疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書メモ: C・P・スノー『二つの文化と科学革命』

基本情報

  • C・P・スノー
  • 松井巻之助 訳
  • みすず書房
  • 新装版第一刷
  • 購入日: 2023/12/31
  • 了読日: 2024/01/06

気になったこと

  • 二つの文化と科学革命: 1959年
  • その後の考察: 1963年
  • 「解説」はステファン・コリーニというのが書いている(1993年)

二つの文化と科学革命

  • 文化的知識人はまさに自分たちが知識人だと自負している。(p.5)
この二つの極端なグループの一方には文学的知識人がいる。
たまたま誰もそんなことをたいして問題にしてはいないことから、
彼らは他に知識人というものがないかのように、自分を知識人と信じこんでしまっている。

p.5
  • イギリスの科学者・技術者の25%にインタビューをした。彼らのほとんどは文学的素養がなかった。(p.13)
たいていの人たちは(私たちが彼らがどんな本を読んでいるかを調べたとき)謙虚に告白したものである、
「はい、ディケンズをすこしばかり**やって**みました」と。
まるでディケンズがリルケのたぐいの、いやに秘教じみた、
ややこしい余り役にもたたないような作品の作家であるかのように。

注: 「**やって**」の箇所は原文では強調点「、、、」がある
p.13
  • 有名な箇所。伝統文化の教育の高い人たち(文系の人たち)は熱力学第二法則を知らない。(p.16)
私は、彼ら[文学的知識人/文学に造詣の深い知識人]のうち何人が、熱力学第二法則について説明できるかを訊ねた。
答えは冷やかなものであり、否定的でもあった。
私は「**あなたはシェークスピアのものを何か読んだことがあるか**」というのと同等な科学上の質問をしたわけである。

注: 「**あなたは...**」の箇所は原文では強調点「、、、」がある
p.16
  • 「2. 生まれながらのラダイトとしての知識人」:
"二つの文化"が存在する理由とでもいうものは、多く、深く、複雑であって、
あるものは社会の歴史に、あるものは個人の歴史に、またあるものは種々の精神活動そのものの内部に働く原動力に根ざしている。
だが私はここで、理由というよりはこれに相関すること、これらの議論のあるものに、
あるいは直接、あるいは間接に関係する重要なこと、それを取りだしてみたい。
それは簡単にいえばこうである、科学的文化に属する人びとを除いては、
西欧の知識人は産業革命を理解しようと試みもしなければ望みもせず、
またできもしなかった。ましてそれを受けいれるはずもなかった。
知識人、とくに文学的知識人は生まれながらのラダイトだった。

p.23
  • ベネチア(ヴェネツィア)は、かつて栄えていたが、滅びた国(都市)の代表例であること。先進国の知識人はしばしば「我が国がベネチアと同じ道を辿るのではないか」という危惧を表明することを知った。(pp.40-41)

その後の考察

  • 「二つの文化と科学革命」の反響について、「奇妙な体験」であり、「残念に思っている」。(p.63)
講演後、一年するかしないかのうちに私は、魔法使いの弟子のように、
不愉快な気分になりだしていたのである。
論文、照会、手紙、非難、賞讃がドッと流れこみだしたからである。
そして、その講演がなかったら私のことなど知らないような国からのものも多かった。
あとで説明することだが、実は、これらの現象はすべて、私と余り関係のないことだったのである。
それは楽しいなどといえるものではなく、奇妙な体験であった。
文献は加速度的にたまっていった。当然、私は他人よりはそれを余計目にしたにちがいあるまい。
かといって、私は全部が全部を目にしたわけではない。
もっと有益な議論が普通のイギリス人には近づきえないようなことば、ポーランド語やハンガリー語や日本語で行われていると聞いて、私は残念に思っている。

p.63
  • 「われわれは孤りで死んでいく(We die alone)」と引用され、いびりまわされているが、実際は言っていない。「人は孤りで死んでいく(One dies alone)。」「われわれの誰もが孤りで死んでいく(Each of us dies alone)」という句をつかわざるをえなかった。(pp.67-68)
だが、この引用文はどこからとられたのであろうか。
率直に、文字通り眼を皿にしてリード講演を見ていただきたい。
そんな句は決して見つけられないであろう。それはどこにもない。
事実、それがあるとしたら、おかしなことなのである。

p.67

p.7: 「けっきょくは、誰もが孤りで死んでいく。」 p.8: 「われわれは誰も孤独である、誰もが孤りで死んでいく、いかにもそれはわれわれが抗いようのない運命である。」

  • 科学上の業績について理解しているかどうかを問うために「熱力学第二法則をどう理解しているか」を例にしたが、スノーはそれを使ったのを後悔している。現代ではむしろ分子生物学の知識のほうが適切である。(pp.81-84)

  • 講演を行う前は「富める者と貧しい者」という題名にしようと思っていた(これは講演「二つの文化と科学革命」のセクション4の題名である)。が、後から考えたら実際そうすべきだったと後悔している。(p.89)

