こんにちは。
今回は書評第2弾ということで、コメンテーターでおなじみの齋藤孝先生の本を書こうと思います。
最初は『数学力は国語力』の書評を書きます。No.1
次の記事では『地アタマを鍛える知的勉強法』を書きます。No.2
齋藤先生の著書はこれまでにこれ以外に何冊か読みました。記憶が間違っていなければ、少なくとも次の4つです。『古典力』『考え方の教室』『アイディアの神が降りてくる「3」の思考法』『なぜ日本人は学ばなくなったのか』
なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書 1943)
- 作者: 齋藤孝
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/05/20
- メディア: 新書
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他にも図書館で文系のための理系読書術を読みましたし、先生が現代語訳された福澤諭吉の文明論之概略も途中までですが読みました。
齋藤先生は流行語にもなった『声に出して読みたい日本語』や三色ボールペン活用法などで有名です。先生は小学生からビジネスマン、教職を目指す学生、お年を召した方まで全年代の人たちに向けて精力的に(精力的すぎ!)に活動なさっています。 その活動は執筆活動にとどまらず、講演やテレビでのコメンテータなどさまざまです。執筆のテーマも勉強法や発想法から歴史や哲学、さらには井上陽水!までジャンルを問いません。こんな執筆活動を多忙の中、月一ペースで出版されているのですから、このかたはとんでもない方です。
.........とこんな感じで齋藤先生を持ち上げましたが、実は私はこの方をそれほど評価していません。典型的な「広く人から周知されているが、たいしたことをしていない無能な教授」と考えているからです*1。
齋藤先生は優しそうな風貌と声色で市井を見ていると思われるかもしれませんが、こいつは化けの皮を被った超エリート主義者です。所詮 自分が古典と思うものしか認めない「超エリート主義の教養老害」であると『古典力』を読んだときわかりました。
「退屈力」「上昇力」「質問力」「コメント力」「くすぶる力」「悩み力」「文脈力」「前向き力」「成熟力」「偏愛力」「雑談力」......
- はじめに
- 本書のまとめ
- 各章のまとめ
はじめに
経緯
本書『数学力は国語力』と『地アタマを鍛える知的勉強法』を読もうと思った経緯ですが、もともとは「数学的思考」について考えようと思っていていました。そこで調べていたら齋藤先生の『数学力は国語力』を見つけたので、それを読みました。もう一冊はついでです。
いまここで書評をする理由はさっさと終わらせて、新しい本を読みたいからです。
本書のまとめ
本書のまとめもクソも何もない。本書は齋藤が徒然なるままに数学と国語についてダラダラと書き綴ったエッセイである。ただそれだけである。暇つぶしにはいいのかもしれない。
まず、本書は適当に書いてある。根拠も適当であるが(それは齋藤の著作全てに言えることである)、書き方も適当である。例えば、引用は適当であるし、さらに具体的な巻数もちゃんと調べずに書くのである。
夢枕獏(ゆめまくらばく)さんの小説を岡野玲子(おかのれいこ)さんが漫画化して有名になった、安倍晴明(あべのせいめい)が登場する『陰陽師』という作品がありますが、その何巻目かに、陰陽を複雑にしていくと最後に五芒星(ごぼうせい)になるという話があって....
