疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

書評: リチャード・ドーキンス: 『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』

一言書評

読みづらいこの上ない極めて読者に不親切な退屈な本

概要

18世紀の神学者ウィリアム・ペイリーは『自然神学』で神の存在証明を試みた。それはいわゆる「デザイン論からの証明」である。それは次のようなものである。すなわち、もし荒野に精密な時計が落ちていれば、それをデザインして作った時計職人がいるに違いないと考えるだろう。同様にこの世界には極めて多様な生物が存在して、さらにそれぞれはあまりにも美しく精密に作られている。よって、それらを作ったデザイナーが存在するに違いない。

著者のドーキンスは「いかにしてこのような精密な生命が誕生したのか」という謎を解き明かす。それは自然淘汰という盲目の時計職人であると。

自然淘汰はランダムな突然変異と非ランダムな累積淘汰であり、それが何百億年との地質学的時間スケールによって、多種多様な生物が誕生したのである。

本書はまたダーウィン主義以外の他の説-断続平衡説・ラマルク主義・中立説など-も検討して批判する。

各章のまとめ

まえがき

ところが、「アインシュタイン主義」とは違って、ダーウィン主義は、どんなに無知な批判者からも格好の餌食だとみなされているようだ。
思うに、ダーウィン主義が抱えている一つの厄介な事情は、ジャック・モノーが鋭く指摘したように、誰もが自分はダーウィン主義を理解していると*思い込んでいる*ことである。
たしかにそれはまったく単純な理論であり、たいていの物理学や数学の理論に比べると、まるで幼稚だとさえ思われかねない。
ダーウィン主義とは、要するに、そこに遺伝的変異があって、しかもでたらめではない繁殖のもたらす結果が累積される時間がありさえすれば、途方もない結果が生まれる、という考えにすぎない。

p.10

第1章 とても起こりそうもないことを説明する

  • 18世紀の神学者ウィリアム・ペイリー『自然神学 あるいは自然界の外貌より蒐集せられし、神の存在と特性についての証拠』で提起されている「デザイン論」の概要。
  • 複雑さの定義
  • 「説明」とは何か
  • 次の3つの引用(孫引き)はペイリー『自然神学』のものである。
ヒースの荒野を歩いているとき、*石*に足をぶつけて、その石はどうしてそこにあることになったのかと尋ねられたとしよう。
私はおそらくこう答えるだろう。それはずっと以前からそこに転がっていたとしか考えようがない、と。この答えが誤っていることを立証するのは、そうたやすくはあるまい。
ところが、時計が一個落ちているのを見つけて、その時計がどうしてそんなところにあるのか尋ねられたとすると、こんどは石について答えたように、よく知らないがおそらくその時計はずっとそこにあったのだろう、などという答えはまず思いつかないだろう。

p.23
その時計には製作者がいたはずである。
つまり、いつかどこかに、(それが実際にかなえられていることがわれわれにもわかる)ある目的をもって時計を作った、つまり時計の作り方を知り、使い方を予定した考案者(たち)が存在したにちがいない。

p.23
時計にみられるあらゆる工夫、あらゆるデザイン表現が自然の作品にも見いだせる。
ただ、自然の作品は、測り知れないほど偉大で豊富である点が時計と異なっている。

p.24
  • だがこの議論は完全に間違っているドーキンスは言う。
ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。
望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人はきわけて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。本物の時計職人の方は先の見通をもっている。
心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。
ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。
自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。
もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ。

p.24-p.25

第2章 すばらしいデザイン

第3章 小さな変化を累積する

  • 自然淘汰のキーワードは少しずつ変化するということ(累積淘汰)。
  • コンピュータシミュレーションによる擬似的な自然淘汰の説明。
  • 何世代にも渡り、少しずつ変化することによって、当初想像もできなかったものを進化することができることをコンピュータシミュレーションで説明する。

第4章 動物空間を駆け抜ける

  • 実際の生物に累積淘汰を適用して、進化を説明する。

  • ドーキンスは「ある反例が実際に見つかるならばダーウィン主義を放棄する」と言う。

125年経って、われわれはダーウィンが知っていた以上に動物や植物について多くのことを知っているが、数多くのひきつづいて生じた軽微な修正によって形成されたとは考えられない複雑な器官など、私はいまだに一例とも知らない。
そんな例が今後見つかるだろうとも私は思わない。もしそんな例があればーそれは*ほんとうに*複雑な器官でなければならないし、後の章でみるように、「軽微な」という言葉の微妙な意味を理解していなければならないがー私はダーウィン主義を信奉するのをやめるだろう。

p.159

第5章 力と公文書

  • コンピュータの仕組みとDNAの仕組みの類似性を議論する。
  • 特にコンピュータの電子的記憶であるROMとRAMの話をする。

第6章 起源と奇跡

  • 一度、複製・誤り・力が現れれば、累積淘汰が自動的に意図的でなく生じる。それがどのようにして地球上に生じたのだろうか?
  • 生命の起源を議論する場合、どのぐらいの奇跡ならば偶然として認めることができるのか?

