疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2が人生の唯一の楽しみです。

第3回: フィボナッチ数列や階乗などの再帰的な関数をPythonで作る

概要
{a_{n} = 2 a_{n-1} + 1, \,\, a_1 = 1} のような漸化式をPythonで定義する方法を示す。そのような再帰的な関数の例として、フィボナッチ数列 {\texttt{Fib}} と階乗 {\texttt{Fac}} のプログラムを書く。

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AIの特徴とその欠点(と思われるもの)

最近は忙しい。

書こうと思っているけれどもなかなか書けない。ネタがないわけではないが、まだまとまっていないから書けない。就活のこととか書きたいと思うし、数学のことやプログラミングやロシア語などもまとめなければならないが、なかなか難しい。

今回は最近思いついたことを書きたいと思う。

 

私はAI(深層学習)について勉強している。楽しいといえば楽しい。AIを学ぶことによって、新しい知識を得たのもそうだし、新しい知見が発見したことも事実である。例えば、変分法アルゴリズム的側面の重要性を認識させられた。

 

AIを勉強しているが、AIは大量のデータを与えることによって、自動的に特徴量を抽出する。大量のデータを与えることによって、目の前にあるものがコーヒーなのかそうでないのかがわかるのである。

 

これは逆に言えば、ある画像を認識するためには、いちいち大量のデータを与えなければならないと言うことである。これはある意味で非効率的である。というのも、例えば、コーヒーを認識する機械がようやくできたとして、次にカフェオレを認識しようとすると、また今度はカフェオレのデータを大量に用意しなければならないのである。

 

これに対して、人間は「類似」という考えによって、そのような非効率的な方法を取らない。つまり、たとえ最初にコーヒーを認識するまでに時間がかかろうとも、次にカフェオレが与えられたとき、コーヒーと同じぐらいの時間をかけずとも容易にカフェオレを理解することができるのである。「カフェオレはこれまで知っているコーヒーに似ている。こことここが同じであるが、ここは違う。味はカフェオレの方が明るい。」などと前の経験を活かして、アナロジーによって少し異なっている概念を容易に習得することができるのである。

 

「逐一大量のデータを与えなければ物体を認識することができない」というのは非効率的である。一方、類似性などによる認識方法は効率的である。おそらく人間の進化の過程でそのような認識方法を取得したのだと思う。

私はこれまで知っているものとは少し異なる対象に対して、少しのデータから認識できる方法を考えている。コーヒーを認識した機械に対して、たった一枚のカフェオレの画像を与えれば、それでコーヒーとカフェオレと識別できるような方法である。

 

人間にとっては容易なことも機械にはまだまだ全然できないんだよーーーそう言いたかった。

 

しかし、一見、非効率的に見える機械学習的方法は、実はいいところもあるということである。つまり、「バイアスがない」ということである。たとえ少し違ったものであったとしても逐一、データを入れなければならないということは、過去のデータに影響されない。対して、我々はアナロジー的思考によってしばしばバイアスが生じてしまうということである。「カフェオレはコーヒーに似ているから苦いのだろう」などである。別の例では、医療とかでバイアスによって誤診をしてしまうかもしれない。機械学習ではそのようなバイアスの心配はない。

 

機械学習的方法と人間的方法のどちらがいいのかはわからない。だが、人間には機械学習的非効率的方法は使えない。もしも機械はその両方の方法が使えるのようになったら、時と場合によって使い分けができるかもしれない。そうなれば機械は..... 人間を超えるのかもしれない。

 

 

あぁ、就活で家族が最悪だ。喧嘩になるは怒鳴るわで散々。ストレス溜まるわ。

 

 

僕から以上

Always(いつも)とAll the time(いつも)の違いとは? オマケでロシア語も。

どうも僕です。久々のアップです。

おととい(8/31)は久々のくりぃむしちゅーのラジオでした。

全く知らず翌日になってアップされていたのを恥ずかしながら聴きました。

内容はあいかわらずです。

 

さて、今回は日本語の「いつも」に対して、英語にはAlwaysとAll the timeがあります。その違いを書きます。

 

Alwaysはその行為に注目しています。対して、All the timeはその行為にではなく、時間そのものに注目しています。

 

例えば、Alwaysについて次の例題を考えます。

I always get up at 6 a.m.

 

(私はいつも6時に起きます。) 

 Always(いつも)のとき、話し手は行為に注目しています。つまり、起きるという行為に注目しています。

 

対して、All the timeについて次の例題を考えます。

My daughter plays the computer game all the time.

