疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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ヴォルテールについて

概要

ヴォルテール(1694〜1778)の3つの著作『寛容論』『カンディード』『哲学書簡』を読んだその感想を書く。

はじめに

最近ヴォルテールの著作を読んだ。幸いにもAmazon Kindle Unlimitedで読めたのでサブスクリプションで読んだ。

読んだ順番は(1)『寛容論』(2)『カンディード』(3)『哲学書簡』である。実際の出版順は全くその逆であるが。

もともとヴォルテールの著作を読みたいと思っていた。特に『寛容論』は寛容について考えるときの必読書として多くの人たちが勧めていたからである。さらに『カンディード』もライプニッツの「現実世界はあらゆる可能世界の中で最善の世界である」という最善説を批判した本として知っていたので、是非とも読みたいと思っていた。さらに『ザ・セカンド・マシン・エイジ』の第14章の巻頭に『カンディード』の言葉「労働は、人間を人生の三悪すなわち退屈、悪徳、困窮から救ってくれる」が載っていたので、実際にどこにあるのか気になっていた。『哲学書簡』は全く興味がなく、単に最近ヴォルテールの本を読み続けているから、これも読んでみようと気軽に読み始めたに過ぎない。

読んだ感想はヴォルテールの著作それぞれに対して楽しかった。イメージとしてヴォルテール皮肉屋 と思っていたが、結構合っていた。どうやらヴォルテールは「啓蒙主義」の代表者の一人らしいのだが、やはり私は啓蒙主義が性に合うのだろう。

ヴォルテールはいわゆる万学者・博学者(polymath)である。哲学者としての顔もあるし、文学者(作家)としての顔もあるし、サイエンスライターとしての顔もある。百科全書派の学者として相応しいと頷けた。このような知識人に憧憬を抱かざるを得ない。

それぞれの本について簡単に感想を述べる。

『寛容論』は直接「寛容について」理解を深めるようなものではなかった。主題は「カラス事件」という冤罪に対するものである。この時事問題を通じて寛容について説いているのだが、「なぜ寛容にならなければならないのか」といった哲学的議論はあまりなかったと思う。理性よりも感情に訴える論法が多かったと思う。寛容のヒントはわずかしかなかったと印象を受けた。

カンディード』はいわゆる「哲学コント」である。ネタバレは厳禁だが、御都合主義の部分も含めて、楽しかった。小説を普段読まないので評価はできないが、おもしろかった。『ザ・セカンド・マシン・エイジ』の言葉も見つかった。物語の終盤に記載されていた。

哲学書簡』は、著書名からはわからないが、一言で言えば「ヴォルテールによるイギリス論」である。ここにはイギリスの宗教や文化や詩人や学者について論じている。

すべての著作を通じてヴォルテールの著作はとても読みやすかった。もちろん訳者がとても素晴らしかったというのもあるが、「哲学者の著作を読んでみたい」という人たちに広く勧めることができるだろう。

たくさんの引用箇所があるが、それは個人的なノートにまとめよう。まとめる時間がないので、特に気になった箇所をコメントする。

『寛容論』

第六章 不寛容ははたして自然の法であり、人間の権利であるのか

人間の権利は、いかなるばあいにおいても自然の法に基づかねばならない。
そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、
地上のどこにおいても普遍的な原則がある。
それは、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。
この原則にしたがうならば、人間が他者にむかって、
「おまえにとっては信じられないことでも私が信じていることなら、
おまえも信じなければならない。さもなくば、おまえの命はないぞ」
などと言えるはずがない。

--> 「自分が人にしてほしくないことは、人にもしてはいけない」という道徳律(シルバールール)を守りさえすれば、世の中は平和になるだろうと思った。頭で理解することは難しくない。ただそれを実践するのが難しい。なぜなら我々は「自分が人にしてほしくないことを人にしたくなる」という欲求があるからである。特に敵に対しては「自分が人にしてほしくないことは、人にしなければならない」のである。

第十九章  中国でのちょっとした言い争いの話

中国で2人の外国人が言い争っているので、高官は牢屋に閉じ込めた。副官が高官に彼らをいつまで拘束するのか尋ねた。

「閣下、この者たちの拘禁期間はどれぐらいになさいますか」
「両名の意見が一致するまでだ」
「あらあら。それなら二人とも一生、牢に入ったままです」
「そうか、それでは、二人がたがいに相手を許すまで、としよう」
「いやいや、二人はけっして相手を許したりしません。私はかれらのことを知っております」
「ふーん、そうか」と高官は言った。
「それでは、二人がたがいに相手を許すふりをして見せるまで、としよう」