p.207
もちろん、文章も適当にあっちこっち行く。
本書のまとめを知りたいならばあとがきに書かれてある次の文章を読めばそれで十分である。
「論理的に考える」「論理的に話す」というテーマは、とても需要が多い。論理力の王者は数学であろうが、数学にまで踏み込んで論理力を鍛える、ということろまでは、なかなかいかない。これが多くの人の実情ではないか。
この本で一貫して訴えたのは、私たちが学んできた算数・数学の知識でも十分に活用できる、ということだ。論理力に悩む人、話にまとまりがないことに悩む人は、数学の埋蔵金にまず気づいてほしい。p.232(あとがきpp.232-237より)
数学は、国語にとって最良のテキストだ。数学のプロセスをすべて日本語で説明してみると、論理的な日本語力が鍛えられるのを感じる。
p.235
つまり或る種の「数学と国語の関係性・必要性」を本書で示そうとしているのである。だが、結局よくわからない。ダラダラと書かれているというのが正直な感想である。齋藤は「竹下登元首相を評した「言語明瞭、意味不明瞭」という見事なコメントがあったと思いますが、要するに、結局何を言っているのかがわからないような政治家的な言説のあり方」*2を批判して数学的思考を導入しろと言っているが、まさしく齋藤自身がそのような言説をしているのである。
次の考えは、かつて私が書評した深沢真太郎とほとんど同じである。
数学を復習しなくても、数学の記憶をセンスとして活用するだけでも、話し方や考え方がスッキリしてくる。
「簡潔に要点を述べる」という点では、数学の解答の書き方にまさるものはない。ただ数式を並べるイメージではなく、「何のためにこれをやるのか」をくっきり言葉で示しながら、秩序立てて表現する。
ゴールを見据えてすっきり組み立てる。
この「組み立て力」を私たちは、算数・数学を通して学んできたはずなのだ。これをふだん活用しないのは、もったいない。p.236
ただ、彼らを比べるならば、深沢の方がはるかにマシである。
各章のまとめ
以下では、次のように議論される。まず、各章から気になった文章を適宜引用し、コメントする。そのあと、特に気になった節を取り上げて、それを批判する。それらは座標と関数にかんする箇所である。
齋藤は座標の積極的利用を説く。だが、それは 行列でも代替可能ではないか、それで十分ではないかという指摘をする。
もうひとつ関数について批評する。齋藤は関数という考え方の重要性を指摘して、さまざまな「変換」の存在を指摘する。齋藤は惜しいところまで来ていたが、十分な考えではない。つまり関数的思考において重要なのは各々の「変換」ではなく、「変換」の間の関係つまり、「変換の変換」であることを指摘する。
オリエンテーション 目からうろこ/数学的モードチェンジのすすめpp.11-60
河合先生のような話し方をする人の話を聞いていますと、言葉というものが、論理上のポイントを指摘するという働きのほかに、感情を整える力も持っていて、二つは両立できるということが、実感としてよくわかります。これは、おそらく、国語と数学の二つの能力が、同時に働いているからではないでしょうか。
p.20(Section 河合隼雄先生の感情にやさしい話し方pp.17-20より)
Question 1: 要は話し方について言っているわけで、論理や数学や国語とは関係なくない?
Question 2: なぜ? その根拠は?
両方の要素がバランスよく混じり合って、無味乾燥な数式の羅列や、理論を説明するだけの無機質な解説は、できるだけ出てこないように配慮されている。
スタッフの頭の中には、愛敬(あいきょう)もなく数式を出すと視聴者の頭にシャッターが下りるという経験則があって、その状況を避けたいというきちんとした配慮のもとに番組がつくられているわけです。p.24(Section 「ドラマ仕立て」の意外な魅力pp.23-25)
Question: これホント? スタッフさんに聞いたの?
たとえば、微分というものは、変化率を狭めていくことによって、そこにおける傾きを示すものですけれども、それが何のために役立つんだという疑問には、たとえば加速度の求め方の話であるとか、要領を得た上手な説明があれば、文系の人でも数式なしに理解することができるわけです。
p.25
Question: じゃ、お前、やってみろよや。「どーして本を読まなくちゃいけないんですかー? それが何の役に立つのですか」を要領よく説明してみろや。どうせまともに説明できないくせによ。自分ができないくせに他人に要求すんじゃねーよ!
文学や社会科学なんて曖昧でわけがわからないと思っている理系の人でも、うまく説明してもらえると納得する。もやもやとしたものをクリアにとらえる文学的知性を、十分に面白いと思ってくれるわけですね。
そんな文系と理系の頭脳が互いにシャッターを下ろさずに混ざり合う状態、これを、できれば一人ひとりの人間の頭の中でも起きるようにしたいなと、私はいつも考えているわけです。p.26(Section 齋藤式「すごいよシート」の効用pp.25-27より)
Question: うまく説明するって、どーやって? 結局、説明の上手い下手の問題なのか?
