疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

近況報告

毎月のブログ更新のためサボり記事。
今日付で会社を辞めた。
2019年の4月1日からちょうど2年で辞めた。明日から別の会社で働く。
今の会社ではいろいろのことを学んだ。その内容は今は書かないが、それが次の会社で活かせればと思う。

当初は起業する予定で辞めたのだが、その後、代表取締役が採算が取れないと起業を諦めたため、起業は頓挫して、新しい会社に入った。
次の会社ではとりあえずなんとか受注を受けて生き抜くことが当面の目標である。その間に何か別のビジネスができればいいと思っている。

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在宅勤務をおこなっているとき、しばしば隣の家から怒号が聞こえていた。その家はおじいさんとおばあさんの二人暮らしであり、その罵声の主はおじいさんであった。
「ばばあ!!」と叫ぶ声は近所に広がり、業務に集中できなかった。じいさんはほぼ寝たきりの状態で体が悪く、たいしてばあさんは買い物に行くなど一通りのことはできる状態であった(と思う)。
私は「これから毎日のように在宅で仕事をしなければならないのに、この罵声を聞かなければならないのか」と嫌な気持ちになっていた。そして「おそらくこの怒号が消え去るのはじいさんが死んだ後のことになるだろう」と思っていた。
昨日、起きて窓を開けてみると隣の家に喪服姿の人たちが何人かいた。「どうしたのだとう」と眺めてしばらく観察してみた。どうやら隣の家に不幸があったようだった。いつも家の中にいるじいさんが車椅子に乗って、どこかへ出かけている。おばあさんが亡くなったようだった。
おばあさんとは関わりはなかった。しかし少しショックだった。亡くなったと知って(正確にはそのように推測したに過ぎないが)、振り返ってみると、最後におばあさんを見たのは1週間ぐらい前の夜であった。
夜10時ごろに家に帰った時、おばあさんが玄関前で猫に「もうそろそろ家にお入り」と話しているところだった。私はそれをじとっと見て、向こうも自分のことに気づき、お互いに目があったが、そのまま無視して家に入った。それが最後だった。部屋に入って「『こんばんは』と一言、言えばよかったな」と少し思ったが、まさかそれが最後になるとは夢にも思わなかった。人はあっけなく急に死ぬこともあるんだなと気づかされた。そして今のところおばあさんが可愛がっていた猫を見かけていない。あの猫はどこに行ったのだろうか。
葬儀が終わった後、家に戻ってきたおじいさんは少し弱気になっていたように見えた。というのも親族の一人にたいして「俺はもう一人なんだから、たまには顔を出しておくれ」と言っていたからである。じいさんもばあさんが死ぬことは想定していなかったのだろう。
個人的にはこれでもう近隣から罵声を聞かずに済むこととなるので嬉しいのだが、まさか罵声を浴びせるほうではなく、罵声を浴びせられていたほうが消えるとは思っていなかった。

母親にこのことを話したら、自分のじいさんとばあさんも似たようなものだったとのことだった。曰く、おばあさんは晩年、毎日のように「くそじじい、さっさと死ね!」と罵声を発していたが、いざおじいさんが死ぬと「なんで死ぬんだ! 悲しいよ」とおめおめと悲劇のヒロインとなっていたらしい。「そんな後悔するんだったら、最初っからそんな罵詈雑言、言わなきゃいいのに」と思うけども、キレやすくなる認知症のパターンがあるらしく、怒号を発せずにはいられない。そのようなケースが意外に多いのだとのことだった。

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とりあえずは私は自分のしたいことをしよう。いつ死ぬかもわからないから。


僕から以上