疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

読書感想#7: 香山リカ著『がちナショナリズム』(前半)後半はないよ。

こんにちは。今日は本の書評です。

今回、書評するのはエッセイストでプロレスラーで活動家の香山大先生(笑)の『がちナショナリズム  「愛国者」たちの不安の正体』です。

 

香山リカ, 『がちナショナリズム』, ちくま新書, 2015, 第一刷発行

今回の書評は以下の通りです。前半の記事(つまりこの記事)ではまず簡単な本のまとめを書きます。その次に第二章の「崩壊するエディプス神話」を取り上げます。それはここで書かれていることが人は自身のパラダイムによって物事を見て考えているという科学理論における「パラダイム論」の格好の具体例だからです。そのためにまずパラダイム論を簡単に説明します。そのあとに第二章に書かれている内容をまとめ、最後に第二章に書かれていることをパラダイム論に適応したいと思います。それが前半です。

後半の記事は気になった箇所を引用してそれに対してコメントをします。と言っても、プロの漫才師である先生のご著書ですので、いたるところで先生はボケを畳み掛けておられます。ですので、一介の素人である小生がプロのボケをいちいちツッコミするは明らかに不可能です。ここに先生のボケをほんの少ししか拾うことができないことを先に謝っておきます。本当に申し訳ございません。

そう思ったのですが、めんどくさくなったので適当に書きます。図書館に返さなくちゃいけないし。

 

書評をする前に今回評者が香山リカを見直したところを書く。それは著者はたくさんの新聞を読んでいて、その中には右寄りの産経新聞も読んでいるということである(p.142)。さらに時には右寄りのインターネット番組も視聴している(p.38)。これらは何を示しているかというと著者は自身の性向と合う媒体(朝日、毎日、東京)のみだけでなく、自分とは違った見解に対しても接しているということである。

 

本書のまとめ 

本書はこれまでに出された著者の論文を加筆しまとめたものである*1。以前に香山は『ぷちナショナリズム』を上梓した。そこでは、ナショナリズムの台頭が観察され、そこから全体主義やファッシズムが生まれるのではないかと懸念した。それから十数年後そのとき懸念は予言として現実味を帯びてきた。 もはや蕾も咲き始めてしまったファッシズムを私たちは止めなればならない。

 

本当にこれだけである。あとはダラダラと書き続けているだけである。

 

もっとも、香山のようにある種の社会現象や政治現象を、フロイトラカンクライン派・ジジェックの精神分析学を用いて論じているのは、方法としてはオリジナリティがある。ただ、その主張が正しいかどうかは別問題であるが。彼女の主張を信じるか信じないかはあなた次第という訳である。

 

本書の構成は以下の通りである。

もくじ

序章pp.7-14

 

第一章 ナショナリズム気分から排外主義へpp.15-40
ツイッターからの謎のメッセージpp.16-20
事実かどうかは、どうでもいいpp.20-26
二〇〇二年から二〇一五年に、何が起きたのかpp.26-31
「気分」と「権力」の合体pp.31-36
「右傾化」にネットが果たした役割pp.36-40

 

第二章 崩壊するエディプス神話pp.41-79
首相批判は、「不謹慎」?pp.42-45
日本社会のパターナリズムpp.45-50
「分離不安」におびえる親たちpp.50-54
巨人の星』世代の特徴pp.54-56
エディプス・コンプレックスpp.57-60
尾崎豊に見る「エディプス葛藤の再燃」pp.60-63
二世万歳ーー小泉親子の謎pp.63-69
「父の娘たち」の生きづらさpp.69-75
なぜ「屈託のない二世」が生まれるのかpp.75-79

 

第三章 日本は「本当のことを言える国」か?pp.81-100
"見えないエディプス"の存在pp.82-85
若者に広がる「切り離し」pp.86-91
イマジネールな社会pp.92-97
日本は「個の時代」になっているのか?pp.97-100

 

