疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#1: 萱野稔人著『国家とはなにか』『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪か』

 こんにちは。どうも僕です。

今回は初めて本の感想を書きたいと思います。うまくいくかどうかわかりませんが、頑張ってみます。あと、長文です。

 

 

初回の本はコメンテーターでも有名な萱野稔人先生の処女作『国家とはなにか』とその姉妹編とも言うべき『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪か』です。

 

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

 

 

 

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書)

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書)

 

 

 

 はじめに

正直、読書感想の最初を飾るのが、この著作ということに、後悔しています。やはり、私の魂が揺さぶられたすばらしい名著を書きたかったです。もちろん時間があれば書きますとも!しかしそうではなく萱野先生のを一番に書いてしまいました。 これは忸怩たる思い、断腸の思いです。

 

どうしてこれが一番最初なのか、その理由は特にはありません。もともとは最初の読書感想は私の人生に決定的に影響を与えた本を紹介して、その後に、現代本を書こうと思っていました。しかし、そのためにはまた読み返したり、考察をまとめなきゃならなかったりして結構準備が必要であり、結局準備が進んでいませんでした。そんなとき最近萱野先生に興味を持ったので、これらの本を買いました。といっても軽く読む程度の予定で、もともとは読んだら捨てるか売るかどちらかを考えていました。

ところが先日私がこれらの本を読んでいるときに、知り合いがもし読み終わったらそれらを貸してくれと言われました。ですので、さっさとこれらの本を読みきって、それで読書感想をまとめようと思いました。パソコンにその原稿を書くんだったら、いっその事ついでにブログにも書こうかなと。経緯はそんな感じです。

 

 

感想 

評価

『国家とはなにか』の内容は難しかったですが丁寧に書かれてあったので最後まで読むことができました。これは萱野先生がちゃんと内容を理解していることの証拠でしょう。そこはとてもよかったです。星は4つぐらいですかね。もちろんわからなかったところもありますが、もともと流し読みで深く読むためのものではなかったので、なんとなく理解できたぐらいの感じでいいのかなといった感じです。

ナショナリズムは悪か』のほうが読みやすかったです。ですので、もし萱野先生の著作に興味が持ったならばそちらを一読することをお勧めします。『国家とはなにか』で書かれてあるところといくつか重複するところがそれにはあります。

 

まとめると一方で『国家とはなにか』はどちらかというと国家についての理論編といったもので、他方で『ナショナリズムは悪か』はその理論の実践編・応用編といったものだと思います。

 

悪いところ

ところで内容はわかりやすくていいのですが......書き方がとても悪いです。良くいえば、独特です。それは改行の多用とひらがな表記と漢字表記の意味不明な併用です。

以前いくつか萱野先生の文章を読んだことがあるのですが(おそらく『成長なき時代のナショナリズム』かと思います)、そのときから改行の多さは気になっていました。基本的には短めに改行されます。ときには一文書いて改行、また一文書いて改行それが何回も続くこともあります。

(改行)   では、ネーションに限っていえば、それを「想像の共同体」として批判することは妥当だろうか。

(改行)   たしかに、ネーションはアンダーソンの言うとおり「想像の共同体」である。事実、ネーションにおいては、会ったことも話したこともない人たちでも同じ共同体に属すると多くの人が思っている。

(改行)   しかし、それを「想像の共同体」だからという理由で批判することは妥当ではない。

(改行)   なぜか。

(改行)   それはネーションだけが「想像の共同体」ではないからである。

(改行)   まず、広い意味でいえば、あらゆる共同体は想像的なものである。........(以下省略)

 

 

『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪か』p.56

 

 

不必要な改行にページ数を水増ししてるんじゃないかと勘ぐってしまいたくなります。それはまるで小・中学生がいやいや読書感想文を書かされたときに、指定のページ数まで達するために内容のない感想文に対してたくさんの改行をするかのようです。

 

 