Section 知・情・意と心・技をつなぐ身体という要素pp.27-31
藤原正彦また登場pp.27-28, p.30。情緒の話。意志の力。
ということで、私は、モードチェンジには身体的な力が必要だと考えて、「ハイタッチ・イングリッシュ」というものを提唱し、学生さんたちに英語の会話の前にまずハイタッチしてから開始してもらうことがあります。そうすると、ふつうに話すと日本語的な発想の英語になってしまう人たちも、立って拍手をしたり、ハイタッチして手をたたいたりしているうちに、意志のはっきりとしたモードの中に自然に入っていくということが起きます。そういう身体空間では、今まで20分、30分という時間を英語だけで話した経験がなかった学生でも、それなりに状況に耐えられることがわかりました。
p.35(Section ハイタッチ・イングリッシュ/理系と文系の水陸両用車が必要だpp.34-37より)
それ[引用者注: 英語で書かれた本]を音読しますと、さきほど言った論文の最初に命題や要約をつけるといった欧米の論理的な心のあり方が、スパッと心に入ってくる。
文系であれ理系であれ、世の中で生きていくのに大事な力の一つに、人前で臆せず話すことができるという能力があると思います。アメリカのオバマ大統領の演説の....全文を読んでみると、あるいは原文を飛ばして訳文で読んでも、知・情・意に不足はないし、論理的でかなりしっかりした文章だということがわかります。p.37(Section オバマ大統領の演説には論理に対する考え方の違いが表れているpp.37-40より)
Question: ホント? じゃあ、トランプもそう?
証明問題に含まれている様々な考え方を、ふつうの会話の中に活かすことは、たとえば古代ギリシャの人々にとっては極めて当然のことで、プラトンが創設したアカデメイアの入り口には「幾何学を知らぬ者はアカデメイアの門に入るべからず」と書かれていたほどでした。そこに文系や理系の区別はなかったはずですし、幾何の力が哲学を考える際の基本になっているところがありました。古代ギリシャの哲学者に限らず、近代の哲学に道をつけたデカルトも数学者でしたし、パスカルは数学者、物理学者であり、かつ思想家でしたし、ニュートンと同時期に活躍して彼とは独立に微積分法を発見したライプニッツなども、数学者であると同時に哲学者でした。
p.55(Section 数学はソフィストの矛盾を暴くpp.54-58より)
Comment: 紋切り型やな。所詮はその程度にしか考えていないんだよ。
みんなの中に既にある算数感覚を掘り起こす作業をすれば十分足りると思うし、公の場に生じる現実の問題に、かつて小学校や中学校で学んだ算数や数学の技法をあてはめて考えていくという発想に馴染みさえすれば、国会の由々しき状態はもちろん、様々な場所で私たちを困惑させているいろいろな問題を、かなりクリアに越えることができるのではないかと思っています。
p.59(Section 身についた算数感覚を掘り起こす作業pp.58-60
より)
Question: もちろん根拠はない。ただのこいつの願望である。
第一講: 数学的な問題整理/空白を埋める新発想の産婆術pp.61-105
この辺は真面目にまとめた。第一講では主に3つの話題に触れている。
(1): ベン図
Section 「ベン図」はベンリpp.62-66
Section 身体はモノかと考えてみる pp.67-70
これはベン図の応用例と言うべき。
出合ったことのない発想だから積み重ねが必要なかったという事情もあって、それまでは算数が苦手だった子たちを含め、「集合」と聞くとみんなが喜び、クラス全体で元気に取り組んだ覚えがあります。
p.69
Comment: 要は齋藤自身の経験です。
Section 整理して混乱をただすpp.71-75
これもベン図の応用例・有効性の議論。
Section 概念図がもたらす数学的な「すっきり感」pp.75-77
これもベン図の応用例。
心理社会学科は当初、二つの領域が重なる「かつ」の部分を重視してつくった学科です。これに対し、心理学もやります、社会学もやります、一つの店で和洋折衷で両方食べることができますよという、まるであんパンのように両方を足し算してつくるものは、「または」の発想ということになるのでしょうが、この場合は、それと違って二つを統合して一つにするわけですから、その観点を活かすには、どちらの領域もできる先生が必要だ、と話が具体的に進みました。
p.75
Comment: ここでの「かつ」は、統合を意味している。