第四章 スポーツを利用するナショナリズムpp.101-136
日韓ワールドカップでの「日の丸」pp.102-108
ヘイトスピーチの広がりpp.108-115
「スポーツ→排外主義」は、なぜ起きたのか?pp.115-120
「JAPANESE ONLY」pp.120-124
ブラジルW杯の異様な報道pp.124-127
「ポジナショナリズム」の危うさpp.127-131
「世界のNOMOは、私たちの手柄ではない」pp.131-136

 

第五章 日本は"発病"しているのかpp.137-176
東京オリンピック決定後の"奇妙な高揚感"pp.138-143
安倍政権を支持する人々pp.143-146
安倍首相とは、どういう人物なのかpp.146-149
安倍首相と閣僚たちの「傲慢症候群」pp.149-153
自分に批判的な意見の軽視、蔑視pp.154-158
不安を抱えた日本人pp.158-161
憲法はどこからやってきたのかpp.161-163
大文字の他者」の座につこうとする首相pp.163-166
日本における「不安の増大」pp.166-169
「国家という病」に名医はいるのかpp.170-173
なぜ、ターゲットが「在日韓国・朝鮮人」なのかpp.173-176

 

終章pp.177-188
誰から日本を取り戻すのかpp.178-182
攻撃の"お墨付き"を与える安倍総理pp.182-185
「奴らを通すな! ¡NO PASARAN!」pp.186-188

 

適当き箇条書きする

真面目に書くのがめんどくさいので、箇条書きで書く。早く図書館に返さなくちゃいけないし、貸し出し期限切れているから。

ペンネームについて

  • ペンネームで活動している理由(pp.16-20)。

筆名を使い続けているのには、私なりの理由がある。もう20年近く前の話になると思うが、私の執筆活動を知った患者さんから「病院では、"ふつうのお医者さん"にかかっていると思いたい。先生が本を書いている人と思うと落ち着かない」と言われたことがあった。私はそのとき、「ペンネームでの活動と診察は完全に分けます。病院ではなるべく"ああ、あれが香山リカ"と気づかれないよう工夫して、私もそのことを忘れて診療に専念しますね」と約束したのだ。私自身も、その方がずっと病院での仕事はやりやすい、と思った。p.16

 ....というらしい。よくわかんないや。作家としての活動と医者としての活動を意識的に分けるためにペンネームを使っているということかな。とするならば評論活動したのは医者としてのキャリアが始まる前なのか、後なのか気になる。はじめに医者として働いて、そのあとに副業的に評論活動を行っていたならばその理由は納得できるが、逆ならばそれは説明になっていないから。それとも最初は本名で評論活動していたが、医者となり「本名の評論活動は患者さんにも悪影響を及ぼしかねない」として、それ以後ペンネームで活動するようになったのか。

まぁ、どっちでもいいや。評論活動する前から「将来、患者さんに悪影響を与えないために、評論活動する際はペンネームで活動しよう」とでも思っていたのか....。そうなら相当な患者さん思いの人じゃないか。まぁいいや。でも医者の副業で作家活動なんかしていいのかね。

 

出生について

  • 「私は在日ではない。日本人ですよ。」と発言するが、差別助長をしたくないために戸籍謄本は提示しない。pp.20-26

その名前[引用者注: 香山の本名とツイッターから推測された名前]は見ようによっては韓国風なのだが、私とはなんの関係もないものだ。

  ただ大きな問題は、その名前を有する女性医師は実在し、関西の病院に勤務しているということだった。言われなき誹謗中傷がその医師のところにまで届き、診療にも差しさわりが出ているかもしれない。p.21

 

そうこうするうち、後述するような在日コリアンらをターゲットにしたヘイトスピーチ・デモに対する抗議活動をしている人が、「一度、日本人ですと名乗ったらどうですか」とアドバイスしてくれた。

  「以前なら、自分の国籍をわざわざ明らかにする必要はない、という考えがあったかもしれませんが、今は『自分は被差別の当事者としてではなく、差別をするあなたと同じマジョリティ側として抗議している』と立場をはっきりさせることも大切だと思います。」