 

(娘はいつもゲームをしています。) 

 All the time (いつも)とき、話し手はゲームをするという行為そのものに注目せず、ゲームの時間そのものに注目しています。

 

正直、この2つの言葉のニュアンスの違いはわかりにくいかと思います。しかし、これで少しでも理解がクリアになってくれればうれしいです。

 

 

オマケ

ロシア語のレッスンを受けていたときに、всё времяというのが出ました。で、先生にこれの意味はなんですかと聞いたら、「いつも」と言いました。そこで私は「всегдаとどう違うのですか?」と質問しました。すると、先生は「英語で言ったら All the timeです」と答えました。「いやぁ、そんなこと言われても、今度はじゃあ、All the timeとAlwaysの違いはなんだよ...結局、わからないじゃないか....」と不満が募りました。そのとき先生はвсё времяの例として「Мая дочь всё время играет компьютерные игры.」と言いました(意味は上の例文と同じ)。

 

ロシア語のレッスンが終わった後、次に英語のレッスンがありました。ですので、そこで授業前にAll the timeとAlwaysの違いについて英語の先生に尋ねてみようと思っていました。しかし、授業が始まるとなかなかいい出せませんでした。それに私自身もそのことについて忘れていました。しかし、教科書を読み進めていたら、偶然にもAll the timeの例文が出ました(上の例文においてmy doughterがkidsであった)。そこで、私は思い出して、すぐさまに先生にAll the timeとAlwaysの違いについてうかがいました。そしたら先生は「Alwaysはアクションにフォーカスして、All the timeはタイムのみにフォーカスする」と言いました。

 

英語の授業が終わり、そのことをロシア語の先生に言いました。そして、ロシア語の先生に「英語と同様にロシア語においても、всегдаは行為に注目していて、対してвсё времяは時間に注目しているのではないか」と聞きました。すると先生は「всё правильно (まったくその通り)」と言いました。

 

あんまり英語とロシア語が一致することは少ないのですが、もしかしたら「いつも」に対して行為に注目するのか時間に注目するのかは意外にも日本語以外の言語においては普通のことなのかもしれません。日本語だけが特に区別なく使われているのかもしれません。いい研究課題ができました。まあ、そういうことです。

 

 

僕から以上

杉田水脈 論稿『「LGBT」支援の度が過ぎる』のまとめ(批判・批評)

今回は今話題の新潮45の2018年8月号に寄稿された杉田水脈衆議院議員(以下敬称略)の論稿『「LGBT」支援の度が過ぎる』pp.57-60の批判・批評まとめです。

新潮45 2018年08月号

新潮45 2018年08月号

 

メディアは杉田の「生産性がない」という文章を切り抜き、批判・非難してます。ですが、メディアの言っていることが本当かどうか一度確かめた方がいいと思います。短い文章ですから立ち読みでもして直接確認した方がいいと思います。

以下に杉田の論稿の要約と評者の感想を書きます。その後で詳しく批評します。ただ、論文をまとめるだけです。特に批評はしません。その理由は次です。もし批評するならば、つまり評者の感想を記すならば、その根拠を示さなければなりません。しかし、そのような根拠を示すのがめんどくさいので、ただ単に論稿をまとめることしかしませんでした。だたし、注釈には引用つきで個人的なコメントを書いています。

 

 

要約
朝日新聞毎日新聞などのリベラル左翼メディアはLGBTの問題を積極的に取り上げ、それを社会的問題と捉えて社会制度の改善を訴えている。だが、欧米の文化や伝統と異なり、日本には歴史的にもLGBTを差別するような風土は存在しない。彼ら彼女らが抱えている問題は、社会的な問題ではなく、自分たちの親が自分たちを認めてくれるかという個人的な問題であり、それが解決されれば、日本では生きやすい。基本的にはLGBTの問題は社会問題ではなく個人問題であるが、仮に行政が支援するならば、そこには税金が投入される。したがって、LGBT支援にせよ何にせよ我々の税金を投入してもよいとする根拠・大義名分を示さなければならない。例えば、不妊治療のために税金が使われることは少子化対策という大義名分があるし、T(トランスジェンダー)は性同一性障害であるため、性転換手術のための支援も考えていいのかもしれない。対して、LGBTには子供を産むという意味での「生産性」がない。したがって、少なくとも「LGBT支援の理由は少子化対策のためである」という主張は税金を投入するための大義名分とはならない。しかしLGBTの支援の根拠が曖昧にもかかわらず、メディアがもてはやすから、政治家がLGBT支援は人気取り政策になると勘違いしてしまう。さらにメディアが多様性を礼賛し、どんどん例外を認めることとなれば、歯止めが効かなくなり、これまでの常識を失い、秩序が崩壊し日本がなくなるかもしれない。そうならないためにも朝日新聞などのメディアはLGBTの問題を冷静に批判するべきである。

 


感想
杉田自身の経験を過度に一般化している節があり事実誤認を犯しているところがあるが、言いたいことはわかる。要は性的マイノリティの支援に対して冷静になるべきであり、その支援に根拠があれば当然、税金は投入されるべきである。だが、「欧米がやっているから我々もしなければならない」というような曖昧な根拠で支援を行えば、多様性を認め過ぎて秩序が崩壊しかねない。そのような懸念を表明しているだけである。LGBT支援の杉田への批判をするならば、彼女の事実誤認を指摘するか、LGBT支援の大義名分を堂々と主張すればいいだけの話である。しかし、「生産性」というキーワードを引っ張ってきて彼女が言っていないことを言ったとでっち上げて非難することは間違ったことであるし、彼女への人格否定などは単なる誹謗中傷に過ぎない。まだ未完