(2): 未知数及び方程式
Section 食塩水問題と、xを埋める文章題の面白さpp.78-80
これは未知数の考え方および方程式の考え方に言及している。
Section 信念を視覚化する方程式pp.81-84
未知数の考え方や方程式の考え方の続きや応用例。
Section 未知数を数式のつながりの中に放り込めpp.85-87
未知数の考え方の応用例。
(3): 因数分解
Section 因数分解/「括る」工夫の素晴らしさpp.87-90
因数分解の反対が、式の展開です。整理したボックスから中身を出して掛け算してバラバラにし、足し算と引き算の形に戻してしまう作業ですが、これは面倒臭くて快感を感じることがなく、私はあまり好きではありませんでした。すべてが、だらだらと淀んでしまうという感じがしたわけです。
因数分解が気持ちがいいのは、要するにものごとをきゅっきゅっとしまった形にまとめ上げていくからだと思います。共通のもので括るというときの「括る」という動詞が、私たちの気持ちを、どこかで快く刺激するのではないでしょうか。
ですから、「共通のもので括る」という誰にでもある感覚を、何かの形で私たちの日常生活の中にも持ち込めないかということが、この節の課題になります。p.89
Question: この感覚が齋藤個人のものなのか、それとも一般的なのか。かなり微妙に書かれている。こんな曖昧な文章書いているやつが「数学の証明のように明晰に書きましょう」とかほざいているんだから噴飯ものだよ。
Section 共通の要素をどうまとめるかpp.90-93
結婚を例に因数分解の考えを応用する。
結婚生活という言葉がある通り、結婚は生活のすべての局面に多大な影響を及ぼしますから、因数分解の因数のように、ほかのすべての要素に含まれる共通因子になっていないといけないわけです。結婚をど真ん中に括り出しておいて、その上でほかの要素について考えていかなければいけないということです。
p.91
Comment: 意味不明。
Section カオスの魅力と整理の効用をごちゃごちゃにするなpp.94-97
何とも言えない箇所。整理も大切だけどもカオスも大事みたいなこと。
Section 条件を整理する/「絶対に譲れないワン、ツー、スリー」の論理pp.97-100
要は優先順位をちゃんとしろとのことを言っている。何とも言えない箇所。たぶん、因数分解の関係だと思う。
Section 安心のキーポイント/自己客観とオルナタティブの準備pp.100-103
交渉術の続きと数学的なことの一つと著者が考えている「紙に書き出す」ということ。あと図に書く。相関図や関係図や図解。
Section 俯瞰と抽出のスリリングな関係pp.103-105
文学的なものと数学的なものの関係。時間的なものと空間的なもの。
第二講: 関数的な構想力/見通すために欠かせない二つの「f」pp.106-130
Section 音楽としての関数体験pp.107-112
関数の例。これは正直音楽の知識や紹介されている音楽を知らないので何とも言えないがかなりいいことを言っていると思う。
Section fは成長し、進化するpp.112-116
現実にある関数のいくつかの例。要素より全体像が大事。
Section 変換装置として働く画家たちの個性pp.116-120
関数の例。画家、異業種交流会、羽生善治変換。
Section 世の中を関数で見る智恵pp.121-123
ここはのちに議論する(ある節についての関数についてを参照)。
Section ベクトルと座標軸pp.123-127
ここものちに議論する(ある節についての座標についてを参照)。
Section 数学的なクリエイティビティはなぜ育たないのかpp.128-129
教育批判とその解決策。
そうではなくて、たとえば座標軸を考えたデカルトの気持ちに戻ってみようとか、彼の仕事が当時の画期的なアイデアとしていかに驚きに満ちたものだったのか思い起こしてみようとか、あるいは自分でも異次元の世界をつくりたいなどと考えていくと、第一象限、第二象限、第三象限、第四象限のそれぞれに当てはまるものは何かということになって、座標軸を使うと世の中の事象がずいぶんわかりやすくなることが理解でき、いっそワザにして使ってみようというような考えも出てきます。そうなってはじめて、私たちがさんざんやってきた座標軸の立て方が、活きてくるのではないでしょうか。
p.129
