基本情報
動機
読むきっかけは、岩田温さんが「日本で最もおもしろい論争は『人間の建設』だと思う」と言っていたから。
感想
本の帯には「すれ違いの雑談か、歴史に残る対話か。決めるのはあなただ。」とある。
岩田さんは後者であるが、評者は前者である。
小林秀雄と岡潔の両方とももちろん名前を知っている。小林の本を読もうとは思っていたが、これまで一度も読んでいなかった。岡潔の本もこれまで一度も読んでいなかったが、多変数複素関数論を知りたかったので、倉田令二朗の『多変数複素関数論を学ぶ』を購入して、最初の複素関数の復習まで読んでやめた。「層(sheaf)に関して岡の研究が関係している」ということを知っているぐらいである。もちろんどう関係しているかは知らない。
コーエンの「ZFCと連続体仮説の独立性の証明」の話も出てきているが、ここに書かれていることの真偽を本当は判断したかった。しかし私が無知無能なのでできなかった。
しかし感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題が、 数学的に無矛盾であるということが証明できて、そういうエキザンプルができたのです。 そういうエキザンプルが一つあれば、なるほど、知性には感情を説得する力がないということがわかります。 はじめからわかっていることなんですが。 p.41
一方でアレフニュルとアレフとの中間のメヒティヒカイトは存在しないと仮定したのです。 他方でアレフニュルとアレフとの中間のメヒティヒカイトは存在すると仮定したのです。 この二つの命題を仮定したわけです。どうしたって、これは矛盾するとしか思えません。 それは言葉からくる感情です。 ところがその二つの仮定が無矛盾であるということを証明したのです。 それは数学基礎論といって、非常に専門的技巧を要するのですが、その仮定を少しずつ変えていったのです。 そうしたら一方が他方になってしまった。それは知的には矛盾しない。 だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。 だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。 知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。 こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。 だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。 p.42
どうして小林秀雄の著作には人に関するものが多いのか不思議に思っていた。『モオツァルト』『ドストエフスキイの生活』『本居宣長』などである。だが、今回この本を読んでその理由がわかった。それは小林にとって「人がわからないとつまらないからであり、人がわかるとおもしろくなるから」である。
私は人というものがわからないとつまらないのです。 だれの文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でもおもしろくなります。 石や紙という物をかいてもおもしろいのと同じように、人間というものはそこに実体が存在するのです。 それがないのがあるでしょう。それは私にはつまらない。 文章というものもみんなそうなんです。 p.86
その他
- pp.38-40: 数学にも感情(情緒)の満足が必要。
p.38 岡 われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうに自然があるかどうかはわからない。 自然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範疇ではできないのです。 自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性の世界だけでは証明できないのです。 数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。 数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。 数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れ p.39 なければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少くとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。 (改行) 最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。 だからそういう実例をもったわけなんですね。 それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、 まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、 銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。 じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。 人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、 心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。 だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、 情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。 そういう意味で私は情が中心だといったのです。 そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、 矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。 そしてその感情に満足をあたえるためには、知性が p.40 どんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。 矛盾がないかもしれないけれども、そんな数学は、自分はやる気になれないとしか思わない。 そういうことは、はじめからわかっているはずのことなんですが、その実例が出てはじめて、わかった。 矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。 ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。 説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。 人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。 ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
- 確信していないものは複雑である。確信したものほど書くのが簡単なものがない。
岡 確信しない間は複雑で書けない。 小林 確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。 p.111
- 日本の先生の給料が低すぎる。もっと上げろ。この時代(この対談は昭和40年10月「新潮」に掲載された)から言われていた。
小林 政治問題としてみれば、先生にもっと月給をあげなければいけないでしょう。 ぼくはフランスに行ったときに、小学校の図画の女の先生の生活を見てきた。 パリの街なかの一流のアパートに住めるのですよ。それだけの金を取っているということ(ここまでp.120)」 「(ここからp.121)がわかったのです。日本の先生はひどいなと思います。 とくに小学校の先生が薄給でやっているということはいけないですね。 本当に教育ということを考えれば、そういう馬鹿なことがあるはずはないのです。 pp.120-121
小林 解析学はいつごろから始まった学問ですか。 岡 解析学が一番古いのです。 小林 アナリシスというのはどういう概念なんですか。 岡 アナリシスというのは分析するという意味ですね。 主体になっているものはな数でして、函数というのは、二つの数の間の関係をいうのです。 昔、エジプトあたりで作地の面積を測ったりする時に、たとえば三角法が使われた。 直角三角形の角と二辺の比、それを角の函数といって、 サイン函数とかゴサイン函数とかいいますね。そういうものが考えられていた。 二数の関係はエジプトですでに考えられていました。 そのいろいろな函数を広めていったものが解析学という学問なのです。 p.125
- 問題を出すほうが難しい。
岡 その当時出てきていた主要な問題をだいたい解決してしまって、 次にはどういうことを目標にやっていくかという、いまはその時期にさしかかっている。 次の主問題となるものをつくっていこうとしているわけです。 小林 今度は問題を出すほうですね。 岡 出すほうです。立場が変るのです。中心になる問題がまだできていないというむつかしさがあるのです。 p.69
- 岡のお子さんは数学があまりできないらしい。
岡 また実際問題として、私の子供は数学はあまりできやしませんし、遺伝なんかしそうもない。 p.107
僕から以上