疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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敗戦の日に戦争を考える。東京新聞の社説を読んで。

こんにちは。どうも僕です。

毎年この日が近づくと、先の大戦(大東亜戦争。別名: いわゆる太平洋戦争)の話題が出てきます。

今回はたまたま憲法9条についての東京新聞の社説を読みましたので、それをダシに戦争と憲法9条について考えてみたいと思います。

www.tokyo-np.co.jp

 東京新聞の社説(2017/08/14)

要約

この東京新聞の社説を要約すると次のようになる。

 

憲法9条の改正の動きが安倍総理の「加憲論」によっていよいよ本格的になってきた。

われわれ(東京新聞)は「憲法9条の理念」を守らなければならない。そしてそれを次世代につなげなければならない。

改正を行えば「憲法9条の理念」が壊れてしまう。さらに自衛隊は現行憲法で国民に広く認められているから、そもそも改正は不要である。

または、あえて「憲法9条の理念」を守るために改憲を行うという考えもある。

憲法9条を改正か維持かは、われわれ国民が決めることだが、われわれは「憲法9条の理念」を守るための行動をするべきだ。

 

解説

お分かりになると通り、これは----社説のタイトルからも察せるように----そもそも「憲法9条の理念」を守ることが前提となって、議論されている。つまり、ここでは「憲法9条の理念」を守らない人たちのことは考えられていない。理念を守るために考えて行動しようとしか言っておらず、「そもそも『憲法9条の理念』を守らなければならないのか」という疑問は一切生じず、したがってそれに関する考察などは一切連中の視界からは消え去っている。もし誰かがそのような疑問を呈したら、連中は有無を言わさず袋叩きにするのだろうか。普段寛容や言論の自由を言っている奴らがである。そうでないことを願う。

社説では「思考停止に陥らずに、一人ひとりが考え続け、行動すること」と言っているが、はたしてそのような前提からの考察が思考停止に陥っていないと言えるのだろうか。

 

しかしこの社説が小賢しいのは守るべきと主張されているものは「憲法9条」ではなくあくまでも「憲法9条の理念」であることである。

 

さらに連中が言っているその「憲法9条の理念」とやらは、曖昧でよくわからないのである。それでは「憲法9条の理念」とは一体なんなのだろうか。

 

憲法9条の理念」とは何か。

現行憲法には次のように書かれている。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これを私なりにまとめると「憲法9条の理念」とは次の3つに分けることができるだろう。

(1): 平和を希求する。
(2): いかなる場合でも、戦争--武力による威嚇や武力の行使すらも--を決してしない。
(3): 国の戦力を持たない。

 

社説の「憲法9条の理念」は曖昧。

それでは東京新聞の奴らが「憲法9条の理念」とやらを具体的にどのように考えているのか。社説を読んだだけではよくわからない。ここには一方では「九条に手を加えれば、戦争放棄や戦力不保持という理念が壊れてしまう、との懸念は当然です。」と書かれているので、(1)、(2)、(3)のすべてが「憲法9条の理念」だと考えられる。(1)は直接には書かれていなけれどもこれを守るのは当然。しかし他方では「現状のまま自衛隊憲法に書き込めば、専守防衛を逸脱したまま追認することになり、九条の理念は蔑(ないがし)ろにされてしまうからです。」と書かれているので、(2)も(3)も否定して、「憲法9条の理念」とは(1)のみとも考えられる。

これは矛盾というよりも単に「戦争」や「戦力」の概念の捉え方の違い、要は解釈の違いから生まれたものであろう。連中は専守防衛は戦争とは思わないし自衛隊は戦力とも思わない、なんとも自分たちに都合のいい解釈をしている訳だ----どう考えても、専守防衛だろうがそれは戦争だし自衛隊は国の戦力以外の何ものでもないはずなのに。

 