   私はこの助言に目を啓かれ、ツイッターで「私は北海道生まれの日本人ですよ。国籍を変えたこともないです」と簡単に出自を語った。

   ところが、それも思ったような効果はなかった。「北海道の前に親はどこにいたんだよ? 半島だろ」「戸籍謄本の写真をアップしてみろ」「出せないのはウソだからですね」など反発こそ買ったが、「香山は在日。本名はこれ」といったツイートが消えることはなかったのだ。

  彼らにとっては、もはや何が事実かさえ、どうでもよいのだろう。pp.22-23

要は、勝手に香山の本名はコレだと疑われた。それだけでなく実在する人もいるしその人に迷惑がかかる。だからヤメてということだ。本当は出自など言う必要はないと思うが、どうしてもヤメてくれないから、勧めもあってしょうがなく日本人だと言った。けど、それでもダメだった。連中は事実なんてどうでもいいということなんだ-------だいたいこんな感じである。

でも、本当に疑念を解消したいのならば、戸籍謄本を見せればそれでいいじゃんと思う。それがなぜ「差別を助長する行為」 と思われるのかがよくわからない。このままじゃ、その医師だけじゃなくて、第二、第三の被害者(第一のその医者が被害にあっているかどうかはわからないけど)が、生まれるかもしれないんだよ。戸籍謄本を見せれば、疑念が晴れてそれ以上の追求は無くなるんだよ。もしあってもそれは異常者だから無視すればいいし。要は、確実な証拠・事実さえ見せればいいわけであって、自己申告でそれで疑念が晴れると思うのはちょっと甘いんじゃないかな、考え的に。もちろんそれを見せるかどうかは本人の自由だけど、その代わり言われのない疑いがずっとかかり続けるんだよ。それはどうなのかね。

まぁ、評者にとって香山の出自なんかどうでもいいんだけど。在日なら在日で堂々と生きればいいだけの話なんじゃないの。余計な反日行為さえしなければ別にどうでもいいよ。

 

第二章について

  • 第二章 崩壊するエディプス神話

ここ数十年で親子関係がおかしくなってきた。まず安倍晋三はじめ百田直樹などの典型的なパターナリズム(父権主義)が台頭してきた(pp.48-50)。それだけでなく、母親と子(男の子)がまるで恋人のような関係である異常事態が最近観察されている。これは分離不安の症状である(pp.50-54)。さらに極めつけは、二世タレントが堂々と自分の親を賞賛したり尊敬していると公言することである。ときには親の七光りを使わんばかりの二世タレントもいる(pp.63-75)。その典型が小泉純一郎とその息子たち孝太郎と進次郎である。

これらは少し前の世代では考えられないような現象である。前の世代では親子関係は巨人の星のようなものであった。つまり、子供(星飛雄馬)は父親(星一徹)に対して、心の奥では敬愛しているけれどもそれと同時に憎しみに似た感情も持っている、そのような複雑な親子関係である(pp.54-56)。また、このような複雑な関係を尾崎豊は歌い、共感を得ていた。が、いまの子はその曲に共感しない(pp.60-62)。

このような父親と息子が支配したりされたりいがみ合ったりする関係はフロイトエディプス・コンプレックス理論で説明される。以下は香山の説明。長い引用であるが、ご了承願いたい。

父親に敵意を抱くと同時に、父親からの威嚇に脅えるといういわゆるエディプス・コンプレックスだ。ただ、正確にはエディプス・コンプレックスは、父親と息子だけの間にではなくて、「父、母、息子」のエディプス三角といわれる構造の中に生まれる。息子が父親に憎しみを抱き、威嚇を畏れる原因になるのは、母親への近親相姦的な愛着だといわれる。エディプス葛藤が最も活発になるのは3歳から5歳ころまでで、その後、息子は母への異性としての愛をあきらめて、父親からの威嚇をより象徴化された規範やモラルという形で自分の中に取り込むといわれる。そうやって内在化された"父の恐怖"は超自我と呼ばれ、それに従うことで人は一生、良心的、道徳的に振る舞うことができるようになる。店員が見ていなくても万引きせずにいられる、などというのもこの超自我の機能だと言ってよい。pp.58-60

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p.59: エディプス・コンプレックスの関係

 

巨人の星や尾崎にはこのエディプス・コンプレックスの葛藤が垣間見える。だが、最近の若者には尾崎の曲をなんとも思わない。これはどうしたことか!!

