疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

自分の専門外の著者をまとめる。

私の関心ごと(専門)は数学と物理学と哲学と論理学です。哲学といっても数学の哲学や科学哲学がメインであって、それ以外の政治哲学や社会哲学や道徳哲学はそれほど関心がありませんので、私の専門外とします。今日はそのような自分の専門外の著者を「これからも読みたい」か「もう読まないだろう」と勝手に分類したいと思います。なお、今回こちらに記載されている著者はすべて現在(2018/01/21)存命している人に限られています。

 

 

これからの人生、たくさん暇を潰さなければならない。通勤の時や待ち合わせの時などである。このときに数学書や専門書を読むことはほとんどできない。数学書を読むときは背筋を伸ばして紙に写しながら一つ一つ進まなければならないからである。

暇つぶしをしなければならないそんなときに読みたい本の条件は「自分の専門外の内容であること」と「その専門外の知識が増えること」と「読みやすいこと」と「大したことを言っていないこと」である。

自分の専門の内容を読んでしまうとそれが正しいのかどうかなどと余計なことを考えてしまい、気分転換にはならないからである。ただし、別分野の内容が自分の専門と以外にリンクしていたり関係づけることができるならばそれはとてもいいことである。アイディアが生まれたからである。

専門外のジャンルを選び、そのときそのジャンルについて少し知ることができたらよりよい。

読みやすいこととはここでは議論の展開がわかりやすいことや書き方などである。議論がアクロバットであったり、難しく書かれている本はあまり暇つぶしのための本とは言えない。

そして暇つぶしのために一番重要なのは大したことを言っていないことである。なぜならあくまでも暇つぶしのために読んでいるのであり、したがっていつでも読むことができていつでも読書を放棄することができなければならないからである。途中で読むのを諦めても「あの本は内容がないから別に途中でもいいや」と思える本が暇つぶしのためには重要なのである。さらに内容がたとえわからなかったとしても「別にあの本は大したことがないからわからなくてもいいか」と思える本がいい。内容が明るいものの方が尚のこといい。

 

これから紹介される人たちは必ずしも私の考えと一致するとは限らない。さらに私が彼ら全員を尊敬しているわけでもない。むしろほとんどの人を馬鹿にしていたり見下していたりしている。それは考え方が良くないという意味であって、人間的な意味ではない。

 

 

哲学・思想

政治哲学・社会哲学 

私が最も好んでいる著者は萱野稔人先生である。先生の著書はこれまで何冊か読んだ(そのうちの二つをここで書評した)。

萱野先生の書き方はいくらか癖があるが、思考の明晰さが私の好きな理由である。議論展開がすっきりしている。それが一番いい。

さらに彼の考え方もほとんど賛成である。彼の専門が政治思想であるので、私とはジャンルが異なるし彼の著作からいろいろなことを学ぶことができる。だから、現在生きている著者の中では萱野が一番である。

 

萱野はフランス現代思想の専門家である。その分野にはたくさんの有名な著者がいる。たとえば、東浩紀國分功一郎千葉雅也などである。

東の本は一冊か二冊しか読んでいない( 『一般意志2.0』は読んだ)。しかしあまり面白いともこれからも読みたいとも思わなかった。もう少し読むかもしれないが、いまのところは興味がない。

國分の本は 『暇と退屈の倫理学』を読んだ。 『ドゥルーズの哲学原理』も最初だけ読んだけれども途中で諦めた。『暇と退屈の倫理学』を読んだとき、結構面白いなと思った。これからも読むかどうかはわからないけれども東と比べればまだ興味がある。

千葉の本は実は一冊も読んでいない。 『動きすぎてはいけない』をパラパラとめくっただけであり、そのほかの著作も読んでいない。だから彼に対して判断することはできない。しかし、今は興味ない。

 

 

道徳哲学

中島義道のエッセイはかなり好きであった。結構読んだ。だが最近はまったく読んでいない。暇つぶしのために彼の著作を読むのはあまりよくないかもしれない。気持ちがブルーになったりマイナス思考になるかもしれないからである(実際は「明るいニヒリズム」のようにそこまでマイナスではない)。ニーチェやカントなどの知識を得ることができることも彼の著作のいいところである。

