疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

Linux: ディレクトリやファイルの検索について

ノート
ディレクトリやファイルの名称がわかるが、どこにあるかわからない場合。

検索する方法

#ディレクトリ構成
.
├── directory1
│   ├── subdirectory1
│   │   └── file1.txt
│   └── subdirectory2
│       └── file2.txt
└── directory2


#ファイルの検索
#ファイルありの場合
$ find ./ -name "file1.txt"
.//directory1/subdirectory1/file1.txt

#ファイルなしの場合
$ find ./ -name "file3.txt"
$


#ディレクトリの検索
#ディレクトリありの場合
$ find ./ -name "subdirectory1"
.//directory1/subdirectory1

#ディレクトリなしの場合
$ find ./ -name "subdirectory3"
$

僕から以上

読書感想#16: 西郷甲矢人&田口茂著『<現実>とは何か』(1)

今回は書評ですが、細かい内容はまたいつか書く。
今はとりあえずブログの更新。

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

本当は読み終わった直後の今年の1月に書くべきでした。最悪でも今月(2020年7月号)の『現代思想』が出版される前に書評すべきでしたが、時間がなかったので今更になりました。


私と彼らの関係は意外に深いのですので、詳細に書きます。

評者と著者との関係

まず、評者と著者の関係について述べよう。これは本書の評論とは直接的には関係ないが、評者が知っている限りの本書成立の裏話を知るのも悪くないと思うからである。

田口先生は北大に赴任されて、私は先生の現象学の授業を取った。知り合いになりフッサールの『危機』第9節を一緒に討論なさってくれた。とてもお世話になった方である。
夏休みのある日、先生の研究室に呼ばれた。そこに行くとある人を紹介してくださった。その人が西郷さん(先生とは呼んだことはないのでそのような敬称にさせていただく)であった。西郷さんとはその一度きりの出会いであったが、強烈な印象を覚えた。
「こちらが西郷さんだ」と紹介され、西郷さんは「よろしく」と言われた。

初めて西郷さんと会った日の直前、『数学セミナー』に記載されていた「圏論の歩き方」というシリーズに西郷さんの論文『すべての人に矢印を!』が出ていた。それを読んだことを伝えた。その論文はのちに『圏論の歩き方』という本に収録された。

圏論の歩き方

圏論の歩き方

  • 発売日: 2015/09/09
  • メディア: 単行本
私はカバンの中にあった遠山啓(とおやまひらく)の『行列論』を手元の出してた。それを見た西郷さんはすかさず「遠山啓の本読んでいるの?」と話された。「ええ、そうです。今、勉強しています。遠山啓は尊敬は…していませんが、ぶっ飛んでいて好きです」と答えた。すると、西郷さんもこの本を読んだことがあるらしく、ベクトル空間の基底数が同じであるという定理の証明方法がいくつかあってね、この本ではこういうふうに証明しているけど別の教科書ではね…と話された。そのあとこう言われた。
「俺も遠山啓好きでさ。自分の息子に「啓」とつけたんだ。ただ、これをそのまま「ひらく」というのは安直すぎるから「けい」って息子に名付けたんだ」
遠山啓のことを知っている人がいるだけでも驚いたのに、好きすぎで自分の息子に同じ漢字を当てたとは!なんて人だ!それが西郷さんの第一印象であった。

西郷さんは他にもこう言われた。
「ベクトル空間の基底数が一定って、かなりすごいと思うんだ。基底の取り方はたくさんある。たくさんの基底はある。それにもかかわらずその数は変わらないって」
そのときは何も思わなかった。しかし、圏論を学んだ後に振り返ると、それはベクトル空間 {V} のデュアルなベクトル空間 {V^*} はキャノニカルな同型ではないが、ダブルデュアル {V^{**}} はキャノニカルな同型である、つまり自然変換であるということを意図した話だったのかなと思った。けれども、ニュアンスはそうではなかったと思う。たぶん関係ないと思う。

田口先生と西郷さんとの出会いはそのときに教えてくれた。彼らの出会いの詳細は本書の後書きに書かれている。私はただ「ピート・ハットという人から紹介してもらった。話し始めたら意気投合したんだ。彼とは馬が合うんだ。それで今、圏論の哲学を共同で研究している。圏論現象学の類似性に驚いている。いつどこで発表できるかはわからないけど、いつか発表ができたらいい」ということを田口先生からうかがった。だから、今回、このように本として出版されたことをとても嬉しく思う。

ちなみに西郷さんの人となりは、『圏論の道案内』という本の序文と後書きを読めばわかると思う。どうして西郷さんがしきりに「仏教」について興味を持っていたり、論じているのかも理由がわかった。西郷さんの父親は芸術家らしく、書斎に仏教や東洋哲学の本が大量にあり、小さい頃から西郷さんはそれらの本を読んでいたそうだ。



