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読書感想#11: 中野剛志著『経済と国民 フリードリヒ・リストに学ぶ』

今回は中野剛志さんの『経済と国民』を書評します。

 

中野剛志『経済と国民   フリードリヒ・リストに学ぶ』朝日新書 634, 2017, 朝日新聞出版, 電子書籍

経済と国民 フリードリヒ・リストに学ぶ (朝日新書)

経済と国民 フリードリヒ・リストに学ぶ (朝日新書)

 

 

 

本書のまとめ 

本書はリストの生涯やリストの業績を紹介している。特に、リストの主著である『政治経済学の国民的体系』に沿って、議論が進む。


序章では自由貿易論に対する批判がされている。自由貿易論の根拠である主流派経済学は現実にはあり得ない前提の上で構築された机上の空論に過ぎないと痛烈に批判する。自由貿易論や主流派経済学に対する別の理論として、自由貿易論の批判者であるリストが取り出されている。


第一章ではリストの経済理論が紹介されている。それは、「生産諸力の理論」である。生産諸力の理論とは、経済発展や経済成長にかんする理論である。その理論の根拠である収穫逓増(しゅうかくていぞう)の原理を説明する。これは今日の支配的な経済学に反する考えである。さらに、リストの国民経済や保護関税の議論も紹介されている。


第二章では、知識社会学および科学社会学・経済社会学を議論する。そこで、マンハイムシュンペーターさらにはパラダイム論で有名なクーンにも言及する。


第三章では、プラグマティズムナショナリズムについて議論されている。リストが実践から学ぶプラグマティストであり、ナショナリストであったためである。


第四章では、リストの『政治経済学の国民的体系』でリストが言及しているマキャヴェリの思想(マキャヴェリズム)を議論している。マキャヴェリズムにあるプラグマティズムの思想を見て取る。さらにマキャヴェリは歴史主義的立場であったため、国家を維持し発展させるために政治家が従わなければならない理念であるいわゆる国家理性をマキャヴェリが発見し、そこからマキャヴェリ国民国家の建設というナショナリズムへとつながっていった。


補論は、リストの思想についての従来の解釈についてである。従来はリストは保守主義者(反動主義者)であると言われているが、果たしてそうなのかということである。


第五章では、前章の続きでマキャヴェリから始まる理性国家論の経済的発展について議論されている。マキャヴェリの理性国家的経済論からボッテーロとセラのそれらを議論する。理性国家論から経済的プラグマティズムへとつながっていくのである。


終章では各章のまとめをおこなっている。そのうえで主流派経済学を批判することの覚悟と虚しさについて語られている。なぜなら別の世界にいる人たちを批判することは、別のパラダイムにいる人たちなので、批判を理解してもらうことができず、たとえ批判を理解されたとしても自分の世界観を固辞するためにその批判を無視する可能性が高いからである。さらに主流派が大勢であるため、自分たち少数派を締め出し社会的に抹殺することもあるから批判はそれだけで命がけであるとのことである。
 

 

各章のまとめ

序章  自由貿易という逆説pp.7-31

Section: ご都合主義的な経済モデルpp.8-12
Section: 戦後の自由貿易の実態pp.13-18
Section: ドイツの政治経済学者フリードリヒ・リストpp.18-28

 

省略。要は主流派経済学はダメだという著者のいつもの主張である。そのようなことは『TPP亡国論』から一貫して主張されている。

 

第一章  理論と実践pp.32-92

Section: 古典派経済学の最も素晴らしい批判者pp.33-37
Section: 生産諸力の理論pp.37-41
Section: 今日の経済成長理論pp.42-47
Section: 技術革新と制度pp.47-56
Section: 国ごとに異なるアプローチpp.56-61
Section: 第二次産業革命pp.61-67
Section: リストの予見力pp.67-73
Section: 生前のリストに対する評価pp.73-77
Section: 退行する経済学pp.77-82
Section: リストの現代的意義pp.82-86

 

重要だけれどもとりあえずいまは省略。疲れたから。 めんどくさい。

 

 

第二章  科学とヴィジョン pp.93-133

Section: シュンペーターとヴィジョンpp.94-96
Section: 経済理論家たちのヴィジョン形成pp.96-99
Section: シュンペーターマンハイムpp.100-104
Section: プラグマティズムと解釈学pp.104-109
Section: 関係主義に立つ知識社会学pp.109-112
Section: シュンペーターによる知識社会学の課題pp.112-114
Section: 科学革命pp.114-119
Section: 世界観を利用する政治pp.119-123
Section: 経済学者の社会学pp.123-130