中島と近い立場であるのが永井均である。彼の著作 『倫理とは何か』はちゃんと真面目に読んだ。面白いなと思った。そのほかの著作は多分読んでいないと思う。

ただ、彼らのように哲学者の文献を引用してグダグダ考えるのはあまり好きではない。科学的知識などを複合して考えることを私は支持しているからである。単なる言葉遊びに終始している気がして好きになれないのである。両者とも結論や主張は普通ではなくネガティブである。だから、暇つぶしにはあまり良くないと思う。

  

 

歴史哲学

ほとんどの哲学の専門家は哲学史をする。つまり過去の哲学者を引用して議論する。だからほとんどの哲学専攻の人はこのジャンルに入る。が、そのなかでここでは特に柄谷行人を取り上げる。柄谷はいろいろなことを書いている。例えばマルクスやカントなどである。私は彼の歴史哲学しかまだ読んだことがない。つまり 『世界史の構造』 『哲学の起源』 『帝国の構造』である。これらは結構面白かった。かつて古代哲学を専門とする先生に『哲学の起源』-----これは古代ギリシア哲学についての本である-----のある箇所を見せた。すると、すぐさま「こんなのは読めません。」と拒否された。そんな思い出がある。

柄谷の他の著作も読んでみてもいいかもしれない。

 

政治思想

政治思想、特に保守思想のなかで最も好きな著者は中島岳志である。彼の本は単著ならば 『「リベラル保守」宣言』 『アジア主義』をちゃんと読んだ。共著だったり分担執筆として出版されている本ならば 『現代の超克』(共著) 『日本思想という病』(共著) 『じゃあ、北大の先生に聞いてみよう』(共著)をちゃんと読んだ。他にも 『血盟団事件』を知り合いからもらったので少しだけ読んだことがある。

中島の著作は「暇つぶし」にとってはうってつけである。これはとてもいいことである。なぜなら中島はかなりマニアックな人物を取り上げて丁寧に紹介してくれ、我々に知識や教養を与えてくれるからである。彼の思想は正直に言うと問題があり、たいしたことはない。だから私は中島を保守思想家とは考えず、ひとりの伝記作家とみなしている。『「リベラル保守」宣言』には彼の思想がまとまっていて今後それを批評したいと思う。

今後も中島の著作は読んでみたいと思う。暇つぶしにちょうどいいから。

 

中島の師匠であるのが西部邁である。私は 『大衆の反逆』 『経済倫理学序説』を読んだ。多分一応全部読んだと思う。

昔の著作は読んだことないからわからないけれども、どうやら昔と今とで西部の文体が変わったらしい。昔は普通に書いていたが、今はことあるごとにカタカナ英語を乱用する。私はその書き方が理解できないし極めて読みづらい。だから、彼の著作は多分読まないと思う。

彼の議論はたまにおもしろいが基本的にはつまらないし鬱陶しいときもある。語源を述べてそれで終了みたいな議論のときは甚だつまらない。語源を調べることはもちろん大事なことであるが、それでおしまいではなくそこから議論が展開されてほしいのに、そのようにはならないからである。このようなことがたまに(しばしば)起こる。さらに、西部の必要以上に哲学者の言葉を修飾して、もっともらしい議論をするところが鬱陶しい。

 

私はあまり西部のことを好きにはなれないが、彼のもとには中島をはじめとする熱狂的な信者が集っている。西部の門下であるのが佐伯啓思中野剛志などである。

佐伯啓思の著作はかなり読んでいると思う。新潮新書の一連のシリーズ 『反・幸福論』 『反・民主主義論』 『日本の宿命』 『さらば、資本主義』は全部読んだか少なくとも部分的には読んだと思う。近代について学ぶために 『西欧近代を問い直す』も少し読んだと思う。ただ、私は当初、近代科学について考えるためにその本を読んでみたが佐伯はそこで資本主義や民主主義について議論されていたのであまり参考にはならなかった(少し科学についても議論されていたけれども)。現在の経済学に批判的な佐伯は 『経済学の犯罪』で「昔(60年代や70年代)は、「経済は科学なのか」という議論が活発であったけれども、現在ではそのようなことは一切行われていない。シカゴ学派が世界の経済学会を支配して経済プロパガンダをした。」みたいなことが書かれていたと思う。その箇所は印象的であったと同時に今後私が検証してみたいところでもある。 『自由とは何か』は自由について考えているとき手に取った。そこで初めて自由論ではおなじみのバーリンの「積極的自由と消極的自由」を知った。現在 『現代文明論講義』を読んでいる。