じっさい、ここにこそ、私が全議論の中心問題にしようと意図したものがあった。
講演を草するまえ、私はそれに「富める者と貧しい者」という題をつけようと思っていた。
そしていまではむしろ、そのようにしておけばよかったと思っている。

p.89

解説

  • 「歴史的に見た「二つの文化」」: スノーの「二つの文化」議論はスノー以前にイギリスにあった。ハクスリーとアーノルド(pp.127-130)

  • 「「二つの文化」という考えの発展」: 「二つの文化」のアイディアは1930年代に生まれた。(pp.135-136)

  • 「「二つの文化」という考えの発展」: H・G・ウェルズの評価について、のちの「二つの文化」論争の最大の敵対者となるリーヴィスとスノーはウェルズの評価が真逆であった。(pp.136-139)

  • 「「二つの文化」という考えの発展」:

例えば、「奴隷制で唯一間違っているのはそれが十分に存在していないということだと考えたポベドノスチェフ神聖宗務院長官にごまをするドストエフスキー、
1914年の前衛派の政治的衰退と、そのせいでファシストのための宣伝放送に行きつくエズラ・パウンド、
他者の苦しみの正しさについて殊勝ぶってマーシャルに同意するクローデル、
黒人を別の人種として扱うセンチメンタルな理由を考え出すフォークナー」といった例である。

p.140

感想

スノーの二つの文化についての議論はとても有名なので、これまでたびたび聞いていた。しかしその内容は「熱力学第二法則を知らない文学的知識人」以外、まったく知らなかった。今回初めて読んだ。

講演のテーマは多岐に渡る。二つの文化だけではない。教育について。科学革命と産業革命について。地球問題(世界の貧困問題)について。さまざまなことが述べられていたこともあり、結局ちゃんと読むことはできなかった(しなかった)。理解度は半分にも及ばない。より深く読めば、より洞察が得られるだろう。

講演のタイトルは「二つの文化と科学革命」である。そして今回知ったことは、スノーが言いたかったことは、「二つの文化」よりもむしろ「科学革命」のことであったということだ。産業革命および科学革命により、イングランドを始めとする一部の地域は工業化した。その結果、平均寿命は伸び、幼少期での死亡率は下がり、物質的に豊かになった(平均寿命・出産のさいの死亡・飢え/飢饉...寿命、飢えからの解放、子供の成育(p.89))。だが他の多くの同胞はいまだに貧しいままである。この不平等は解決されなければならず、他の後進国も同様に工業化することで、解決されるだろう。そのためには政府は科学教育に取り組めばいい。スノーが本当にいいたかったことはそのようなことであった。だが、実際に世間や後世からは前半の「二つの文化」が注目された。

にもかかわらず、私が分からないことがある。それは次のような疑問である。世界をよりよくするために、つまり全世界にヒューマニズムを実現するために、科学技術を最大限に利用することはもっともな意見であり、多くの人が賛同するだろう。しかし、だからといって二つの文化の断絶がヒューマニズムの実現の障害となるのかどうかという疑問である。確かに実際上の理由は理解できる。つまり行政の意思決定者である政治家や公務員がもし科学的素養を一切ないならば、ヒューマニズムの実現が困難なるからというものである。そのようなことは本書にも書かれていた(気がする)。

われわれの二つの文化の間のギャップをなくすることは、もっとも実際的な意味からも、
もっとも抽象的、知的な意味からも、必要欠くべからざることである。
この二つのものが離れてしまうようであっては、いかなる社会も知恵をつかってものを考えていくことができないようになるであろう。
知的生活のため、わが国の固有の危機のため、貧しい人たちに囲まれて不安におびえながら富んだ生活をしている西欧社会のため、
世界中がもの解りよくなれば貧乏でいる必要もなくなる貧しい人びとのため、
われわれ、アメリカ人、全西欧人が教育というものを新鮮な眼で眺めることは義務である。

p.51: 二つの文化と科学革命
われわれは正しい結論をできるだけ早く引きだすべきであったのに、
文化の分離ということが主な原因となって、これを果たさなかった。
政治家や行政にたずさわる人びとにとって、
科学者が話しかけてくれていることの真意をつかむのはむずかしかった。
だが、いまやそれは受け入れられ始めている。

p.89

しかしそれ以外の理由(もっとも抽象的、知的な意味)が思いつかない。さらに逆になぜ科学者は文学的素養を学ばなくてはならないのかというのもわからない。二つの文化の断絶があったてもなくても、ヒューマニズムの実現は可能であると私は思う。

スノーに反対する人(リーヴィス)はスノーに対して、次のように批判した(揶揄した)。スノーは科学にも文学にも精通しているかもしれないが、文学について言えば二流以下だ。スノーは後世に残る文学を作ることはできない。そんな人に我々のことをとやかく言われる筋合いはない、と。

実際その批判は間違っていないと思う。というのも今日スノーが有名なのは皮肉にも「二つの文化」論争であり、小説家としてではないからである。スノーの小説『他人と同胞』(Strangers and Brothers)は当時では有名だったそうだが、今日も広く読まれているものではない。

「音楽には二つの文化の壁を超えて繋げる可能性がある」というようなことが書かれていた。それは示唆的だと思った。趣味として音楽を愛好する科学者や文学者が少なくないからである。






僕から以上