 

リストの専門家らの著の副題に「ビジョン」というものがあり、それに注目した思想家としてシュンペーターを取り上げる。そのあとに、マンハイムへと議論が続き、クーンのパラダイム論へと続く。そして、社会科学におけるパラダイム間の競合は政治闘争に等しく、リストはその犠牲者であるという(そして俺もそうだと暗示しているように思ってしまう)。

 

したがって、時代が推移し、社会が変遷し、あるいは強烈な個性をもった経済理論かが登場すれば、経済理論は刷新されることとなる。しかし、それは、時代や社会情勢の影響を受けない普遍的で不動の経済理論を確立することは望み得ないということをも意味する。

p.99 

 Question  それは経済学と呼べるのか? また、それは経済学だけなのか? 物理学や他の科学もそうなのか? また、たとえ刷新されるにしても進歩はないのか? 不動の経済理論に近づくということもないのか?

 

したがって、具体的な「状況」や「環境」を排除した抽象的な形式論理によっては、社会現象を正しく理解することはできない。社会科学とは、社会現象の背景にある個別具体的な「状況」や「環境」がもつ意味を理解することである。

p.105

Question  ということは、社会科学において一般法則というものを導くことはできないの?

 

社会科学は「力学的に客観的なもの」「形式的なもの」「純粋に定量的な相関を表象するもの」でなければならないとするのが主流派経済学である。

p.106

Question  力学的って何?

 

社会科学における客観性とは   解釈学的アプローチ 

社会科学者自身が、分析の客体である社会現象に参入してしまうと、分析が客観性を失うようにみえるかもしれないが、そうではない。

   さきほどの道端の子供が一人で泣いているという状況の例で言えば、その子が抱く不安に共感することは、状況を客観的に理解していないということにはならない。むしろ、客観的かつ正確に理解していることになろう。反対に、主流派経済学のような、力学的・形式的・定量的なアプローチは、分析の客体が社会現象に参入していないという意味では客観性を維持しているかのようにみえる。しかし実際には、その子が抱く不安を客観的に理解できていないのである。

p.108

 

 

解釈学的アプローチは関係主義(relationism)であり、相対主義(relativism)や合理主義との違いについて。

 

知識社会学は、認識や思考様式といったものが、時代によって、文化によって、あるいは社会の状況によって異なるものであるという理解に立っている。それは、社会科学を状況に応じた変化や多様性に対して開かれたものとする。

p.110

 

関係主義の考え

例えば、写真家が富士山を好んで撮るのは、季節や1日の時間帯によって、あるいは撮る位置や角度によって、いろいろな姿を見せるからである。富士山の写真には、同じものが一つとしてない。にもかかわらず、どの写真も間違いなく富士の姿を写している。そう考えるのが関係主義である。

p.110

 

相対主義の考え

相対主義者は、「富士山の写真といわれるものは、写真家の主観が恣意的に創り出したものであって、実は富士山などというものは存在しないのだ」という立場に走る。

p.110

 

合理主義の考え

合理主義者は、「これだけが、絶対的な真の富士山を写した写真である」という一枚を撮ることができると信じ込んでいる。

p.110

 

関係主義と相対主義の違い。

関係主義者は、相対主義者とは異なり、富士山という客体の存在を肯定する。

p.110

 

関係主義と合理主義の違い

[引用者注: 関係主義者は] 合理主義者とは異なり、複数の写真のいずれもが、ある角度から切り取られた富士山の真の姿であると認めるのである。

p.110

 

社会科学理論と知識社会学について

写真家たちは時間や角度によってさまざまに映ずる姿に魅せられ、真の富士というものに迫ろうとして、飽きもせず撮り続ける。それと同じように、社会科学の理論も、社会科学者が置かれた時代や社会状況によって異なるのだけれども、社会科学者たちは自らを拘束する各々のパースペクティヴを通じて、何とか人間社会の真理に迫ろうとする。その自覚を社会科学者に促すのが、知識社会学なのである。

p.112

 

以上からいくつかの疑問。

(1)  富士山の写真の例では関係主義は富士山の実在を認める立場である。では、それが一般の社会的事象(社会現象)のとき、富士山に相当するものは何か? 何の実在を認めるのか? 富士山の存在は社会現象が存在することに相当するのか? それとも真なる社会理論に相当? それとも社会的真理に相当?