佐伯の議論展開や書き方も西部に比べれば圧倒的によく、暇つぶしに読むにはかなりいいものである。今後も読むかもしれない。ただ、内容が重複しているので飽きるかもしれない。「佐伯さん、またその話ですか」と。さらに、結局-----西部にも言えることだが-----佐伯は民主主義や資本主義に距離を置き、それらを疑っているが、では民主主義や資本主義を批判するならばそれらをどうすればいいのかといった生産的な議論はほとんどしていない。悪く言えば、民主主義や資本主義の悪いところをただぐちぐち言っているだけで解決策や対案などはほとんど出さない。

 

その点で、中野剛志は元官僚というのもあってか他の人とは違う。彼は政策や制度に批判するだけではなく対案も試みているからである。その点はいいところであろう(ただしその対案が正しいのかとか実現可能かどうかなどは別問題であるが)。私は 『経済と国民』 『TPP亡国論』 『反・自由貿易論』を読んだ。『経済と国民』はのちに書評する。現在 『日本思想史新論』を読んでいる。けど多分途中でやめると思う。 

 中野は古典に通じているだけでなく最新の論文にも通じている。彼の博学には驚嘆させられる。彼の著作からたくさんの知識を学べることは暇つぶしの本にとって、いいことである。書き方も特に癖はないと思う。今後ももしかしたら読むかもしれない。

 

追記(2018/01/23): 西部邁自殺

私はこの記事を1/21の午後にアップした。そのあと寝て、夜起きたら西部の死亡記事を見て驚いた。

www.asahi.com

まさか、自分がアップしたこの日に死んだなんて思いもしなかった。ここに書かれている著者は全員存命しているものと当然のように思っていたからである。まさかと。こんな偶然あるのかと。

西部死去のニュースが世に出ると、様々な人がメッセージを述べているがそれらを見る限り、やはり西部はたくさんの人から尊敬されていたことがわかった。だが、感想はそれ以上でもそれ以下でもない。

西部が死んだからしばらくは彼の著作が注目されるのだろう。これから読もうと思っていたのだが、そうなるとちょっと嫌だな。西部のことが忘れ去られるまでしばらくは彼の著作は読まないことにする。

 

 

社会学

社会学で一番好きな著者は大澤真幸である。大澤を初めて知ったのは自由について考えていたときであり、そのときに大澤の著作を手にとってそこで書かれていたことに衝撃を受けた(内容は覚えていない)。それ以来彼のファンとなった。 『量子の社会哲学』は一夏を使って読み切った思い出がある(ただし内容はタイトルとは裏腹に期待はずれであったが)。他にも、結構な彼の著作や論文を読んできた。ただ最近は読んでいない。

大澤の独特の文章は人を選ぶと思う。私は彼のアクロバティックな議論展開は嫌いではない。博学の大澤からたくさんのことを教えてもらうことができ、そこからさまざまな知識を得ることができる。だが、暇つぶしに読むものではない。暇つぶしに読むにはあまりにも議論が煩雑すぎるからである。もっとシンプルな議論の方がいい。これから彼の著作を読むかは未定である。

大澤の同僚には宮台真司橋爪大三郎がいる。私は彼らの著作は一度も読んだことがない(ただし大澤と橋爪の共著である 『ふしぎなキリスト教』は読んだ)。だから評価はしない。だが、これからも多分彼らの著作は読まないと思う。

上野千鶴子フェミニズムの思想を理解したいがために少し読んだ( 『生き延びるための思想』)。フェミニズムを理解するためにもう少し彼女の著作を読んでもいいかなと思う。ただ、読む時期は未定。

