疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#16: 西郷甲矢人&田口茂著『<現実>とは何か』(1)

今回は書評ですが、細かい内容はまたいつか書く。
今はとりあえずブログの更新。

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

本当は読み終わった直後の今年の1月に書くべきでした。最悪でも今月(2020年7月号)の『現代思想』が出版される前に書評すべきでしたが、時間がなかったので今更になりました。


私と彼らの関係は意外に深いのですので、詳細に書きます。

評者と著者との関係

まず、評者と著者の関係について述べよう。これは本書の評論とは直接的には関係ないが、評者が知っている限りの本書成立の裏話を知るのも悪くないと思うからである。

田口先生は北大に赴任されて、私は先生の現象学の授業を取った。知り合いになりフッサールの『危機』第9節を一緒に討論なさってくれた。とてもお世話になった方である。
夏休みのある日、先生の研究室に呼ばれた。そこに行くとある人を紹介してくださった。その人が西郷さん(先生とは呼んだことはないのでそのような敬称にさせていただく)であった。西郷さんとはその一度きりの出会いであったが、強烈な印象を覚えた。
「こちらが西郷さんだ」と紹介され、西郷さんは「よろしく」と言われた。

初めて西郷さんと会った日の直前、『数学セミナー』に記載されていた「圏論の歩き方」というシリーズに西郷さんの論文『すべての人に矢印を!』が出ていた。それを読んだことを伝えた。その論文はのちに『圏論の歩き方』という本に収録された。

圏論の歩き方

圏論の歩き方

  • 発売日: 2015/09/09
  • メディア: 単行本
私はカバンの中にあった遠山啓(とおやまひらく)の『行列論』を手元の出してた。それを見た西郷さんはすかさず「遠山啓の本読んでいるの?」と話された。「ええ、そうです。今、勉強しています。遠山啓は尊敬は…していませんが、ぶっ飛んでいて好きです」と答えた。すると、西郷さんもこの本を読んだことがあるらしく、ベクトル空間の基底数が同じであるという定理の証明方法がいくつかあってね、この本ではこういうふうに証明しているけど別の教科書ではね…と話された。そのあとこう言われた。
「俺も遠山啓好きでさ。自分の息子に「啓」とつけたんだ。ただ、これをそのまま「ひらく」というのは安直すぎるから「けい」って息子に名付けたんだ」
遠山啓のことを知っている人がいるだけでも驚いたのに、好きすぎで自分の息子に同じ漢字を当てたとは!なんて人だ!それが西郷さんの第一印象であった。

西郷さんは他にもこう言われた。
「ベクトル空間の基底数が一定って、かなりすごいと思うんだ。基底の取り方はたくさんある。たくさんの基底はある。それにもかかわらずその数は変わらないって」
そのときは何も思わなかった。しかし、圏論を学んだ後に振り返ると、それはベクトル空間 {V} のデュアルなベクトル空間 {V^*} はキャノニカルな同型ではないが、ダブルデュアル {V^{**}} はキャノニカルな同型である、つまり自然変換であるということを意図した話だったのかなと思った。けれども、ニュアンスはそうではなかったと思う。たぶん関係ないと思う。

田口先生と西郷さんとの出会いはそのときに教えてくれた。彼らの出会いの詳細は本書の後書きに書かれている。私はただ「ピート・ハットという人から紹介してもらった。話し始めたら意気投合したんだ。彼とは馬が合うんだ。それで今、圏論の哲学を共同で研究している。圏論現象学の類似性に驚いている。いつどこで発表できるかはわからないけど、いつか発表ができたらいい」ということを田口先生からうかがった。だから、今回、このように本として出版されたことをとても嬉しく思う。

ちなみに西郷さんの人となりは、『圏論の道案内』という本の序文と後書きを読めばわかると思う。どうして西郷さんがしきりに「仏教」について興味を持っていたり、論じているのかも理由がわかった。西郷さんの父親は芸術家らしく、書斎に仏教や東洋哲学の本が大量にあり、小さい頃から西郷さんはそれらの本を読んでいたそうだ。