彼らには、エディプス葛藤の再燃は起こらないのだろうか。いや、もしかすると、幼児期にそもそもエディプス・コンプレックスを体験していない子供が増えているのではないか。そういう大胆な仮説さえ、ふと考えたくなってしまうような結果だ。

pp.62-63

どうぞ、かってに妄想にふけってください。

ファンタジーに生きていますねぇ。これは極めておもしろいです。というのもこれはパラダイムに支配された哀れな人(研究者として当然の反応)の一例だからです。ここでパラダイム論は語らないけれども、要はこの「尾崎のようなエディプス葛藤を歌った曲に反応しない若者」というのは、フロイトの理論の反例(アノマリー)である。それに対して学者は「我々の理論では説明がつかない。どう対処しよう」と考える。これはニュートン力学パラダイムとしてあったとき、ある惑星の計算がどうしても一致しないというアノマリーが起こり「どうしようか?」と研究者が考えることと同じである。そのとき、当然ながら「フロイトのエディプス理論は誤っているのではないか」とも考えられる(「ニュートン力学は間違っているのではないか」と研究者が考えられるのと同様)。しかし香山はそうとは(一切!)考えず、新たな仮説を導入してフロイト理論を強化してなんとか説明しようと試みているのである。それは「近くに別の惑星があるから計算が合わないんだ」と考えるのと同じである。そのようなパラダイム論の一例がここで見られるのである。そのような例は他にも出る。

 

それにしてもそんな反体制的な歌が共感するとでも思っているんですかね....くだらない。反体制に行かない若者はおかしいって言いたいのですかね。勝手にどうぞ。

 

 

さらに香山に理解不能と言わしめたのが、小泉兄弟である。兄の孝太郎は芸能界入りを諦めかけていたが、小泉首相の誕生も相まって、メディアに出るチャンスが来たと思った(pp.66-67)。父も息子の活躍に対して笑顔で答えた。さらに、次男の進次郎は父の跡を継いで政治家になったが、父(純一郎)を敵対することは一切なく、尊敬していると公言する(p.67)。彼らの一連の行動や言動は香山大先生を次のように言わしめた。

この父親と息子たちは、従来のエディプス・コンプレックスの理論では、どうやっても説明することができない。

p.67

この事例はエディプス理論の反例である。もっとも小泉家は離婚しているので「父・母・息子」の完全なエディプス三角が成立しなかった可能性もある。それでもこれは間違いなく理論の反例であると香山も認めている(p.68)。

さてそれならば「フロイトの理論は間違えなんじゃねぇ? そもそもエディプス・コンプレックスってのにどんな証拠があるんだ? 」と考えを改め直すと普通は思うだろう。だが、パラダイムは人を束縛する。簡単にパラダイムを捨て去ることはできない。特に、根本的な理論の放棄は、なかなか難しく、普通は別の補助仮説を導入してこの反例を克服しようとするのである。

とはいえ、30代のきょうだいふたりとその父親がここまで仲睦まじくお互いをほめ合い、持ちつ持たれつの関係を築いている姿は、上の世代から見ればやや不思議に映るはずだ。

p.68

は? なんで? 理由は? エディプス・コンプレックス? 笑わせんな。それって検証でもしたのか? 「不思議に映るはずだ」って言ってるけどさ、それっておまえのその理論から導き出された勝手な推論だろ? 実証性あんのかよ? 

しかもこの場合、父親はある意味、"日本一の権力者にして有名人"なのである。そういう親に対しても反感や反発を覚えない孝太郎氏や進次郎氏を見ていると、「エディプス・コンプレックスそのものがまったく経験されないまま、ここに至ったのではないか」と本気で考えたくなってくる。

p.68 (強調は引用者)

おもしろいですね。エディプス・コンプレックスの存在を否定してはおらず、あくまでも経験されていないと捉えているのですかーーー。そのように仮説を立てて、理論に対するアノマリーを対処しようとするのですか。

それじゃあ、その仮説とやらの実証性はあるのですか? 所詮、あなたの妄想でしょ? 