Comment: 教育批判とその解決策。ただのこいつの願望。座標の有効性を誤っている。座標の発想はそのようなものではない。象限をわけることが重要ではない(のちの議論を参照)。
Section 数学と数学的発想の将来pp.129-130
教育批判の続き。
第三講: 試験を離れた数学的発想/直観、ひらめき、別解、補助線pp.131-174
Section 重みづけと比例pp.132-134
素因数分解。因数分解の応用・発展version。重みづけをしろとのこと。
Section 整理と確認pp.134-137
暗黙知について。および逆算(確かめの思考法)の有効性について
Section 着地点から逆に考えるpp.137-140
確かめについて。着地点から考える。
この「確かめの思考法」が、日常生活にある様々なまやかしの論理にひっからないために、すごく必要なんだと思います。何かを企画する時でも、人間はいいことばかり考えてしまいがちで、最後の結論だけにとらわれてしまうけれども、想定したプロセスの中にその結論が出てくる保証はないし、何かほかの妥当な可能性があるんじゃないかと常に考えてみないといけません。
p.140
Question: 「確かめの思考」と結論にとらわれず常に疑い、別の可能性を考えることのつながり(論理展開)がわからない。
Section 冷めた確率的な世界を大事にしようpp.140-143
期待値という文系的な用語。例: 結婚。
Section 統計的な思考が失敗を減らすpp.143-146
大東亜戦争のとき、日本軍には統計的な思考がなかった。樹形図の考え。
私は、会議の時などに、この樹形図をホワイトボードに書いて、参加者みんなで見ながら話をするといいと思っています。自分でよく使う方法は、たとえばあることがらをやるかやらないかを決めるという問題が持ち上がったとして、やらない場合はどんなことが想定できるのか、やった場合にはどうなのかということを網羅的に列挙して可視化していく方法です。すると、それだけで参加者の判断がスピードアップする。
p.145
樹形図にある、考えられる未来の展開を漏れなく記述し、あり得る可能性を図の形で一覧できるというところが、数学のよさです。議論したり本を読んだりする場合(ここまでp.145)」「(ここからp.146)は、あるていどの持続が必要になりますから、その意味では時間に支配されてしまって、ある秩序に従って一定の手順を踏まないと先のことがわかりません。これに対し、樹形図や統計的な図表などは、時間に支配されずに、一覧してすぐに理解することができるわけですね。
pp.145-146
Comment: 現実問題において漏れなく未来の出来事を想定することは不可能である。
Section 国語と数学で両側から挟み撃ちpp.146-149
文章p.144を引用。pp.148-149での量子力学の例は多分間違え。または読者をミスリードする。
Section ドラマ好きな人間の願望の世界についてpp.149-151
統計的なデータを使え。個々の凶悪な犯罪のイメージが強く残る、根拠はない。
人の心にはドラマ的な強い印象を残すエピソードのほうが、残念ながら長く残ります。小説がこんなに読まれ続けることの理由の一つもそうですし、私たちの心というものは、もともと物語に向くようにできています。物語を好む本質は神話的な世界からこの方、ずっと変わっていませんし、そういう視点で見ると、典型的な物語の形も、楔形文字の時代から原形は変わっていません。
p.150
Question: 理由・根拠は?
Section 概算の効用/見る前に飛ぶなpp.151-155
「下手な鉄砲も数打てば当たる」根拠は薄弱。人は物語を見がち。概算が必要。
概算によって当たりをつけない人は、桁を違えたまま話をしてしまったり、現実には一緒にできないことをゴチャゴチャにしてものごとを進めたり、信じられないことをすることがあります。起業家といわれるビジネスに成功した初代の経営者の方の足跡を見ていますと、昔は商業高校出の方がかなりいらっしゃって、多くが算盤の訓練を受けています。彼らが口を揃えて言うのが、算盤には概算が速くなって間違いが減る効用があるということです。人と話していても相手よりも速く概算ができるので、この話は危ないなとか、あるいはいけそうだという判断がその場であるていどできるというのです。
p.152
Question: 根拠は相関関係じゃないの?
考えた計画の当否を判断する材料という点では、仔細な計算よりも概算のほうがリアルだし、正しいことが多いのです。
p.155
Question: どうして?