--> 私のポリシーの一つは「ふりをするのをやめよ」ということである。「疑うふりをするのをやめよ」「働いているふりをするのをやめよ」「真面目であるふりをするのをやめよ」などである。「ふりをすること」は狡猾であり、真摯ではなく、それは偽善であり、悪の根源すら思っていた。

だが、この逸話から「ふりをすることは『寛容』においてはよいことなのかもしれない」とも考え直し始めた。「人間は互いを心底許し合えるほど善人ではない。それならば『陰で相手を罵倒しても、表では相手と仲良くしているふりをする』というのは、我々が達成できる寛容なのではないか」と思った。「相手を許すふり」はひとつの大人の知恵なのではないか、しかもそれは有益な知恵である、と。ただ、陰で相手の悪口を言っていることが、その人にバレたらどうするのかという問題があるので、仲良くしているふりをするのは個人的には実践しづらい。私のポリシーに反するので、そもそもしないが。

カンディード

第三十章 結末

  • p.169
「あなたはさぞかし広大ですばらしい土地をお持ちなんでしょうね」と、
カンディードはこのトルコ人に言った。
「広さは二〇アルパン( 144)にすぎません」トルコ人は答えた。
「その土地を子どもたちといっしょに耕しております。
働くことは、私たちを三つの大きな不幸から遠ざけてくれます。
三つの不幸とは、退屈と堕落と貧乏です」 
カンディードは、自分の農家へ帰るとちゅう、このトルコ人のことばを深く考え込んだ。
そして、パングロスとマルチンにこう言った。
「あの善良な老人は、ぼくたちが以前いっしょにお食事をした六人の国王よりも、
はるかに好ましい境遇を自力でつくりだしたみたいだなあ」

--> ヴォルテールの労働観については、ここだけでなく『哲学書簡』にも少し書いてあった。しかし総じてヴォルテールの労働観はあまり支持できない。

哲学書簡』

第二十五信パスカル氏の『パンセ』について

『パンセ』の中にあるいくつもパンセ(考え)を引用して、それぞれをヴォルテールがコメントしている。その11番目。まずは『パンセ』の内容。

われわれは生まれつき不正である。なぜなら、誰もが自分中心だからである。
これはおよそ秩序というものに反する。全体のことを中心としなければならない。
自分を中心にすることは、戦争においても、政治においても、経済においても、とにかくあらゆることにおいて混乱の発端となる。


これに対するヴォルテールのコメントは下記の通り。

自分中心というのは全体の秩序にかなうものである。
そもそも自己愛がなければ社会というものも形成されず、存続もしえない。
それは、性欲がなければ子どもはつくれず、食欲がなければわが身を養う気にもなれないのと同様である。
自分自身を愛することが他者を愛することの支えなのだ。
われわれが互いに相手を必要とすることで、われわれは人類にとって有用となる。
それこそがあらゆる交易の基礎であり、人間の永遠の絆である。
それがなければ、技術はひとつも発明されず、十人ほどの社会さえ形成されなかっただろう。
この自己愛を、いずれの動物も自然から受けとった。
そして、まさにこの自己愛がわれわれに他者の自己愛を尊重せよと告げる。
法律が自己愛を取り締まり、宗教が自己愛を昇華させる。

--> いやあ、最高だ。啓蒙主義の一つの側面は人間主義(ヒューマニズム)である。ヒューマニズムというとむしろパスカルの考えのように「自己愛こそが諸悪の根源である」とイメージするだろう。「他者のために自己愛を否定せよ」といった具合に。だが、啓蒙主義の代表者のひとりであるヴォルテールはまさに「自己愛こそがすべての基礎だ」と主張する。「ヒューマニズムであるからこその自己愛」という逆説的な考えである。

自己愛とシルバールールの関係も気になった。シルバールールは道徳律(原理)として認めてもいいが(つまり道徳の出発点としてみなしてもよいが)、もしもこの根拠を示すならば、それは自分愛なのではないかと思った。「みんな自分を愛するゆえに『人にされて嫌なことは自分もしない』ようにしましょう」のように。ただこのロジックはヴォルテール自身は一切述べていない。勝手にヴォルテールの著作を読んで私が思ったことだ。だがこのロジックを考えてみてもいいのではないかと思った。





僕から以上