第7章 建設的な進化

  • 「淘汰は奇形(フリーク)を排除するような否定的/消極的な効果があるが、それ以外はない。」そのような主張に反論する。
  • 淘汰には積極的な効果がある。主に2つあり、ひとつは「共適応した遺伝子型」であり、いまひとつは「軍拡競争」である。

第8章 爆発と螺旋

  • フィードバック機構について議論されている。特にここでは正のフィードバックについて議論されている。
  • またアナロジーについても議論されている。
  • 性淘汰は正のフィードバックである。
  • サブカルチャーの「ポップ」カルチャーも正のフィードバックである。
  • だが、ある程度のアナロジーがあるが、完全に一致するものではない。

第9章 区切り説に見切りをつける

  • 断続平衡説(Punctuated equilibrium)の批判。章題は原文ではPuncturing punctuationismである。
  • 古生物学は進化論において重要である。
  • 化石の存在によって進化論を反証されることがあるので、「進化論は反証不可能である」というのは誤りであるとドーキンスは主張する。
とはいえ、たとえ化石化の割合がどんなに小さくても、進化学者なら誰でも正しいと考えるほど確かに予測できることが、化石記録についてはいくらかある。
たとえば、哺乳類が進化したと考えられているよりも以前の時代の記録に化石人類でも発見したりしたら、われわれはひどく驚くだろう! もし一つでもちゃんと確認できる哺乳類の頭骨が五億年前の岩石のなかから出てくれば、現代の進化論はまるごとすっかり崩れてしまう。
ついでに言うと、これは、進化論は「反証不可能」な同義反復にすぎないという創造論者とその仲間のジャーナリストによって広められている妄言に対する十分な答えになっている。

p.359
いま、大声ではっきりと言う必要があるのは、区切り平衡説はネオダーウィン主義の枠組みの中にしっかり収まるという真実である。

p.402

第10章 真実の生命の樹はひとつ

  • 分類学の話
  • 変形分岐論者への批判。

第11章 ライバルたちの末路

Notes

  • 「読者」を「彼」と想定してる。フェミニストの「彼または彼女」と書くべきだとの要求に辟易している。
何人っかの女性の友人が(幸いにも多くはないが)、非人称男性代名詞を使うのはあたかも女性たちを排斥する意図を示しているに等しいとみなしているのに気がついて、私は傷心にたえない。
もし何らかの排斥がなされるべきだというなら(運よくその必要はないが)、私はむしろ男どもを排斥するつもりなのだが、あるとき試みに自分の抽象的な読者を「彼女」と呼んでみたところ、あるフェミニストが私のっことを恩着せがましくへつらっていると非難した。
「彼あるいは彼女」とか「彼のあるいは彼女の」とするべきなのだそうだ。
あなたが言葉について無頓着であるのなら、そうすることはたやすい。とはいえ、言葉について無頓着な人は、男性であろうと女性であろうと読者を得るにはふさわしくない。これ以来、私は英語代名詞の慣用へ戻ってしまった。
私は「読者」を指して、「彼」と呼ぶかもしれないが、フランス語を話す人々がテーブルを女性とみなしていないのと同じく、自分の読者を男性であるとは考えていない。

p.13
  • ダーウィンの存命中にも進化論は批判があり、特に遺伝学を知らなかったが故に問題だと考えられていた。ダーウィン以後にメンデルの再発見がされて、集団遺伝学が発展した。しかしそれを主導した科学者(フィッシャーなど)は皮肉なことの反ダーウィン主義であった。その後、ダーウィンの進化論に遺伝学が追加されて、整備されて、ネオ・ダーウィン主義となった。

  • 中立説の提唱で世界的に有名な木村資生(もとお)の英語についてドーキンスは次のように書いている。

この理論は長い歴史をもっているが、分子レベルの装いを施した現代版についてはとくに容易に理解できる。
それは偉大な日本の遺伝学者、木村資生によって長足の進歩を遂げてきた。
ついでに言っておけば、彼の英語の散文体は、英語を母国語とする多くの人々の顔色をなからしめるだろう。


p.478-p.479
This has a long history, but it is particularly easy to grasp in its modern, molecular guise in which it has been promoted largely by the great Japanese geneticist Motoo Kimura, whose English prose style, incidentally, would shame many a native speaker.

p.303

評者は日本語も英語もそして国語力が疎いので、ドーキンスが木村の英語を褒めているのか貶しているのかわからない...。たぶんドーキンスは木村を褒めていて、木村のあまりにも素晴らしい英語力にこちらがshame(恥ずかしくなる)ということなのだろう。気になってshameの意味を調べたらそのような使い方もあるらしい。

感想

評者は本書をすべて読んでいない。4章ぐらいまでは真面目に読んでいたが、途中から諦めて適当に読み始めた。章の最初と最後を読んだ。

ドーキンスの処女作である『利己的な遺伝子』もそうだが、ドーキンスの初期の著作は章立てのみでセクションはなく、チンタラチンタラ延々と書くスタイルである。それが辛くて仕方がなかった。その後書かれた後期の著作『神は妄想である』などはまだセクションがありわかりやすく書かれているのだが。

本書は名著なのかもしれないが、評者は生物学や進化論にそれほど興味を持っていないので、著者の長々とした文章に苦戦した。苦行であった。とりあえず読んだということでこの本はさっさと売り払おう。





僕から以上