リベラル不信の一因は連中が曖昧な言葉を使い自分の都合のいいように解釈しているから。

 ここでは「憲法9条の理念」と綺麗に言っている。それは結構なことだ。しかし、先に述べたようにその具体的な内容はよくわからない。抽象的で綺麗な言葉を曖昧であるがために都合よく解釈しているのではないか。もしそうならば、それはただの自分勝手なご都合主義にすぎない。

リベラルな人たちは綺麗な言葉で誤魔化しているのではないかということが私が連中を信用できない理由である。

さらに、連中は(都合のいいときだけ)権威によって自説を根拠づける。社説で「歴代内閣は自衛隊憲法が禁じる「戦力」に当たらないとの見解を堅持してきました。
」と書くように。一方で進歩だの革新だのと権威は自らにありと大仰な態度をしといて、他方で自分たちに都合のいいときだけ権威にすがるならば、私は連中を否定する。エスタブリッシュの否定である。

  

もしも憲法9条について主張するならば、「憲法9条の理念」とやらを明確に示しそれを守れと書かなければならない。

リベラルな人や新聞社はその崇高な理念とやらを具体的に示してもらいたい。それは彼らの信用を取り戻す第一歩だからである。そしてそこから議論が始まるのではないか。

  

憲法9条を一言一句変えてはならないが日本には個別的自衛権を持っているし自衛隊は戦力ではない」という考え方の人よりも少なくとも9条の理念というものを明確にされて、あえて「改憲」をするという人たちや「個別的自衛権も認めないし自衛隊も認めない」という原理主義者のほうが私としては筋が通っているように見える。それが支持できる考えかどうかはもちろん別であるが。

 

 

 私の考え

それでは私が「憲法9条の理念」とやらをどのように考えているのか最後に示そう。

(1): 平和を希求する。

(1)はもちろん大賛成である。われわれはわが日本国だけでなく世界の平和を望む。

 

(2): いかなる場合でも、戦争--武力による威嚇や武力の行使すらも--を決してしない。

(2)は厳密な意味では反対である。つまり、「いかなる場合でも」というところに異議を唱える。これは例えばわが国が侵略されても、武力による威嚇すらも使ってはならないというものである。憲法9条には抑止力すら認められていない。これは断じて認めることはできない。

私は武力による威嚇(抑止力)はもちろんのこと武力の行使を認める。
つまり、私は侵略されたり攻撃を受けたならば、その相手国に対して武力の行使を行う。またもちろん攻撃を受ける前では、武力による威嚇も辞さない。
 

(3): 国の戦力を持たない。

(3)は、したがって、認めない。反対である。武力とは文字どおり「陸海空軍その他の戦力」であるからである。

 

 

つまり私が守るべき「憲法9条の理念」とは平和を守るために努力して、平和を壊すやつらが来たならば、そいつらを武力を使ってでも倒して(追い返して)平和を文字どおり死守するということである。そして私はこの意味での「憲法9条の理念」を守りたいと強く思う。だが、それ以外の理念----自衛戦争放棄や戦力不保持など----は守らない。もしかしたら、1000年後になったら、これらの理念が実現されているかもしれない。だが、現在のわれわれではそれらを達成する方針すらも持っていない。私が示したものが現実的な理念だと思う。

 

 

要は「侵略戦争」を認めずに「自衛戦争」は認めるということだが、では「侵略戦争」と「自衛戦争」の違いは何かと言われれば、実はそれほど違いがないのかもしれない。戦争を自ら始めるときはいつでも為政者は「自衛のため」と言うからである(まだ詳しくは調べていないからわからないけど、おそらくそうだと思う。加藤周一がそんなことを言ってたと思うが忘れた。また調べる)。さらに相手国の基地に先制攻撃をすることは「侵略」なのか「自衛」なのかまだ私には結論がついていない。そのことで先日議論した。私は先制攻撃に対して「それは相手に反撃を加える口実を与えてしまうからよくない。」と言ったが、議論相手は「先制攻撃は自衛のためであるから必要である。君が自衛権を認めるならば、基地の先制攻撃も認めなければならない。」と言われた。私はまだわからない。考え続けよう。

 

 

僕から以上