 

(2)  関係主義は進歩を認めているのか? どの富士山の写真も正しいのだけれども「こちらの写真の方がより真の富士山を捉えている」や「いや、こっちの写真の方がより真の富士山を捉えている」といったように比較することができるのか? それは「Aの富士の写真の方がBのそれよりも真の富士山により近い」などと言えるのだろうか? それを認めることは紛れのない進歩主義である。それとも、そのような比較はできないのか? 

 

(3)  自分が捉えている写真がなぜ真の富士山であるとわかるのか? つまり、自分が撮っている写真はもしかしたら富士でない別の山かもしれない。にもかかわらずどうして、また、どのようにして真の富士山がその写真の被写体であることがわかるのか? 

この疑問を社会理論の文脈に直すと次のようになる。つまり、ある社会現象や社会真理が存在して、それをあるパースペクティブから捉えることによってある社会理論ができたとき、どうしてその理論がその真の社会真理の一部を捉えていると我々が理解できるのかということである。また、どのようにして理解できるのかということである。もしかしたらその理論はまったく異なる社会的真理を捉えているかもしれず、当の真理をまったく捉えていないかもしれないのである。

富士山の例ならばある写真が富士山を捉えているかどうか次のようにしてわかるだろう。例えば、真の富士山の形とその写真の形を比較したり、周りに湖があるのかどうかなどを比較するなどである。ところが、我々はそもそも真の社会理論や真の社会的真理なぞ、知らないのである。わからないのである。ある社会理論と真理を比較することができないのである。にもかかわらず、どのようにしてある社会理論が当の真理の一部を捉えていると我々がわかるのかということである。もちろん、もしも関係主義が進歩を認めているというのならば、どのようにして社会的真理に近づいたわかるのかということも問わなければならない。

 

社会学におけるパラダイム競合について

社会科学のパラダイムの競合は、政治闘争そのものにほぼ等しいといってよい。そして、政治闘争に勝利した勢力が正義であるとは限らないように、支配的な地位を勝ち得た社会科学のパラダイムが真理であるという保証はまったくない。

(中略) 社会科学のパラダイム間の競合は、生きるか死ぬかの政治闘争の様相を呈する。社会科学においては、パラダイムの転換を論証や実験はもちろん、説得に期待することすら、楽観に過ぎるのかもしれないのである。

pp.122-123

 

第三章  プラグマティズムナショナリズムpp.134-174

Section: リストの方法pp.135-140
Section: 確実性の探求pp.140-147
Section: 不確実性に対する不安pp.147-152
Section: コスモポリスという理想pp.152-158
Section: 経済自由主義の起源pp.159-163
Section: 人文主義の復活?pp.163-166
Section: 国民国家とは何かpp.166-172

 

リストの最大のテーマである理論と実践の調和からデューイのプラグマティズムへと議論が進み、そのあとにトゥールミンの議論が続く。

 

プラグマティズムという言葉は、通俗には、理論や原則よりも、実利や結果を重視する姿勢といった意味で使われがちである。しかし、デューイの主唱するプラグマティズムは、そんな安っぽい意味のものではなかった。

   デューイは実用に重きを置いて、理論や知識を軽んじたのではない。そうではなくて、理論や知識は、実践や行為の一部であると説いたのである。言い換えれば、デューイは、「理論/実践」「知識/行為」という二元論そのものに異を唱えたと言うことだ。

p.141

 

人間は、将来が不確実であると不安に駆られ、そこから逃れようと欲する。しかし、人間というものは、現実の世界の中にいて行動している限り、そして彼の予見力に限界がある限り、不確実性から逃れることはできない。そこで、危険に満ちた現実の世界自体から退き、確実性を求めて純粋な知識の世界へと逃避しようとするのである。

pp.147-148

→確実性への逃避にはもう1つの道がある。それは過去にしがみつくことである。たとえば、文献学的な研究である。まさにリストが「当時のドイツにおける徹底した自由貿易論者(p.150)」であるロッツを批判したように。

 

のちに彼の厚い本にあらためてお目にかかったとき、ロッツ氏の態度がすっかりわかった。ひたすら先人を引き写したり注解したり、また知識のすべてを本から汲み出したりした著者たちが、学校での経験と矛盾する生きた経験とかまったく新しい思想とかが彼らに対立してあらわれると、非常に不安になって当惑するということほど、あたりまえのことはないのである。

p.151(孫引き)

 

Question ロッツの本はその中ですべてが完結されていて、それをリストは批判している。そのような文献学的方法は著者にも当てはまるのではないか? 