だが、そこから香山大先生(もはやギャグマシーンとして尊敬せざるを得ない!!)はさらなる妄想を膨らませる。つまり、これは小泉親子に限らず世間もエディプスを経験していないんだぁ、そうすれば尾崎のことも説明ができルゥ!!っとひらめいてしまったのである。もちろんそこに証拠は何もない。

エディプス・コンプレックスが欠如した若者に世間が違和感を持たないということは、もしかするとこれは、小泉親子に限ったことではなくて、世の中一般に広がりつつある傾向だと推測することも可能ではないだろうか。先の尾崎豊に対する若者の冷たい反応も、このことからうまく説明することができる。

p.69

 

だが、フロイトの理論に何一つ信頼を置いていない評者から見ると、つまり別のパラダイムから現象を見ている人からすると、香山の考えは愚かにしか見えない。

 この後は、小泉兄弟のような屈託のない二世がどうして生まれるのかと書かれその問題点(らしきもの)を指摘している(pp.75-79)。だが、これ以上はめんどくさいので省略する。

 

ちなみに、p.73には二世タレントの一覧が書いてある。

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 p.73: 二世タレント

 

さて、ここには何人かの二世の政治家が記載されている(石原、小渕、小泉、田中)。だが、よくよく考えてみるとここに記載されてもいいような政治家の名前がないのだ。それは鳩山由紀夫・邦夫である。なぜか鳩山の名前は記載されていないのだ。鳩山は二世どころか四世なのだが。特に鳩山由紀夫をのぞいたところに違和感を覚える。意図的にのぞいたのではないかと勘ぐってしまう。

とはいっても評者は鳩山由紀夫が父(威一郎)に対して、どのような関係であったかは知らないのでなんとも言えない。もしかしたらエディプス論に当てはまる関係だったかもしれないし、小泉親子のような関係だったかもしれない。もし小泉親子と鳩山親子を比較した議論があったら、なおよかったかもしれない。「小泉親子は屈託のない関係ですが、鳩山親子は違いましたよ」とあれば香山の主張は説得力を高めたかもしれない。違いが出なかったら、そもそもこの議論がオジャンになるけど。

 

さて、まだ第二章である。まだまだある。先が思いやられる。やはり、すごいな。香山先生は。

 

若者は本当のことを言っているのか

第三章も引き続きエディプス論である。

ここ最近日本礼賛の言説が多くなっている。特に若者はそうなっている(p.85)。

しかし、第一章で見た通り、日本の状況は若者を中心としてかなり変わりつつある。とくに若い人たちを中心に、少なくとも「日本礼賛」に関しては、いくらでも何でも言ってよい、という雰囲気ができ上がりつつある。日の丸、君が代に対する「タブー」の感覚もなくなった。

p.85

 そもそも、日の丸・君が代に「タブー」なんかあったんですか!!???? そっちのほうが驚きですよ。そういうことを普通にさらっと書いている。

  • フロイト理論「切り離し」による若者の分析

いつものように(香山読者ならばおなじみの)「スプリッティング(分裂)」と「ディソシエイション(解離)」を解説(pp.86-90)。で、若者はそのような病気にかかっているから、「日本大好き」という発言は間に受けるべきではない、本心が隠されていると主張する(pp.91-100)。そのときにラカンの「イマジネールな関係」という理論を引用する。

そんなのに根拠なんてあるんですかねぇーー。

ここでは最近の日本では「この人の言うことを聞いていれば大体OK」というような象徴を求めている。そのようなものを<鏡像>と呼んでいる(pp.98-99)。例えば、それは、みのもんた安倍晋三であるという(pp.98-99)。かつてみのもんたが「〇〇が健康のためにいいですよ。」と言えば、それが売れた。だからスーパーの店員は必ずチェックしみのもんたの言葉を聞いてそれに従っていたのである。また、安倍も首相に再任されたあと、アベノミクスなどの政策から支持を得られて、安倍の政策や発言はすべて「さすが安倍さん」と評価される傾向にある(p.99)。

