同時に具象(実験)の過程もある。そして科学研究と同じように具象もどんどん抽象化していっていくのだろうと。
数学的対象や数学的現象は自然対象や自然現象とは異なり目に見えない。しかし、数学を学べばそれらはひしひしと肌感覚として感じることができるのだろう。そのようなまでに数学ができるようになりたいな。



僕から以上