 

すなわち、変則事例が見つかったからといって、既存のパラダイムに疑いを挟み、それを転覆させるということは、その疑念から来る不安に耐えるだけの勇気を持っていない凡庸な科学者には、到底できることではないということである。パラダイムの転換、すなわち科学革命が、歴史上、ごくまれにしか起きないのは、科学革命を成し得るだけの知性と胆力の両方を兼ね備えた科学者というものが、歴史上、ごくまれにしか現れないからなのだ。

p.152

 →かなり無理のある考え。多分間違っていると思う。パラダイム論では普通そのように言わないと思う。要は牽強付会

 

自然界には、宇宙における惑星の運動や潮の満ち引きのような、秩序だった厳格な法則が存在する。人間社会においても、人々が国家権力を中心とした階層的秩序という軌道に従って動くことが、社会を安定させるはずだというわけである。ホッブス主権国家論は、ニュートンの天文力学のミラー・イメージだというのである。

pp.165-166

ニュートン力学の思想的な影響について。

 

第四章  力量と運命pp.175-209

Section: リストの先駆者、マキャヴェリpp.176-179
Section: 国民的自由pp.179-182
Section: マキャヴェリズムpp.182-186
Section: 力量・必要・運命pp.187-192
Section: 国家理性のプラグマティズムpp.192-197
Section: 国家理性と歴史主義pp.197-204
Section: ナショナリズムへpp.204-209

 

Question  

著者は次のように言う。

マキャヴェリは、「そのころの時代の情勢のもとでは国民国家は簒奪によってのみ獲得することができ、専制によってのみ維持することができる」とプラグマティックに判断し、「この専制主義によって国民統一を獲得し、それをつうじて将来の世代にもっと大きくてもっと高められた形態を持つ自由を確保しよう」というナショナリスティックな理想を目指していた。

(p.193)

だが、たとえ「プラグマティックな判断」とかカッコつけて言ったとしても、結局、状況を見て判断することは事大主義のことではないのか?

 

Question  功利主義プラグマティズムの違いは何かp.202。たぶん上のプラグマティズムの説明が部分的な回答となっていると思う。けど、よくわからない。功利主義の定義がされていないからである。

 

補論  リストは保守主義者かpp.210-219

リストは一方で保守主義的な側面があることは否定しないが、他方で革新的な政策をしていたこともあり当時の人は革新であるみなされていたことも事実である。どちらのリスト像が正しいのか。結局、リストは歴史主義を重んじていたということである。

 

第五章  国家理性と経済ナショナリズムpp.220-271

Section: 貿易の嫉妬pp.221-224
Section: 国家理性論の経済への展開pp.224-229
Section: マキャヴェリの政治経済学pp.229-233
Section: ジョバンニ・ボッテーロの『国家理性論』pp.233-239
Section: ボッテーロの卓見pp.239-245
Section: アントニオ・セラの『小論』pp.245-251
Section: 経済的プラグマティズムpp.251-266

 

三人のイタリア学者: マキャヴェリ・ボッテーロ・セラ
マキャヴェリ: 政治学的であり経済学的な指摘はほとんどない。政治的国家理性論を展開
ボッテーロ: 『国家理性論』経済的国家理性論を展開。政治的視点は凡庸だが。
セラ: 『鉱山がなくとも金銀が豊富な王国になるための要因について、特にナポリ王国を念頭にして論じる小論』1613年

リストはマキャヴェリとセラに言及している。だが、ボッテーロには言及していない。
シュンペーターは『経済分析の歴史』でセラを言及し評価している。
p.254ではセラはボッテーロより優れていると著者は評している。

 

 

終章  リスト追悼pp.272-285

Section: 経験と必要pp.273-276
Section: 経済自由主義の終焉? pp.276-284

 

これまでのまとめをする。そのあとにつらつら述べる。主流派経済学が主流なのはそれが正しいからではなく経済学の覇権イデオロギーに勝利したからであり、それにしたがっていれば出世の道も開けるから長い物には巻かれろとなりやすい。そして住む世界が違うのでどんなに批判しても聞いちゃくれない。さらに、たとえ現実世界の破壊を目の前で起こったとしても、自説を捨てることは容易ではない。なぜならそのことによって不安に陥ってしまうからである。