このように、「そのときの世間を象徴する絶対的な<鏡像>」の登場を期待し、その人の言うことならなんでも検証なしに従うという傾向は、今世紀に入って日本ではますます強くなっていると考えられる。

  このように心理的カニズムの観点から考えても、私たちが「言いたいことを言っている」と思っていても、それが本当の意味での「自分の言いたいこと」だとは限らない、ということを知っておくべきだ。「日本社会は自由なのだから、そこでの人々の発言はその人の意思に基づいたホンモノだ。国民は自分たちの意思で安倍政権を支持しているのだ」と簡単に考えることはできない。

  「個の時代」がやって来た、と言われて久しいが、私たちが「個」だと思い込んでいるものの実態がいかなるものなのかを、もう一度、見直してみる必要があろう。

pp.99-100

ツッコミどころ満載である。まず、<鏡像>の到来の期待はいつの時代でもある。いわゆるカリスマの登場である。それがなぜ今世紀になってますます大きくなったのか? その理由は書かれていない。そしてその待望論の増加をどのようにして実証したのか(実証するのか)? それは一切、実証されていない。少なくとも、心理学的に推測したまでであり確たる証拠はない。 

次に「本人が言いたいことを言っていると思っていても深層心理ではそうとは限らない」と言うが、それならばどうやって我々は、ある人の意見であると定めることができるのか? そのような可能性を言うだけならばいくらでも言える。つまりこの主張はほとんど意味のないことしか言及されていない。「明日の天気は晴れか晴れでないかのいずれかである」と言っているもので、ほとんど何も言っていない。深層心理ではそうではないといくらでも言い訳ができる。それは検証も反証もしようがない。だから、たとえ深層心理では言っていることと逆のことを思っていたとしても、ある人のパブリックな意見はその人が自由に考えて自由に言ったことしかない。

要は香山は安倍を支持していないが、それに対して現実の世論調査では支持率が高い。だが、みんながみんな本心から言ったことじゃないよ、と自分たちが負けてないんだと言い訳しているようにしか見えない。香山の好きなたとえを持ち出すと、香山は「イソップのすっぱいぶどう」のキツネのような言い訳をしているようにしか思えない。民意はその個人個人が自由な意見を言ったものでなければならない。深層心理のことを話されても、「じゃあ、深層心理まで含めた民意をどのように実現することができますか? 」とこちらはきき返そう。

ちなみに、この引用文は示唆に富むものである。なぜなら、この文章を安倍ではなく代わりに鳩山を想定しながら読むこともできるからである。つまり、「鳩山は09年のとき世間を象徴する絶対的な<鏡像>の登場を期待し、その人の言うことならなんでも検証なしに従う」人であった。我々は当初、鳩山および民主党に対して圧倒的な支持を表明した。それは私たち自身が言いたいことであると思っていた。しかし「私たちが「言いたいことを言っている」と思っていても、それが本当の意味での「自分の言いたいこと」だとは限らない、ということを知っておくべきだ。」

まことにそうである。まさにそのことに気づいたのであった。

「「日本社会は自由なのだから、そこでの人々の発言はその人の意思に基づいたホンモノだ。国民は自分たちの意思で鳩山政権を支持しているのだ」と簡単に考えることはできない。」

そうである。

このように読み替えが可能である。だが、もちろん香山は鳩山などの民主党に対しては一切言わないのである。

おそらくこの人はこうだろう。自分が支持している人が世間でも支持を得られたときは、「世論調査や選挙では国民一人一人は本当のことを言っている。」とするのだろう。だが、自分が支持しない人が世間で支持されているときは「国民は本当のことを言っているわけではない」とのたまうのだろう。もしも、あの鳩山のときに「世論調査では圧倒的な支持を得られているけれども、心理学的に見たら、国民の意思で鳩山政権を支持していると簡単に考えることはできない。」と言えたのならば(言ったのならば)、少しは見直すのだが........そんなことは「太陽が西から出ても」あり得ないことだよ。