他にも『圏論の歩き方』でもわかると思う。西郷さんは研究者の間でも、いろいろな意味で群を抜いていることがわかる。
圏論の歩き方』にはディスカッションの章(座談会)がある。ディスカッションに登場している人たちはペンネームで書かれている(ブルバキに倣ったらしい)。「二条」や「祇園」などである。西郷さんも『圏論の歩き方』のメンバーの一人なのだが、その中で唯一、西郷さんは本名の「西郷」となっている。「どうして僕だけ本名なんですか?」と西郷さんが聞いている箇所があるのだが、「だって、西郷さんは西郷さんでしょ?」みたいな感じに返答されていた。

研究室で挨拶をしたあと、近くのタイ料理店で私と田口先生と西郷さんとで昼食を取った。私はそのとき奢ってもらった。そこで何を話したかは全然覚えていないけれども、唯一覚えているのは、田口先生が「渡邉くん、パクチー大丈夫? もし無理ならば僕にちょうだい。僕、パクチー大好きだから」とおっしゃったことである。

食事を終えて、研究室に戻るときに私は西郷さんにこう言った。
「僕は『数学とは線形の科学である』と考えています。僕が知っている線形性は『微積』と『線形代数』です。つまり、関数の線形性と空間の線形性です。
数学には他にどのような線形性がありますか?」

そのとき西郷さんはもう一つの線形性を指摘された。確か「ベクトル束」のことを言ったと思う。ベクトル束のことを説明してくれたけれども、結局何を言ったのかは理解できなかった。

一度きりの昼食会はそれで終わった。その後、田口先生に会うたびに、先生は圏論の哲学の研究の近況を報告してくださった。話を聞いて「所詮その程度か」とがっかりしたこともある。だからこそ、今回、唯一無二の哲学研究を上梓され、嬉しく思う。


西郷さんの話には続きがあるだが、それはいつか別のところで書こう。もしかしたら書かないかもしれないが。


本書の総括
本書に貫かれている大きなテーマの一つは「実体論からの脱却」(p.159)である。
もう一つは個(individuals)と普遍(universals)の関係である。本書を読んでいるとき、評者はベクトル空間の基底変換の定理を思い浮かんでいた。

{V} {n} 次元のベクトル空間とする。
{\mathscr{B}_1 = \{ e_1, \ldots, e_n \} } および {\mathscr{B}_2 = \{ f_1, \ldots, f_n \} }{V} の2つの基底とする。
このとき、ただ一つの写像 {A: \mathbb{R}^n \to \mathbb{R}^n} (基底変換)
 {(e_1, \ldots, e_n) A = (f_1, \ldots, f_n)}
が存在する。

他にも線形写像の表現定理も思い浮かんでいた。

個としての基底はたくさんあり、それぞれである。だが、それらはただ存在するだけではなく、一定の普遍的な関係(つまり基底変換)がある。だが、基底変換という普遍は最初からあるのではなく、個々の基底があって初めて意味をなす。基底なしの基底変換自体を考えるのは意味がない。つまり、個のない普遍を考えるのは無意味である。


圏論の特徴に「普遍性」という考え方がある。例えばデカルト積(直積集合) {A \times B} とその射影 {p_A: A\times B\to A, p_B: A\times B\to B} は次の普遍性を有する。

任意の写像 {f: X\to A, g: Y\to B} に対して、ある写像 {h: X\to A\times B} がただひとつ存在して、
{p_A\circ h = f} かつ {p_B\circ h = g}
が成り立つ。

実際、集合論において、{h(x) = (f(x), g(x) )} とおけば上の等式が成り立つし、そのような写像がただひとつであることも明らかである。

このような普遍性は数学で(特に代数学)でしばしば出てくる。例えば、テンソル積などである。

集合論において、デカルト積はまず順序対 {(a, b)} を定義してから(クラトフスキーの定義)、 {A\times B = \{ (a, b) | a\in A, b\in B \}} として定義する。そして標準的な射影 {p_A: A\times B\to A, p_B: A\times B\to B} が定義される。そしてそこから「定理」として普遍性が導かれる。
これはテンソル積などでも同様で、集合論的に定義した後に普遍性の定理が導かれる。テンソル積は集合論的に少なくとも2通りの定義の仕方がある。

だが、圏論は逆に、この普遍性を「定義」として採用する。ある概念をある普遍性を満たすものとして定義する。デカルト積は上の普遍性を満たすものとして定義する。テンソル積もある普遍性で定義する。