他にも『圏論の歩き方』でもわかると思う。西郷さんは研究者の間でも、いろいろな意味で群を抜いていることがわかる。
圏論の歩き方』にはディスカッションの章(座談会)がある。ディスカッションに登場している人たちはペンネームで書かれている(ブルバキに倣ったらしい)。「二条」や「祇園」などである。西郷さんも『圏論の歩き方』のメンバーの一人なのだが、その中で唯一、西郷さんは本名の「西郷」となっている。「どうして僕だけ本名なんですか?」と西郷さんが聞いている箇所があるのだが、「だって、西郷さんは西郷さんでしょ?」みたいな感じに返答されていた。

研究室で挨拶をしたあと、近くのタイ料理店で私と田口先生と西郷さんとで昼食を取った。私はそのとき奢ってもらった。そこで何を話したかは全然覚えていないけれども、唯一覚えているのは、田口先生が「渡邉くん、パクチー大丈夫? もし無理ならば僕にちょうだい。僕、パクチー大好きだから」とおっしゃったことである。

食事を終えて、研究室に戻るときに私は西郷さんにこう言った。
「僕は『数学とは線形の科学である』と考えています。僕が知っている線形性は『微積』と『線形代数』です。つまり、関数の線形性と空間の線形性です。
数学には他にどのような線形性がありますか?」

そのとき西郷さんはもう一つの線形性を指摘された。確か「ベクトル束」のことを言ったと思う。ベクトル束のことを説明してくれたけれども、結局何を言ったのかは理解できなかった。

一度きりの昼食会はそれで終わった。その後、田口先生に会うたびに、先生は圏論の哲学の研究の近況を報告してくださった。話を聞いて「所詮その程度か」とがっかりしたこともある。だからこそ、今回、唯一無二の哲学研究を上梓され、嬉しく思う。


西郷さんの話には続きがあるだが、それはいつか別のところで書こう。もしかしたら書かないかもしれないが。


本書の総括
本書に貫かれている大きなテーマの一つは「実体論からの脱却」(p.159)である。
もう一つは個(individuals)と普遍(universals)の関係である。本書を読んでいるとき、評者はベクトル空間の基底変換の定理を思い浮かんでいた。

{V} {n} 次元のベクトル空間とする。
{\mathscr{B}_1 = \{ e_1, \ldots, e_n \} } および {\mathscr{B}_2 = \{ f_1, \ldots, f_n \} }{V} の2つの基底とする。
このとき、ただ一つの写像 {A: \mathbb{R}^n \to \mathbb{R}^n} (基底変換)
 {(e_1, \ldots, e_n) A = (f_1, \ldots, f_n)}
が存在する。

他にも線形写像の表現定理も思い浮かんでいた。

個としての基底はたくさんあり、それぞれである。だが、それらはただ存在するだけではなく、一定の普遍的な関係(つまり基底変換)がある。だが、基底変換という普遍は最初からあるのではなく、個々の基底があって初めて意味をなす。基底なしの基底変換自体を考えるのは意味がない。つまり、個のない普遍を考えるのは無意味である。


圏論の特徴に「普遍性」という考え方がある。例えばデカルト積(直積集合) {A \times B} とその射影 {p_A: A\times B\to A, p_B: A\times B\to B} は次の普遍性を有する。

任意の写像 {f: X\to A, g: Y\to B} に対して、ある写像 {h: X\to A\times B} がただひとつ存在して、
{p_A\circ h = f} かつ {p_B\circ h = g}
が成り立つ。

実際、集合論において、{h(x) = (f(x), g(x) )} とおけば上の等式が成り立つし、そのような写像がただひとつであることも明らかである。

このような普遍性は数学で(特に代数学)でしばしば出てくる。例えば、テンソル積などである。

集合論において、デカルト積はまず順序対 {(a, b)} を定義してから(クラトフスキーの定義)、 {A\times B = \{ (a, b) | a\in A, b\in B \}} として定義する。そして標準的な射影 {p_A: A\times B\to A, p_B: A\times B\to B} が定義される。そしてそこから「定理」として普遍性が導かれる。
これはテンソル積などでも同様で、集合論的に定義した後に普遍性の定理が導かれる。テンソル積は集合論的に少なくとも2通りの定義の仕方がある。

だが、圏論は逆に、この普遍性を「定義」として採用する。ある概念をある普遍性を満たすものとして定義する。デカルト積は上の普遍性を満たすものとして定義する。テンソル積もある普遍性で定義する。


本書には圏論の普遍性について議論している箇所はほとんどなかったと思う。この普遍性の哲学的意義について今後の研究で明らかにしてほしいと思う。
(未完)