 

スポーツとナショナリズム

そんなことを自らのファイターズファンの変容を通して経験した。

私はこれまで自分の故郷である北海道に格別の愛情を感じたこともなく「悪いところではないけれど、たまたま生まれただけ」などと思っていたのに、微妙な"北海道愛"のような感情が芽生えて来たのだ。
 これは、もともと私の中にもあった愛郷心にファイターズが火をつけたのか、それともあくまでファイターズが先にあり、「彼らの本拠地があるから」という理由で愛郷心めいた感情がわき起こってきたのか。自分でもよくわからなかったし、おそらくどちらが原因でどちらが結果ということもないのだろう。いずれにしても私は、「スポーツと愛郷心」とが密接な関係にあることを自分の経験を通して実感し、「これがナショナルチームに拡大されれば、スポーツによりナショナリズムが容易に喚起されても不思議ではない」と感じた。

p.103

ここからW杯の話や冬季オリンピックの話になる。浦和のJapanese onlyのことや浅田とキムヨナの話になってナショナリズムが高まることを指摘する。うんたらかんたら...(pp.104-136)。食傷気味というか、めんどくさくなってきた。

あるとき、私がそういう人に「日本は好きですが、それは生まれて長く育った国だからであって、もし韓国やベネズエラに生まれたらその国が好きになっていたと思います」と答えたら、「かわいそうに。早く目覚めますように」と祈られたことがあった。おそらくその人たちにとって、日本への無条件の愛国心と尊敬を示さない私は、まだ洗脳が解けない憐れむべき人に思えるのだろう。そして、この人たちに対しては、いくら「生まれつきの愛国心」とか「血やDNAに刻まれたナショナリズム」などというものはない、と説明しても、「それがサヨクの洗脳だ」といっさい聴く耳を持ってもらえないことは言うまでもない。

p.114

この箇所は全面的に賛成である。私も日本をいい国だなと思っているが「それは生まれて長く育った国だからであって、もし韓国やベネズエラに生まれたらその国が好きになっていた」はずである。というかそういうものである。問題なのは生まれた国を嫌っているということである。それに「生まれつきの愛国心」や「血やDNAに刻まれたナショナリズム」がないことも当たり前だし、聞いてもらえない方がおかしいと考えるほかない。

 

  • pp.124-125に付箋が挟まっていた。たぶん引用すべき箇所なのだろう。だが、見返してもよくわからなかったからここは省略する。
  • ポジナショナリズムの番組が多く(Youは何しに日本へ?など)、それが偏狭なナショナリズムになってしまうことを危惧している(pp.127-131)。幻想と現実の乖離に気付かされたとき大きな問題が起きるのではないかと言う。

ここにおいてもすでに、「日本っていい国だ。この国に生まれてよかった」といった無邪気な好感だけではすまない、偏狭なナショナリズムの萌芽が見られる。

アホちゃうか。眼科に行くことをお勧めします。

そもそもナショナリズムの定義を教えてください。偏狭なナショナリズムって何ですか? 愛国心って何ですか? ポジナショナリズムって何ですか? ちゃんと言葉をしっかり定めてください。イメージと妄想だけで語らないでください。

  • こういったポジナショナリズムから排他的な考えが生まれる。そんなことが70年前の国際連盟の脱退とダブって見えるとのことである。あんた正気か??(pp.131-134)
  • で、野茂のキャッチコピーと数年前にあった映画のキャッチコピーに話を変えて、終える(pp.134-136)。

安倍首相を勝手に診断する

普通、ある患者さんを診断するのはとても難しいことで繊細なことだと思います。丁寧に相手と話し合ってはじめて診断は下せると思います。にもかかわらずこの人は、安倍首相を週刊誌程度の情報から勝手に診断しているのである(pp.147-149)。ずばり「安倍は傲慢症候群である」と。

私は、安倍首相や閣僚たちは、第二次政権以降、有権者からの期待と熱狂に祭り上げられ、「傲慢症候群」と呼ばれる状態に陥っていると考えている。

pp.149-150

 