Section ポイントに目をつけないと、すべてが台無しになるpp.155-158
確率には冷静な視点を提供する。
Section 直観を働かせてざっくりつかめpp.159-164
本質的なものをざっくりつかむことが大事。
Section 視点をずらして得る「ひらめき」という面白さpp.165-170
数学でいうところの別解も大切。
Section ひらめきのアプローチを見直そうpp.171-174
ひらめきを自分の味方にする。
一方で数学には、「しらみつぶし」の良さもあります。「行き止まり」にはしっかり札を立てるのが、数学的思考です。しかし、もう考えても仕方がないとわかったことに拘泥し続けるという割り切りの悪い人もいます。
p.172
Question: 数学においてはそのようなことはできるし、証明できる。だが、現実は難しい。しらみつぶしは原理的にはできないから、拘泥することもある。
第四講: 数学的な発想の展開/国語の力と結びつけるためにpp.175-220
Section 古代ギリシャ人の「すごみ」/定義と定理pp.176-179
定義と定理の重要性を下村寅太郎の議論から指摘する。
Section 日常における定義の効用とはpp.179-183
「定義力」p.180。
Section コミュニケーションを助ける整数と図形(対角線)感覚pp.183-189
議論するとき、人数という量によって話す質が変わってくる。さらに、座り方も重要とのこと。
Section 言葉は対角線にそって動くpp.189-191
向かい合う人たちを意識して話すこと。
Section 失敗学の大家が教えてくれることpp.191-194
アバウト主義がいいとのこと。
ですから大事なとこ(ここまでp.192)」「(ここからp.193)ろをはずさないとか、桁違いのようなとんでもない間違いはしないという能力は、小さな桁に至るまで緻密な計算をする能力とは別のものだし、畑村さんがアバウト主義計算法と呼ぶ計算に対する考え方が、実際も正しいのだと私は思いますね。人生には仕事とか結婚とか、桁違いに大きな重要事がありますが、それを簡単にやめるとか、あるいは今は旅行がしたいから延期するとか、それはそれでいいのですが、少なくとも結婚の位どりの大きさくらいはわかった上でやったほうがいいよと思います。
pp.192-193
Comment: 計算の話(これは純粋な算数の話)から急に実生活のことの話に移っている。
Section 割り算がきちんとできたならpp.194-196
割り算の考え方は重要。単位時間あたりで考えることが大事。
Section イチローが打率ではなく安打数にこだわる理由pp.197-200
イチローは安打数という単純な指標にこだわる子どもっぽさがある(それを肯定的に評価しているが)p.198
齋藤は草野球をやっていた(p.199)。
Section 世界には不思議な数式の力が働いているpp.200-203
物理を介して数学は現実に現れてくる。
Section 古代ギリシャ人には理系・文系の区別がなかったpp.203-209
節のことそのまま。
それ[引用者注: ピタゴラス的関係の一番いいところ]があると、数学力と国語力の類似点といいますか、要するに、言語による議論とか、感情のようなややこしいものを国語力でつかまえることと、このもやもやとした世界を数学的にとらえることの間に、そんなに大きな違いはないと感じることができると思います。
p.204
Comment: てめーの願望。「〜と思う。」根拠はない。
Section 似非科学にだまされないためにpp.209-212
オウム真理教のような似非科学にだまされるなということ。
直観は数学的なものだという感じがしますが、身体作法になるとどうなんでしょう。アラビア算などでは指を使うようですが、人間の指が10本でなければ、たぶん十進法もなかったんでしょう。そういう意味では、算数の基本のところにも、やはり身体感覚があるのかもしれません。
p.211
Comment: つまらない感想。
Section 解き方を知っていても現実はわからないpp.212-215
形式的な式を知っていても、それだけでは意味ない。
Section 身体と数字、身体の算数pp.215-218
役者さんも舞台の図面は見ているはずです。ですから、どんな舞台なのかということは数字や情報として入ってはいるのでしょうが、現場にいけば、考えたこともなかったあたらしいことが見つかるということになるのだと思います。