本書には圏論の普遍性について議論している箇所はほとんどなかったと思う。この普遍性の哲学的意義について今後の研究で明らかにしてほしいと思う。
(未完)

1年近くプログラマー(SE)として働いた感想。というか、愚痴

今回は一年近くプログラマーとして働いた感想を書きます。
去年社会人として働き始めて、いろいろ経験しましたので、ここに書いてまとめようと思います。
社会人なら誰でも経験する悩みというよりも、特にプログラマー(SE)に経験するだろうことを書こうと思います。
自分用のメモでもありますが、この長ったらしい文章が誰かに響いて共感してくれたら望外でしかありません。
もし、長いなと思いましたら、「まとめ」だけを読んでください。

  • はじめに
  • 1 道楽としてのプログラミング
    • 1.1 原体験
      • 1.1.1 動機
      • 1.1.2 構想
      • 1.1.3 コーディング
      • 1.1.4 成果
      • 1.1.5 プログラミングの魅力
  • 2 職業としてのプログラミング
    • 2.1 派遣は惨め
    • 2.2 余計な作業が増える。
      • 2.2.1 コーディング規約・設計書の作成・シークエンス図の作成
      • 2.2.2 レビュー
    • 2.3 考え方: 目的論的計画的行動
  • 3 堕落: 局所最適化のクズに成り下がる
  • おわりに: 若干の希望、または解決策
  • まとめ
続きを読む

何も書くことはないけど月末だから何か書く。

在宅勤務になって1ヶ月。
生活はこれまでとほとんど変わっていない。
むしろ引きこもり生活が完成されて、人と関わらない快適な生活となった。

これまで通勤時間と身支度の準備時間を合わせて3時間もかかった。在宅勤務によってその分の時間が節約できた。これは在宅勤務の大きな利点である。在宅勤務の欠点は特にない。作業において、会社のSVNGithubが使えず、いつもより作業が遅れることが欠点かな。

まあ、また何か書く。ゴールデンウィークなので。

愚痴: 一年近くプログラマ(SE)として働いて思ったこと

$ python3 tw_auto/tw_auto_main.py
>>> 給料日まであと15日!
社会人366日目 1年目3月6週平日

今日で社会人一年目が終わる。
去年の4月1日に社会人となり、プログラマ(またはシステムエンジニア-SEと呼ばれる)として働いてきた。去年から今日までの一年間は文字通り激動であった。いろいろ考えてきた。
特にプログラマとして働いた経験は極めて大きい。というのも、これまでは自分一人で勝手にプログラミングをやっていた。つまり、「趣味としてのプログラミング」をやっていた。それに対して、この一年でやったのは「仕事としてのプログラミング」である。夏目漱石の言葉で言えば、「道楽としてのプログラミング」と「職業としてのプログラミング」だろうか。この差は決定的である。
仕事としてのプログラミングはとてもつまらなく、辛く苦しいものであった(である)。それで本当にプログラマを辞めようと思った。今は何とか金のために渋々やっているだけだ。
そこで今回はプログラマとして働いた感想を縷々述べたいと思う。というよりも、グダグダと愚痴を連ねるだけだが。

詳細は今度書く。
(未完)

Haskell 第1回: ゼロから始めるHaskell. HaskellでHello, World!を表示する

とりあえず今月もひとつ投稿する。
Haskellのことをまとめる。
また編集する。

Section 1: Haskellって何?
Subsection 1.1: 純粋関数型プログラミング
Subsection 1.2: 静的型付け
Subsection 1.3: 型推論
Subsection 1.4: 遅延評価

Section 2: 実装
Subsection 2.1: 環境設定
GHC(The Glasgow Haskell Compiler)
Stack
Subsection 2.2:
(未完)

立ち読み書評#5: 萱野稔人『リベラリズムの限界』

萱野稔人リベラリズムの限界』
リベラリズムの探求を通して見えてくる、リベラリズムの限界を提示した政治哲学入門書。


久々のブログの更新です。ネタはあったのですが、時間がありませんでした。1ヶ月に一回なんとか更新します。それも不完全ですが。

今回は萱野先生の新著『リベラリズムの限界』の立ち読み書評です。

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

カヤニスト(萱野のファンの名称)の評者は萱野先生の最新刊を立ち読みした。萱野さんは相変わらず議論が明確であるため、大体の議論は覚えている。だが、少し読み飛ばした箇所もあり、あまり理解していない箇所もある。ちゃんと詳細をまとめなければならないため、おそらく本書もそのうち買うだろう。

さて、書評であるが、今回はタイトル通り「リベラリズムの限界」について、議論されている。本書は第1章と第2章の2章編成であるが、それぞれの章でリベラリズムの限界を主張した。