それって名誉毀損で訴えられるんじゃないの? 下手したら? 職務乱用なんじゃないんですか? てゆーか、そーゆーことやって橋下さんに怒られませんでしたっけ? また、おんなじことしてんの? 性懲りも無く。それってひどくなーい? 本当に安倍さんが嫌いで、どーしても彼を"お坊ちゃん気質"(p.148)だが何だか言って貶めたいんだね、この人。なんか見てて悲しくなってきたわ。御愁傷様としか言えないわ。

少なくとも、まともに診てもいないのに診断を下すのはいけないと思うよ。少なくとも相当な覚悟を持ったうえで下さなくてはならないよ、マジで。さすがに、精神科医だからと言って、そんなことまでやっていいと思っているのかね。

別に僕は安倍信者でもないし安倍を批判するなとは言わないよ。でも批判するならそういう個人攻撃じゃなくて、「政策」を批判しろや。個人攻撃は卑怯以外の何物でもないよ。

それにさ、祭り上げられたのは鳩山もそうなんだよ。こいつや民主党の連中もまた「傲慢症候群」にかかっていたということはないのかよ??? それについてはダンマリかよ。ほんとダブルスタンダードだな。

 

まぁ、ちゃんと公正に香山の考えをのせると、これはこんな言い訳も言っているけどね。

もちろん、安倍首相や閣僚がこの症候群だという確証があるわけではなく、その統治が必ず失敗に終わると言いたいわけでもない。

pp.154-155

ひどいね、マジで。こんな逃げ道作っているなんて卑怯にもほどがあるよ。

それにそもそもだけど一国の首相や閣僚になったら多かれ少なかれ「傲慢症候群」になるんじゃないの? それって批判になるの? まぁ、別にいいけど。

そりゃぁ、「香山リカは論外」って首相も言いたくなっちゃうよ(p.157)。

 

  • そのあとはこのようなカリスマの所望している日本人の真相にせまる。それは不安が原因であるという。ここでラカンの「大文字の他者」なる話をもってきて議論する(pp.158-161)。一体それには実証性があるのかね。さらにそのあと、急に憲法の話になる(pp.161-163)。憲法は「大文字の他者」だ、で、安倍はその大文字の他者になろうとしているとかどーのこーのの話が出てくる。なんども言っているけど、それってあなたの勝手な妄想でしょ?? なんか検証されたものなの?? ラカンだがジジイェックだが知らんが、それを引用することで何か根拠にでもなるっていうの??? (pp.163-166)
  • で、不安が広がってきたから安倍首相という強いリーダーを待望し、そして登場してきたというストーリーである(pp.166-169)。

とりあえず、ここでストップ。終盤にかけてピッチが上がってきた。突っ込みきれない。半端ないボケの応酬に戸惑う。さすがに疲れた。 

 

 

おわりに 

 そもそもこの人に聞きたいのは「ナショナリズムは悪なのか?」ということである。萱野先生の『ナショナリズムは悪か』を一読することを勧める。というか、先生に与える処方箋はもうないのかもしれない-----もはや症状が治る見込みがないから。

そういやぁ、アドラー心理学の本を読んだから、先生にアドラー心理学について聞いてみたいな。それは純粋に思う。というのも、アドラー心理学はまっこうからトラウマを否定しているから。先生の考えを聞いてみたいものだ。記憶にある限り、先生がアドラーを引用しているところは見たことないし。興味深いねぇ。アンチ・アドラーなのかね。まぁ、どうでもいいか。心理学自体胡散臭いものだから。どれも程度は同じだと思うから。

 

 

追記 2018/04/25

めんどくさいから写真を撮った。本当はこの写真をまとめて記載するべき。けれどもまとめるのめんどくさい。写真の容量を減らすために写真をアップ。

いつかまとめまーーす。

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*1:p.189: 第二章、第三章は『ぷちナショナリズム症候群』の文章を加筆。第四章は『オリンピックが生み出す愛国心』に収録されている「スポーツとナショナリズム」の文章を加筆。第五章は『憲法問題26』に収録されている「憲法を「精神分析」する」の文章を加筆。