そう、自由貿易論も健全財政論も、イデオロギーなのである。(中略) いつの時代も、世界を支配するものはイデオロギー以外にはない。

p.282

 

自由貿易論や健全財政論が支配的であるのは、それらの理論が正しいからではない。それらを支える「世界観」が、学者、政治家、官僚といったエリートたちの主流派に広く共有されて「認識共同体」を形成し得たからである。

   主流派のエリートになるために必要なのは、正しい知識を学ぶことではない。主流派のエリートたちが共有する「世界観」を無批判に信じ、彼らの閉鎖的な「認識共同体」に迎え入れてもらうことである。彼らの「世界観」と合致しないような非主流派の説など忘れることだ。それが正しいか否かは、問題ではない。

p.281

 

「世界観」とは前・科学的であり、異なる「世界観」は互いに共役不可能である。「世界観」の間の競合は、論理や実証分析によって成否を決着することができないのである。したがって、いくら説得力のある論理や実証分析を積み重ねて批判しようが、自由貿易論や健全財政論が否定されることは、ほぼない。「世界観」が異なる者には、つまり住んでいる世界が違うものには何を言っても無駄なのだ。

p.282

 

現実世界の破壊がこれだけ進めば、経済自由主義に対する懐疑の念が高まり、主流派に対する批判者が力をもつようになり、そしてパラダイムの革命が起きそうなものである。そう思いたいところだが、しかし、そうはならない。

   なぜなら、..... 人々は既存の世界観が揺らぐことの不安に耐えられないからである。むしろ人々は、不安から逃れようとして、かえって既存の世界観により強くしがみつく。

pp.282-283

 

批判するだけなら簡単だと言うのは、まったくの誤りである。文字通り「命がけ」であるのだ。だが、希望の光はある。経済自由主義の終わりが来つつある。我々はその日が来るまで投げやりになることなく頑張ろうではないかと言って本書は終わる。

「批判するだけなら誰でもできる」などと嘯く者は、真の批判というものがどれだけ危険な実践であるかを知らないのだ。けだし、「危険なものは、既得権益ではなくて思想である」。

   しかし、希望がないわけではない。というのも、最近、エリートたちの間で、世界観の動揺から来る不安が、もはや隠しおおせないほどに嵩じているように見えるからである。経済自由主義の終焉の時が迫っているのかもしれない。

p.284

 

 

感想

  • まず、著者の半端ない読書量・知識量に毎回驚かされる。古典から最新論文まで知っていることに驚かざるを得ない。しばしば古典には精通しているがそれで時代が止まってしまっていて最新論文を知らないという専門家もいる*1。逆に、最新の結果は知っているが自分の分野の古典を知らなかったり歴史を知らない研究者もいる*2。そのような中で、著者は古今東西の学を知っているのである。

 

  • 偏見かもしれないが、行間から著者のナルシシズムを感じる。悪くいえば「俺ってこんなに知っててすげーだろ」的な雰囲気である。それが鼻につくといえばそうなのだが、彼の論は圧巻である。そのことは他の著作からでもわかる。それは認めざるを得ない。ナルシスト的雰囲気の著作はあまり好きではないので、読みたくないのだが、気分が乗ればもう少し読んでもいいのかなと思う。大著『富国と強兵』はいつか読んでみたいなと思う。

 

  • 本書の要点を知りたいならば第一章と終章だけで十分だと思う。時間があれば序章も読んでもいいが、それ以外は冗長である。もちろん著者の博学から得られる知識はたくさんある。それを期待してゆっくり読むこともいいかもしれないが、リストの経済思想という本書のタイトル通りのことを知りたいならば、そのぐらいで十分である。

 

  • ここで1つ別の本を参照してみよう。それは水野和夫の『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』である。この本ものちに書評する。そしてここには次のことが書かれていた*3。水野はダニ・ロドリックの『グローバリゼーション・パラドックス』に言及して、そこには「世界経済の政治的トリレンマ」が存在すると述べられているという。つまり、「ハイパーグローバリゼーション」「国家主権」「民主主義」のうち、3つ活かすことはできず、そのうちの2つが必ず矛盾してしまうという。したがって生き残る道は次の3つしかないとロドリックは言う。すなわち

(1)  ハイパーグローバリゼーション + 国家主権 (=新自由主義)
(2)  ハイパーグローバリゼーション + 民主主義 (=世界政府)
(3)  国家主権 + 民主主義 (=国民主権国家システム)  