彼女のお弟子さんである古市憲寿 『絶望の国の幸福な若者たち』を読んだが、他はパラパラと読んだにすぎない。彼の考えや視点は独特であり面白いかもしれない。私はそれほど嫌いではないが、あの書き方は人によると嫌いかもしれない。あまりにもシニカルすぎるからである。内容も大したことを言っていないから暇つぶしの本としてはいいのかもしれない。

 

 

精神分析

精神分析学や心理学の分野で唯一読んでいるのが香山リカである。香山大先生(笑)のエッセイ集はたくさん読んでいる。 『ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか』 『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』 『50オトコはなぜ劣化したのか』 『悪いのは私じゃない症候群』これらの本は全てぱらっと見て途中でやめたものである。ほとんどまともに読んだことがない(読み切ることができない?)。まともに読んだのは 『なぜ日本人は劣化したか』だと思う。それか 『劣化する日本人』かな?そこで昔の新聞・本の文字と今の新聞・本の文字の大きさを比較した箇所を覚えている。昔に比べて今のは文字が大きくなっていると指摘して、何か意見を主張していた気がする。どのような意見かは忘れたけど、たぶん「日本人が劣化している証拠」を示したかったのだろう。現在は 『がちナショナリズム』を読んでいる。これは楽しい。暇つぶしにもってこいである。パラダイム論の格好の具体例がここにはある。今後、書評する。そのあとは、 『<私>の愛国心』も読んでみたい。

『リベラルですが、何か?』 『半知性主義でいこう』のどちらかに、香山大先生(笑)がどうして活動家として活動するようになったのかその経緯が書いてあった。「これまでは傍観者として振舞っていたがそれじゃあ良くないということに気がついた」的なことだったと思う。

 

香山先生(笑)を学者とみると彼女の才能を誤ってしまう。正しくはエッセイストと活動家とプロレスラーの三つのわらじを履くマルチタレントとしてみるのである。すると、彼女の超絶な才能に我々は驚かずにはいられなくなるのである。実際香山先生は昔から大のプロレスファンだったそうだ。だが、そのような話ができる相手もおらず友達がいなかったらしい。彼女はプロレスラーに憧れていてそれでさまざまなプロレスをあるときは虎ノ門で、あるときは歩道上で、そしてあるときはツイッター上で繰り広げているのである!!!

香山のエッセイは内容がなく楽しい。さらにフロイトラカンなどの精神分析学の知識を我々に教えてくれるのである。これ以上に暇つぶしにもってこいの著者はいないと言ってもいい!!今後も読むと思う。ただ、内容の重複が著しいのでそこはキツイかもしれない。

真面目に言えば、香山はどういうわけか西田幾多郎の著作も書いているのである。学者(笑)としての香山も見てみたいな。

そう言えば、私の母親は香山の本を何冊か持っていたな。多分彼女のファンだと思う。

 

 

教育学

私が知っている教育学の専門家は齋藤孝内田樹などである。他にも数学教育に関して言えば、芳沢光雄が有名である。もっとも数学教育に関して言えば私の専門と関係があるのでこれ以上は言及しない。

齋藤孝の著作はたくさん読んだ。と言っても彼の著作全体から比べればほんの少ししか読んでいないのだけれども。 『雑談力が上がる話し方』はとりあえずこのブログに書評してある(全く内容のない書評だけども)。他にも 『知的勉強法』 『「3」の思考法』 『古典力』 『考え方の教室』 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』 『数学力は国語力』を読んだ。『数学力は国語力』は今後書評する。

私は齋藤の『古典力』を読んで「この人は一見するとニコニコと笑顔を振る舞う優しい人と思われがちだが、その仮面の正体は「この俺様が認める教養--それ以外は教養とは認めない--を持っていない連中はクズだ」と軽蔑する単なる厚顔無恥な差別野郎」であることを知り、それ以降は私は彼をまともに扱っていない。その本には「マックス・ウェーバーの話が出てきたとき、「あぁ、ベルーフですね」みたいな反応ぐらいはできなくてはならない。もし「マックス・ウェーバー、誰それ」みたいな反応ならば人間なんてやめちまえ(とまでは多分言っていなかったけどそんな感じのこと)」ということが書かれていた。それにただ古い本だからと言ってそれを無批判に礼賛する連中を私は支持しない。どこかに書いてあったが昔は齋藤は学者の典型のように「いいものを書きたいから本は一冊一冊じっくりと書くべきだ」と思っていたそうだ。だが、売れたことに味をしめてとりあえず書きまくってその中でヒットすればいいやと考えが変わったらしい。曰く「自分の精神に商売気質があったようです」だそうだ。この人は一体何十個の「〇〇力」があるのだろうか? とりあえず、思いついたキーワードの後ろに「力(ちから)」の文字をつけて適当な文章を書けば小金を稼ぐことができるんだから、こんなに楽なものはないだろう。そんな駄文を書くから「日本人が学ばなくなる」んじゃないか? そんな状況を齋藤は説教しているけれども自分がその一端を担っているという自覚が果たしてあるのかねぇ。