p.216
Comment(p.216): 数字からイメージすること。数字で表されたデータから作られた見取図から完成品を想像すること。
たとえば、100メートルを走ってみたら何秒かかったかということが0.1や0.01の単位で微妙にわかるようになればなるほど、たぶん記録もよくなるんでしょうね。つまり、記録に表れる走力は、その選手が持っている時間的な感性のあり方とも関係があるんだと思います。
p.218
Comment(p.218): よく言えばアイディア、普通に言えば根拠のない空想。
Section 同じ轍を踏まないためにpp.218-220
補講: 数学は哲学であるpp.221-231
各節のまとめすらめんどくさくなったから、引用してそれにコメントを加える。
つまり、純粋数学によって、多くのふつうの人たちが、天才の直観を、自分の階段をのぼりながら、怒涛の勢いで手に入れることができるようになったのです。
p.224(Section 実学から独立した数学の論理が、哲学を生み科学を生んだpp.222-224より)
Comment(pp.222-224): 天才の業績を凡人にも使えるように整備すること。マニュアル化。齋藤の言葉で言えば、「ワザ化」。これは数学や科学において決定的に大事な過程である。
優れた経営者は単純な論理的緻密さだけでは生きていません。彼らはもっと包括的な目で現実を感じ取り、世の中の流れや行き先を、かなり動物的な直感で把握しています。そういう人のほうが、AがBでBがCなら、CはAと同じじゃないかという単純な論理で生きている人より、はるかにリスクが少ないからです。
p.231(Section 「ずれること」があると、学ぶことにも意味があるpp.229-231より)
Question(p.231): 根拠は? ない。
あとがきpp.232-237
最初に引用したので省略。
ある節について
以下では第二講の節 Section ベクトルと座標軸とSection 世の中を関数で見る智恵を議論する。
座標についてSection ベクトルと座標軸pp.123-127
この節で齋藤は座標の重要性を主張している。曰く、四象限を利用して視覚的にわかりやすく表示できるデカルト座標はすごいとのことである。そしてそれを数学だけにとどめておくことはもったいない、日常生活にも使おうと言う。さらに、このデカルトの考え方のすごさやそれの日常生活への応用を教えない先生はダメだと主張するのである。
二次元の座標に関しての使い方は例えば次のようである。
座標軸を立てるというデカルトの考え方はどうでしょうか。これもすごい発想でしょう。xとyの軸をともかく立ててしまい、軸によって区切られた四つの象限の中で、様々なことを表現しようとする。人間はこの四種類にわかれるとか、性格はこの四種類にわかれるとか、あるいはマーケットはこの四種類にわかれるといったように、様々なことを簡潔に整理することができるわけです。
pp.124-125
さらに、自身でもくだらないと認めながらも卑近な例で座標の考えを適応している。
少々くだらない例だが、先日テレビでお笑い芸人が「スケべと変態は違うんです! 自分はスケベだけど変態じゃない。でも彼はスケベじゃないけど変態なんです」と言っているのを聞いて、すぐにタテ軸にスケベ軸、ヨコ軸に変態軸を立ててみた。すると、第一象限には「スケベかつ変態」、第二象限には「スケベだが変態ではない」、第四象限には「変態だがスケベではない」が当てはまる。
p.233
このようにして齋藤は座標の重要性とその応用を主張している。だが、齋藤が示している座標の使い方は、何もデカルト座標でなくても2×2行列でも可能である。そちらの方がむしろより便利ではないのか? 仮に、三次元の座標ならば行列では表すことはできないが、二次元の場合のみしか使わないのならば 行列事足りて、座標を使う必要はない。
実際、齋藤は二次元の座標のみを主眼においていて、三次元の座標をむしろ拒否している。
ただし、これが三次元の座標軸になると、かなり難しくなります。xとyにzが加わると、図としては描けたとしても、頭の中にクリアなイメージを構築できないのです。だから、二次元の座標軸を何個もつくるといいのでしょうね。
p.126
それならば、なぜ座標にこだわるのか? 座標でなければならないメリットとは何か?