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人物描像: 村松正隆先生 ---- 皮肉混じりなしゃくれ

村松先生は現在北大の文学部に所属している。私は哲学や社会学を学ぶために、文学部の授業にもぐりをしていた。そのときに出会った先生の一人である。その授業はフランス社会思想史であった。コントやトクヴィルデュルケームなどのフランス革命以後のフランス人社会学者の思想を開設した授業であった。先生の授業を聞いていたけれども眠かったときもある。他の人はかなり内職をしていたり寝てた気がする。それでも単位が取れるのだから、連中はすごいなと思った。私は授業後に質問しまくっていた。それから私のことを知ってもらった。その後も偶然会ったら立ち話をする関係である。幸いにも私の名前を覚えてくれている。それは嬉しい。

 

先生の専門はフランスの思想史である。特に、メーヌ・ド・ビランという超マニアックな人を研究している。でも正直なところ何やっているのかは知らない。

“現われ”とその秩序―メーヌ・ド・ビラン研究

“現われ”とその秩序―メーヌ・ド・ビラン研究

 

それでも先生はフランス思想史に詳しいので、いろいろと聞いていた。話は面白い。 「先生はコントに詳しいですが、それはビランを研究するために、勉強なさったからですか?」とうろ覚えの浅薄な知識で聞くと、「一応、そうだけど....」と話された。何言っていたかはわからなかった。

 

先生は東大の文学部を卒業している。先生は72年生まれであるので東浩紀(71年)や國分功一郎(74年)と同年代である。実際、先生は何回か東と話したことがあるらしい。けれども國分との関係は知らない。少し年下では千葉雅也(78年)がいるが彼らフランス現代思想(ドゥルーズ)研究者と先生との関係性はよくわからない。そもそもなんでメーヌ・ド・ビランなんていうマニアックな人を研究しようと思ったのか。先生がフランス現代思想をどのように評価しているのか気になる。まだ、それは聞いていない。

 

この前、偶然街中で先生に遭遇した。そこで立ち話をした。私はフランスと数学・科学について次のような質問をした。フランスは特に革命以後、エコールポリテクニクが創設されたのもあり、数学や科学が強い。それは何か文化的・教育的な背景があるのか。特に哲学的な背景があるのではないか。フランスはデカルトから続く大陸の合理主義の土地であり、合理主義の典型である数学をフランスは重要視しているのではないか。

このように質問したら、先生は意外な答えをした。あまりそうとは思わない。むしろ数学をプラグマティックに扱っていたと。フランス数学は最近まで、基本「解析」であり、解析を研究するのは物理や応用のためであったと。基礎論にはさほど関心を示さなかった。合理主義云々というのはあまり関係がないと思われる。「彼らは意外にしたたか」とおっしゃっていた。

補足をすれば、20世紀になるまで、ラグランジュフーリエ、コーシーをはじめとするフランス人数学者はエコールポリテクニク出身者であった。そして彼らは基本的には解析が主であった。だが、20世紀にはヒルベルトやネーターなどのドイツの数学に影響されて、ブルバキが誕生した。ブルバキメンバーのほとんどがポリテクニク出身者ではなく、エコールノルマルシュペリエール出身者である。フランスにもブルバキによって基礎論が定着した。さらにその後はフランスでは代数が主役になった。

そのときは先生の答えに納得していた。「たしかにフーリエとかはそうだな」と。しかし、今から考えれば、それに対して「それならばブルバキはどうなるのですか? あのような基礎論の流れがフランスから起こったことをどのように思いますか? 代数幾何についてはどう思いますか?」と聞いてもよかった。だが、それを思いつく前に我々は別れた。

 

しかし数学を思想的・社会学的に議論できることは稀である。なぜなら数学の先生ならば、フランスの社会思想を知らないし、フランス社会思想の先生は数学に興味を持っていないからである。たいして先生はなぜか数学に多大な興味を持っている。「最近、微積線形代数を勉強している」とおっしゃっていた。だから、先生と話すととても面白い。

 

 

僕から以上

留学で学んだこと考えたこと(1): 自分の誤りを認めることの難しさ

どうも僕です。

今日はエッセイです。留学したときに学んで考えたことをまとめました。セクションがないので読みにくいかもしれませんが、読んでくれたら嬉しいです。

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第2回: Pythonで中央値と平均値を求めるプログラムとグラフを作ってみた

 こんにちは。

どうも僕です。

今日はPythonで中央値と平均値を求めるプログラムを作ったのでそれをまとめます。さらにヒストグラムというグラフを図示する方法も書きたいと思います。ただ、こちらの方は不完全であることをはじめに言います。そして、ヒストグラムを通して中央値と平均値の性質を見ていきたいと思います。

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中央値(median)を求めるプログラム 

 

 

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平均値(mean)を求めるプログラム 

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