さらに、私が齋藤に対して思っていることは、自分が上から(にせよ横からにせよ下からにせよ)「教養」と呼ばれるものを啓蒙していることへの葛藤や疑念が彼から感じられないことである。

もちろん私はもっと日本人が学んで欲しいと思うし「教養」を身につけるべきだと思う。勉強の楽しさを知って欲しいという齋藤の考えに私は賛成する。だが、家庭教師をしている経験から言うと、前にも書いたが、他方で自分の価値観や考え方や「教養」なるものを子供やそのようなものに興味のない人に押しつけていいのかという疑問を生じずにはいられないのである。個々人の自由を侵害してまでも「教養」は身につけなければならないのか? ほんのわずかしか教育現場で働いていない私がそのように思うのだから、長年教育現場で活動している齋藤ならばおそらくそのような疑問を生じるだろうと想定する。だが、少なくとも私が読んだ著作に関して言えば、そのような「教養や自分の価値観を押し付けることへの葛藤」を齋藤が述べている箇所はないと思う。そもそも自分が行っている教育が正しいと思っていて一切疑っていない気がする。だから、私は齋藤を支持することができないのである。

齋藤の考えや主張には明確な根拠がない。「有名な哲学者や作家がこう言っているからそうなんだ」といった権威による根拠か「私の経験ではそうだから」といった個人による根拠しかない。科学的な根拠はほとんどと言っていいほどない。別にそれはそれでいいかもしれないが、齋藤の著作は少なくとも香山と同じように学術書の類ではない。彼の著作は「アイディア集」とみなすほうがいい。つまり「こういうアイディアがありますよ。ああいうアイディアがありますよ」とたくさんのアイディアが書かれている書物であるということである。それぞれの考えの論拠は薄弱であるが、「アイディア集」であるので別に構わないのである。

そう思うと齋藤の著作は暇つぶしにアイディアを手に入れることができるのでとてもいい。暇つぶしに何も考えず中身のない内容を読むことができるのである。もちろん、彼の書き方はシンプルである。特に癖もないと思う。それは暇つぶしのための読書にとってはいいことである。 

齋藤の著作は今後も読むだろう。書店に行けば彼の本は常に新刊コーナーに売っているので探す時間を省くことができるし、暇つぶしにはぴったりだからである。ただし、彼の著作は広く浅くであるので、そこから専門的な知識を得ることはできない(あってもメルロ=ポンティぐらいか)。

 

内田樹 『下流志向』を読んだ。 『寝ながら学べる構造主義』は少し読んだ。内田の街場シリーズは多分読んでないと思う。

下流志向』にかんするエピソードが2つある。覚えているのはベクトル解析の授業のとき暇つぶしにそれを読んでいたということである。もう一つはある人に「内田先生の『下流志向』はいいですね」と言ったらその人は「まぁ、それはね。内田先生の内容はちょっとダメだね。」とおっしゃったことである。

その時はどうしてそのような低い評価なのだろうかと疑問に思ったが、今ならなんとなくわかる気がする。もっとも私の考えでは、内田の主張はあまりに本人の直感に頼って議論が展開するので、検証不可能な主張がしばしばあることが問題ではないかということである。ただ、その人がそういうことで彼を批判的に捉えていたのかどうかは知らないけれども。

内田の著作はいつか読むかもしれないけど、今はそれほど興味はない。多分読まないと思う。彼の文体はそんなに覚えていない。悪かったかもしれなかったし普通だったかもしれなかったし。しばらく読んでいないからわからない。 

