疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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なぜ学ぶのか。信念の相対化のため。

なぜ学ぶのか。この題名には主語かない。したがって2つの解釈ができる。
なぜ「私は」学ぶのか。
なぜ「我々は」学ぶのか。

前者は個人的な問題である。それはただ単純で「楽しいから」「せずにはいられないから」である。
後者はそれほど簡単ではない。一般の人が納得できるような解答はあまり思いつかない。説得的な解答は「学ばなければ為政者などから搾取されるから」などであろう。要は学ぶ理由は「損をしないため」である。
それはそれで間違いではないと思う。しかしそれだけでは物足りない。我々が学ぶのは「自らの信念を相対化させるためだからだ」と私は考える。

我々は自分の出生や経験から常識や正しさを決める。これが当たり前なんだと理解して一定の信念を形成する。しかし、別の文化を見たり、過去を振り返ることによって「自分が持っていた信念は実は特殊な事情から出来たのだな」と反省して信念が変容する。信念が揺さぶられまた作り直し、さらにまた揺さぶられ、また作り直し....その信念の変化と構成の過程こそまさに学ぶことであり、ひいては生きることである。

例えば、....と言いたいところなのだけれどもあまり具体例はないかな。ロシアに行ったとき、カフェの店員が電話したりチャットしながら仕事をしていた。その様子を見て「日本では考えられない行動だな」と思った。新年にはコンビニ(に相当するスーパー)が休んでいて「正月ぐらいは休むんだな。たいして日本はガチでやっているんだな」と思ったりした。いいか悪いかは別にしてこれまでの常識が揺さぶられたことは確かである。他にも歴史を通じてこれまで当たり前と思っていたことが実はそうではなかったということを理解して、自分の考えを相対化することができる。
今は混浴はかなりマイナーで破廉恥のイメージがあるけれども、確か、昔は(明治前まで)、普通に男女裸で混浴していた(江戸時代に禁止令が出されたけど結局、混浴が少数になったのは明治以降とのこと)。そのことを知れば自分たちの常識や伝統が最近のものであるのだと気づき、信念は相対化される。

さて、信念の相対化には2つの問題点がある。
1つは我々は信念を相対化したつもりが得てして自らの常識や偏見を強固にさせるということである。
例えばロシアの店員が仕事中に携帯をいじっている姿を見て、ある人は「日本もこのぐらいの自由があってもいいんじゃない」と思うかもしれない。が、別の人は「日本人はなんて真面目なんだ。対してロシア人はなんて体たらくなんだ」と思うかもしれない。ある種の事実を知って、信念が揺さぶられたとしてもその反応はまちまちであり、おうおうにして自らの信念や偏見を強固にする。もともとロシア人がダメなやつだと思っていたならば、「やっぱ、ロシア人はダメだ」という根拠にもなってしまう。信念を相対化させるつもりが信念の固定化をさせてしまうということである。このようなことが悪いことなのか、いけないことなのか「教養」がないのかどうかは、判断しかねる。わからない。別のそのような信念の固定化を助長する思考過程が悪いと言えるのかどうかわからない。それが普通なんじゃないかとも思う。出来るだけそうにはなりたくないと思っているけれども。

もう1つはたとえ自らの信念を相対化したところで「だから何?」となることである。たとえこれまでの信念がある種の固定観念であったことがわかったところで「だから何?」となるのである。例えば、今誰かが「混浴を復活させよう」と主張したとする。大半の人が反対するだろう。そのとき賛成者が「でも、かつては混浴が普通だった」と反論したとする。しかしたとえそうだっととしても、反対論者は自分の意見を変えるだろうか。おそらく「昔はそうだったかもしれない。でもだから?」と反応するだろう。自らの信念は相対化されたかもしれないが、それでおしまいになると意味がない。
タトゥーのある人も温泉の入浴が可能となるようにすべきかどうか議論されている。そのとき賛成論者が「他の国ではタトゥーはファッションとして考えられているんだよ。だから他の国ではタトゥーがあっても入浴可能なんだよ」と言ったとする。しかし反対論者はたとえ「タトゥーは悪いもの」という信念が揺さぶられたところで、「へー。世界の諸外国の温泉はタトゥーOKなんだ....で、だから何?」で終わってしまう。
問題は信念が相対化されっぱなしになるとそれはそれで意味がないということである。再び信念をより良きものへと構成せねばならない。そのために考えるのである。

信念が相対化されて自説を撤回したり修正したりして良い方向に進めばいい。しかし固執化の方向に向かいがちであり、信念が揺さぶられっぱなしで疑念しか生じなくなってしまっても困る。信念の変容性(柔軟性)も歳を重ねたり立場によって鈍るだろうし。たぶんいい方向に進むのはとても難しいと思う。

「なぜ学ぶのか」にはさらなる問いがある。それは「なぜ学ばなければならないのか」である。
学ぶことを強制することができるのか。私はいまのところは学びたくなければ学ばなくてもいいという立場なので、「すべての人は学ばなければならない」なんてことは言えない。「学んだらこんないいことがありますよ。こうなりますよ。」とは他の人には言えるけれどもそれでもやりたくないという人に対して「やりなさい」とは言えない。
それに「勉強」は本からしかできないが、「学ぶ」ことは何も本のみからしかできないことではない。生活したりいろいろなことを体験して反省したりして「学ぶ」ことは十分できるからである。ただ我々はそのような自己反省をやみくもにやったり自己流でしていて、「正しい仕方」を知らない。自己反省の方法を勉強することはできると思う。そしてそれはおそらく主に哲学から身につけることができる(はず)。



僕から以上