である。

   ロドリックは(3)を支持、期待している。グローバリゼーションに歯止めをかけて国民主権国家システムのもとで国民経済を強化する方向に期待している。これはシュトレークやトッドと同じである。

   本書から容易に推測できる通り、おそらく中野剛志もこちらの方向だろう。つまり中野は(3)を支持しているように思われる。

だが、興味深いことに水野はロドリックの議論を否定的に参照している。つまり、(1)から(3)のどの選択肢も否定しているのである。代わりに中世に戻れと主張するのである。

この中野と水野の主張の相違はおもしろい。両者とも「いまの経済はダメだ」と現状認識は同じであるにも関わらず、その解決策や方向性はまったく異なっているのである。一度、両者の議論を聞いてみたいものだ。つまり両者とも非主流派であることは間違いないが、非主流派の中でも学派や考え方の違いがあり、そのあたりを論争も面白そうだなと思うからである。

 

  • 主流派経済学の批判は佐伯啓思----つまり西部一派----などでも見ているから慣れている。中野は最新の論文を引用して主流派経済学を理論的および実証的に批判しているのが印象的でありよい点である。要は中野はちゃんと根拠を示しているということであり、佐伯のようになんとなくで述べているわけではないということである*4。ただ、「主流派経済学がなぜかくも世界を牛耳っているのか、そして少数派の俺たち(中野)は無視され続けるのか」といった議論になると、怪しくなってくる。「パラダイムがどーのこーの」だの「世界観がどーのこーの」だの陰謀論的な議論である。一応、パラダイム論では競合した複数のパラダイム(例えば、熱学におけるフロギストン説と分子運動説)のそれぞれの研究者は共役不可能に陥るし、どちらが選ぶべきパラダイムであるかということが決定できないことは確かなのだけれども、結局最終的には1つのパラダイムに落ち着くし(例えば、熱学における分子運動説)、なぜ落ち着くかといえば、それはイデオロギー闘争の結果ではなく、そのパラダイムが正しいと思われた結果(つまりこれまでの実験をうまく説明できかつ予測も当たること)だからだと思うのですけれども....まぁ、パラダイム論は数年前に学んだきりでだいぶ忘れているから自分の理解が誤っているのかもしれないけれども。で、最後は「そんな絶望の中、俺はリストのように一人戦っているんだ」的な悲劇のヒーローヅラしていて苦笑してしまった。まぁ、頑張ってください.....。応援はしませんけれども。

別にもともと主流派は批判されていてそこから「行動経済学」や「実験経済学」や「進化経済学」などの新しい経済学が誕生し、その正当性が認められている(認められつつある)と思うのですけれども*5。1つ指摘できるのは、もし中野やリストの理論を「数学的モデル」として定式化できたならば主流派に対案として認められるかもしれないということである。つまり、経済理論として認められるためには最低限数学的モデルであるということが必要であるということである。逆に言えば、いくら小難しく歴史的に論を述べようとも、その理論が数学的でなければ受け付けられないのではないかということである。実際、第一章の議論からそうであることがわかる。もっとも、中野は経済における数学モデルの使用を「固定観念」として否定的に捉えている(たぶん全否定ではないと思う)。

 

経済学における数学の役割とは一体なんなのか-----この問題はとても難しいし、私には皆目わからない。今は、実証で適切に検証できれば数学の役割はそれでいいのかなと思っている。つまり計量経済や統計的因果推論*6ぐらいは認めているけれども、別に経済理論なんて必要ないんじゃないかなということである。

 

 

僕から以上

 

*1:誰?

*2:誰? 科学系の専門家には結構いる。というのも科学においては古典を学ぶ必要が必ずしもないからである。科学分野とその古典との関係については、実は本書のキーワードの一つであるパラダイムと関連があるのだが、それは置いておこう。

*3:水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀』pp.132-133

*4:「佐伯は主流派経済学を根拠も示さずになんとなく批判しているというのはどこからなのか?」と聞かれれば、評者も「なんとなく」である。ただ、佐伯の『経済学の犯罪』の箇所で「昔は経済が科学かどうか議論があったけれども、シカゴ学派が世界を牛耳って云々」というのがあった。そこには特に引用がなく、著者の思い出として語られていた。もしかしたら佐伯も主流派経済学をちゃんと批判しているのかもしれない。

*5:個人的には「社会選択理論」が一番興味がある。

*6:名前しか知りません! 何も知りません!! 前にかじったぐらいです!!!