 

経済学 

経済に関しては有象無象の輩がいる。そのなかで私がこれまで読んだのは水野和夫飯田泰之などである。

水野の 『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』を読んだ。今度書評する。有名な 『資本主義の終焉と歴史の危機』は少し読んだだけで全部は読んでいないと思う。

水野の書き方は普通だと思う。彼の歴史の知識は圧倒的である。我々は彼の著作からそのような知識を得ることができる。たまに哲学者の言説も紹介されているからそれも暇つぶしの読書にとってはいい点である。だが彼の考えや根拠には歴史主義的な要素が多分にあるので私は彼の主張を話半分で受け流している。私は歴史主義的な立場を支持していないからである。だが彼の著作から経済の歴史を学ぶことができるので今後も彼の著作を読むと思う。

 

飯田の著作は 『思考の「型」を身につけよう』しか読んだことがない。書き方はどうだったのか覚えていない。内容も覚えていない。これは少しだけ経済学的な考え方が記載されていた。今度は彼の経済学書を読みたいと思う。

他にもクルーグマンスティグリッツを今後読むかもしれない。

生物学

私は生物学が大嫌いであり大の苦手である。にもかかわらず、学部のとき生物学の科目を取らなければならなかった。だから、必死になってわかりやすい生物学の啓蒙書を探した。そのとき私は福岡伸一 『生物と無生物のあいだ』に出会い、それ以降、かなり読んだと思う。例えば、 『世界は分けてもわからない』 『動的平衡』 『動的平衡2』などを読んだ。結局、ここに書かれていることで大学の生物学の内容をカバーすることは到底できないのだけれども、私の生物アレルギーが少し弱くなったのは偏に(ひとえに)彼の著作のおかげである。

福岡の書き方は独特である。よく言えば文学的なのだろうけれども正直それはいらない。難しい漢字なんか使わずにもっと簡潔でわかりやすく書いてくれればいいのにと思う。『生物と無生物のあいだ』を読んだとき特にそう思った。内容は面白かった。生物の知識を得られることは我々にとってとてもいいことである。

 

他の著者ではリチャード・ドーキンスを知っている。彼の 『神は妄想である』はちゃんと読んだ。 『進化の存在証明』 『盲目の時計職人』は少し読んだけれども途中で諦めた。これらはもう一度読む。

『神は妄想である』は途中までの議論展開が面白かった。だが、のちの議論はあまりよくなかった。

ドーキンスの最も有名な本 『利己的な遺伝子』は最低3回は試してみたが、20ページも読むことなく挫折した。読みたいとは思うけれども、多分無理だと思う。なぜなら、その本にはセクションがなく、一つの章にだらだらと書かれているからである。これは生物が嫌いな私にとっては苦痛である。

ドーキンスの書き方は独特である。よく言えば英国流のユーモアのある文体というのだろう。だが、それは人を選ぶと思う。私にとってそんなジョークやユーモアなど邪魔でしかなく、それよりももっと丁寧に内容を書いて欲しいと思う。ドーキンスの著作は今後も読むと思う。翻訳は特に問題ないと思う。

 

養老孟司 『バカの壁』すら私は多分読んでいないと思う。どうかな。ちょっと思い出せないな。養老のどこかの本に「日本語で相手を罵倒するときに「おのれー」と言うがそれは自分と他人が区別されていない。対して外国語(英語?)は必ず「I(私)」や「You(あなた)」を明確にする。」みたいなことが書かれていたような気がする。その箇所が『バカの壁』なのかもしれないが。

 

その他

メディア

メディア関係では佐藤優池上彰などである。

佐藤の 『神学の思考』はもしかしたら全部は読んでいないかもしれないがかなり刺激を受けた著書である。どこかにメモしたような気がするけれども、どこかになくした。その本は神学と数学のアナロジーを私に示唆させた。 『国家の罠』は読んでいない。私の父親が佐藤のファンであり、何年か前に私は父から 『世界史の極意』を渡された。だからそれを少し読んだ。もしかしたら全部読んだかもしれないけれども、内容は忘れた。