第1章では、一夫多妻や近親婚を通じて、リベラリズムの原理(他者に危害が加わらない限り当人の自由は保障されるべきである)が適応される限界を議論している。

自称リベラリスト同性婚を認めるべきであると主張する。リベラリストは「公共の福利に反しない限り、個々人の自由は尊重すべきである」という立場から、「たとえ同性カップルが生活していて、あなたが不快な気持ちになったとしても、直接の害が出ていないために、あなたはその人たちの自由を尊重すべきである。したがって、同性婚を認めるべきである」と主張するのである。しかし、その原理に従うならば、一夫多妻であるカップルも、そして近親者のカップルも、他者に危害が加えられていないため、その自由を認めるべきである。だが、実際リベラリストはそのような主張はせず、むしろそれらを否定している。その矛盾に対して、リベラリストは「一夫多妻は女性差別だから認められない」や「近親婚は先天性異常の子供が生まれやすいから認められない」などと理由をつけるが、それらの理由は「同性婚のみを認める」ということを正当化できないという。リベラリストに否定的な人たちはこのような矛盾を「ダブルスタンダード」と非難する。このダブルスタンダードリベラリストの信頼を低下させる原因のひとつであると萱野は指摘する。

リベラリストは無条件にリベラリズムの原理(他者に危害が加わらない限り当人の自由は保障されるべきである)を適応しない、否、適応できないのである。リベラリズムの原理はリベラリストの「規範意識」の範囲内のみ適応されるのである。リベラリストの結婚の規範意識が「結婚は、近親者以外の二者間の合意である」というものであるから、同性カップルのみリベラリズムの原理が適応され、規範外である一夫多妻には適応しないである。さらに、近親婚がリベラリズムの原理を適応できないのは、近親タブーという規範意識があるからである。

総じて、第1章で示されているリベラリズムの「限界」とは「リベラリズムの原理は規範意識内でしか適応されず、規範外では適応されない」ということである。


第2章では、リベラリストの「弱者救済」について議論している。自称リベラリストは「経済的な弱者を保障するために、全員から税を徴収すべきである」と主張する。だが、他者の税を徴収するということは、他者の自由を侵害することである。一体、リベラリストはその自由侵害をどのように正当化されるのか?
萱野はリベラリズムの古典であるロールズの『正義論』をもとに議論する。ロールズの難しい主張を易しく説明する。その説明は圧巻である。
そのロールズの議論には「弱者救済に対する自由侵害の正当化」が書かれているが、そこには決定的な「限界」があることを萱野は指摘する。すなわち、「リベラリズムの原理自体から、弱者救済のための税の強制徴収を正当化することはできない。リベラリズム以外の別の原理(功利主義の原理や国民国家などのメンバーシップの原理)から、経済が順調に成長している限り、弱者救済の正当化ができる」というものである。

経済成長しているときのみ、弱者救済のための税の徴収を正当化できる。にもかかわらず、リベラリストはいついかなるときも「税を徴収して、弱者救済に分配しろ!」と主張する。経済が停滞している現在のときにも、リベラリストがそのようなことを主張する。さらに不正な生活保護者などが明らかになったとき、「不正な生活保護者を認めるな」と主張する人たちをリベラリストは「弱者叩き」であると非難する。そのようなリベラリストの態度に、多くの人たちは不信感を抱くようになる。「ただでさえ金もないのに、どうして正当な人にお金(権利)が分配されず、不正な人が享受するんだ。これを批判するのは当然なはずだ。にもかかわらず、リベラリストは不正な連中を擁護して、反対に批判者を差別主義だと非難する。一体リベラリストとはなんなんだ?」と。萱野は「財源がない限りリベラリズムは弱者を救済できない」ということに無自覚なリベラリストを批判する。

総じて、第2章で示されているリベラリズムの「限界」とは「リベラリズムの原理はそれ自体で弱者救済のための税の徴収を正当化できず、リベラリズム以外の別の原理でしか正当化できない」ということである。


以上が本書の内容のまとめである。
本書も『死刑 その哲学的考察』と同様、萱野による政治哲学の入門書である。内容も「リベラリズム」というホットなテーマである。今回も議論は冴えていて、おもしろかった。「おお、まさかYahooニュースのコメントを引用して、それを使って議論しているぞ!」と。もちろん注目すべき主張もあった。お勧めの本である。だが、個人的には途中、スキップするほどの退屈な箇所もあり、前著『死刑』ほどの興奮はなかった。



さて、ここからは本書から刺激を受けて、評者が考えたことである。それは...

(未完)


僕から以上