もっとも、この問いに対する答えは次の2つが考えられる。一つは齋藤が行列をただ単純に知らないか、詳しくないかということである。もう一つは行列は知っていて、その上で座標の有効性を認めていることである。その有効性とは、行列は4パターンしか表せられないのに対して、座標は4パターン以外の中間的なパターンも表すことができるということである。つまり、行列は非連続しか使えないが、座標は連続的に表すことができるということである。もちろん、実際は上の例を見ても明らかなように4パターンしか使わないのだが、座標は視覚的に連続であるからそちらのほうがよりいいという考えである。
齋藤がこのあたりをどのように考えているのか気になる。
齋藤はデカルト座標を使って、その度にデカルトに感謝を捧げるのだそうだ。
こうして図化してみると、いよいよアホ感が増幅されるが、こんなアホなテーマを座標軸として図化できた時、「数学を使っている」という実感を私は得る。そして、座標軸の生みの親のデカルト先生との縁を感じ、感謝をささげるのだ。
p.233
デカルトに勝手に感謝を捧げるのは一向に構わない。さらに座標軸がデカルトの発明というのも正しくない(フェルマーやそれ以前のパリ学派など)。その辺は百歩譲っても、見逃せない点がある。それはデカルト座標の本質がだが、「軸によって区切られた四つの象限の中で、様々なことを表現しようとする」と考えていることである。それは完全なる誤りである。
四象限に分けることは全くもって本質的ではない。デカルト座標の本質は、「デカルト座標を介することによって、代数と幾何を1対1に対応づけることができる」ということである。つまり、座標を導入することによって、や や などの代数方程式が、「点」や「直線」や「円」といった幾何学的図形と対応しているということである。そしてそれによって、「連立方程式を解く」ということは「直線の交点を求める」ということと等しく、「連立方程式の解」とは「直線の交点」であることに等しいのである。この座標を介することによる代数と幾何の翻訳こそがデカルト座標の本質なのである。四象限うんたらの話は全くもって本質ではない。このことははっきりと反論する(だって、「本質的なことをざっくりつかむ」ことは「大切」なんだろ? そしてそれが「数学的な考え方全般」なんだろ? p.159)。
関数についてSection 世の中を関数で見る智恵pp.121-123
齋藤は第二章の前半で関数について解説している。関数という概念の重要性を指摘している。それは尤もである。そしてこの節ではその応用例が示されている。ここで斎藤は関数を「変換」と見なしている。
変換の例として「自宅の改築」という例を出している。自宅には自分と自分の両親が住んでいるとする。そのとき、どのように改築すべきか。自分はデザイン性のある家へと「変換」した。だが、それは両親にとってはよくない「変換」かもしれない。両親にとっての適切な「変換」とはバリアフリーであったかもしれないのである。
自分は元気である。したがって自宅を改築するにあたってデザイン性に優れた機能性に富んだ家をつくった。ところが、一緒に暮らしている80代や90代の親にとっては、デザイン性は優れているかもしれないが、暮らしにくいということが起こり得ます。そんなことになるのは、自分たち用の変換にとらわれて、高齢者用の変換式がなかったからです。ところが、仮に高齢者の身体性を優先する変換式に配慮して、思い切ってそれに合わせたつくり方をしてみると、ここはスロープがいいとか、このドアは無駄かもしれないといったことが次々に出てくる*3。
図式的に表すと次のようになる。
さて、評者は齋藤のこのような具体例を示したことを評価する。視点も悪くない。だが、決定的なことが欠けている。それは という関数のみに注目して終わっていることである。決定的に重要なのは、それらの関数の間の関係である。つまり、「変換の変換」または「関数の関数」こそが重要なのである。
別の言葉で言えば、齋藤は「一階の抽象」で終わっているのである。数学において決定的に重要なのはその抽象をさらに抽象する「抽象からの抽象」である。齋藤にはこの視点が欠けているのである。
この例で言うならば、自分にとっての最適な家の変換式 と両親にとってのそれ との間の変換式 である。それこそが重要なのである。一方ではデザイン性にも優れていて、しかし他方では住みやすさも配慮されている、そのようなことを可能とする変換式である*4。
このようなアイディアは自然変換に通じる。
まとめると大切なのは変換の変換である。つまり、があったときのそれらの関係こそが重要であるということである。齋藤にはその考えがなかった。それは彼の数学学習の浅薄さからなのかどうか、それはわからない。アイディアはよかったがまだまだであった。今後の齋藤の思考の深化を期待する。
*1:ある人が有名であるのと、その人が優秀なのかは別なのですね。読書をする一つの理由はこれです。つまり、有名な教授やコメンテータの本を読んで、その人がものごとをどのように考えているか知るために本を読むのです。有名な先生やコメンテータだったとしても、たいしたことない人たちが多いことがわかります。有名でかつ優秀な方はよほどいませんね。下手したら有名と優秀は負の相関関係があるのかもしれません。
*2:正確な引用ページはわからない。というのも急にiPadで本書を見ることができなくなったためである。もう一度ダウンロードすれば見られるが、それはめんどくさい。ただ、iPhoneでは見ることができて「Section 身についた算数感覚を掘り起こす作業」に書かれてある。
*3:こちらも正確な引用ページはわからない。
*4:実際あるかどうかは知らない。なかなか難しいと思う。