書き方は読みやすかったと思う。内容が難しいのか書き方が難しいのかはわからないけれども、しばしば人を挫折させる本を著者は書く。内容も多岐にわたるが政治など私の専門外で終始すればいいのに数学や物理学などもたまに言及するのでそのときは困る。だから私の暇つぶしにとってはあまりよくない著者だと思う。今後は多分読まないと思う。佐藤の雑誌連載があったらそのときに読む程度だと思う。

 

たしか池上の 『学び続ける力』で、池上の父親は常に広辞苑で何かを調べていて、それがボロボロになるまで使い続け、それを死ぬまで片時も手放さなかったというエピソードがあったと思う。それは覚えている。

「〜が、」という接続詞を使うときは「順接」の意味で使ってはいけないということが 『伝える力』に書かれていたと思う、記憶違いでなければ。

書き方は普通だと思う。けれども多分読まないと思う。あとは、そこに「文章は書いたら1日寝かせて再びチェックしたほうがいい」みたいなことも書かれていたと思う。

 

メディア関係では他に不倫クソ野郎金髪豚野郎も読んだことがある。が、多分もう読まないと思う。そもそも連中には興味がない。何やっているかもよくわからないし。

 

サブカルでは宇野常寛 『ゼロ年代の想像力』を読んだ。そこには主張が重複されていてくどかった印象と、その肝心の言いたいことの根拠が結局彼の私見にすぎないのではないかという印象を受けた(東や東のエピゴーネンの連中は何もわかってない!!みたいな感じであった)。でも結構面白かった。

書き方は特に癖はなかったと思う。もし機会があれば他の著作も読んでみたい。

 

右翼本・左翼本

私はそもそも「どうして右とか左とか思想がわかれるのだろうか? そして彼らはいがみ合わなければならないのか? 互いを理解することはできるのか? 互いを認め合うことはできないのか? 互いが接近することはできないのか? 」などの疑問を持っている。つまり、「右」や「左」の内容はそもそもそれほど興味がなく、それよりも同じ現象や事件に対してどうしてかくも異なった見解や解釈をするのだろうかということに興味がある。ただし、シンパシーを感じるのはどちらかというと「右」ではあるが。

たくさんの右・左の連中の著作を読んだ。今後も読むかもしれないし読まないかもしれない。政治に直接参画するかは微妙である。かなり引いた目線で見ていると思う。

だが、ゴリゴリの左翼本やゴリゴリの右翼本は読んでみたいと思う。それはそれで面白そうだからである。最近は「なんちゃって左翼」や「なんちゃって右翼」の連中が多いし、それらに付き合いたくはない。内容が薄いからである。

 

 

 勝手にランキング

以下で勝手にランキングをつくった。これはあくまでも個人的な嗜好である。

暇つぶしに読む本を書く著者ランキング

ランキング順は暇つぶしの本にとって、もっとも重要な「大したことのないこと」を書く著者順にほぼ対応している。

 

1位: 香山リカ

読みやすい。知識を与える。大したことが何一つない。暇つぶしには最高の著者!!! 

 

2位: 中島岳志

読みやすい、知識を与える、ほとんど大したことを言っていない。

 

3位: 齋藤孝

読みやすい、たくさんの直感的なアイディアを提供してくれる。

 

 

歯ごたえのある本を書く著者ランキング 

1位: 萱野稔人

議論の展開がクリア、内容も面白い、知識を与えてくれる。電車内でも読める。ほとんどの考え方に賛同する。

 

2位: 大澤真幸

たくさんの知識を与えてくれる。深い。けど議論の進み方が独特で読みにくい。

 

3位: 福岡伸一

たくさんの知識を与えてくれる。議論の展開はクリア。だけど書き方に少々、難癖がある。

 

 

総合ランキング(個人的好きな著者)

1位: 萱野稔人

 

2位: 福岡伸一

 

3位: 中島岳志

 

 

最後に: これからも読みたい著者ともう読まないだろう著者 

これからも読みたい(またはとりあえず読むだろう)著者は

 

であり、

 

もう読まないだろう(またはとりあえず読む気がない)著者は

 である。

もちろん、読まないリストに入っている人でも今後読んで批評をするかもしれないが、それでもいまのところ読む予定はない。

だいたいこんな感じである。

 

僕から以上