改行もさることながら、より酷いのはひらがなと漢字の併用です。それはある言葉に対しては、それが簡単か難しいか如何に関わらず、一般的には漢字で書かれるところをひらがなで書くことです。どうしてあえてひらがなを使うのか理解に苦しみます。意味不明です。もっとも、その規則が統一的に使われているならば、ここまでイラつかなくて済むと思います。しかしさらに悪いことに、その使用方法には統一的な解釈ができないほどの不明瞭さがあります。以下にまとめたのでそれをご覧ください。百聞は一見に如かずです。

(1): アイマイ

p.5: 曖昧
p.9: あいまい

 

(2):   ツヨイ

p.12: つよい
p.13: 強い

 

(3): タガイニ

p.70, p.78, p.80, p.250: 互いに
p.108, p.267: たがいに

 

(4): マモル

p.29: まもる
p.205, p.209: 守る

 

(5): ハタラキ

p.44, p.248, p.267: はたらき
p.223: 働き

 

(6): ベツノ

p.247: 別の
p.267: べつの

 

(7): ツギノ

p.31, p.44, p.63: つぎの
p.35, p.37: 次の

 

 

すべて『国家とはなにか』より

 

 

一方では一見するとこれらひらがなと漢字の区別は、筆者なりのこだわりのもとに、意識的に行われているのではないかと、推測できます。というのも、p.111では「ツギノ」が使われていますが、前半では「ホッブズは両者をつぎのように説明している。」と書かれて、ホッブズを引用した後、後半では「両者の違いは、次のようにまとめられるだろう。 」と書かれているからです。

しかし、他方ではそのような区別は単なる変換ミス・ケアレスミスで筆者には特別の意味はないのではないかとも思われる箇所があります。それは「ベツノ」の書き方であって、ある箇所では「べつの次元」(p.266)とひらがなで書いてあるのにも関わらず、別の箇所では「別の次元」(p.20, p.275)と漢字で書いています*1

 

ナショナリズムは悪か』では、これほどの酷さはありません。まだ、統一的に書かれていると思います。この書き方の良さもこちらの本を勧める理由の一つです。

 

ここで誤解を生じさせないために付言しますと、私は物書きの人に対してある程度の書き方の自由を認める立場です。特に、哲学者の著作を読んできた私からですと、その哲学者の考えていることとそれを表現する書き方には多かれ少なかれ関係があると感覚的に理解しているからです。たとえば、ニーチェの思想と彼の散文形式とは切っても切れない関係があると直感的に理解できます。どのように関係があるのかは、もちろん、まったくわかりませんが。

ですので、ある程度改行が多くても、また通常は漢字で書くのが一般的にも関わらず、ひらがなで書かれていても特に反対しません。しかし、だからこそ、私は「この人はどうしてここに改行を入れたのか」とか「どうしてこの言葉をひらがなで書いたのか」と細かい部分に注目します。そのような細部に筆者の考えやニュアンスといったものが表現されていると考えるからです。にもかかわらず、そのような不統一な書き方をされると、読むのが難しくなって、最終的には読むのを諦めるようなります。

つまり、私が言いたいことは勝手にたくさんの改行をしたりひらがなを多用するのは別に構わないけれども、するのならば統一的に矛盾なく書け----バラバラに書かれると読み手としてはイラつくから----ということです。

 

もしかしたら、これは著者の萱野先生の責任ではないのかもしれません。というのも著者が不意に書き方を間違えることぐらいはあるでしょうから。長文を書くと以前書いた言葉がひらがななのか漢字なのか忘れるということはありうるでしょうから。これはそうではなく編集者の責任かもしれません。編集者は以文社の前瀬宗佑という奴です(p.282: あとがき)。少なくともこいつは文章をもらったときに読んでこの書き方について指摘しなかったのでしょうか*2。一方では『ナショナリズムは悪か』の方ではそこまで酷さはなくばらつきもなかったと思います。最後の方を見ると編集協力は連結社の斎藤哲也という人で校閲は大河原晶子という人です。

 

 

さて、内容以外のことはこれ以上言うのをやめましょう。次からは『国家とはなにか』の内容や感想を書きたいと思います。

 

 

内容の要約 

総論 

本書『国家とはなにか』は国家について哲学的に考察したものである。萱野はドゥルーズ=ガタリの有名な言葉「より厳密に言うなら、哲学は、概念を創造することを本領とする学問分野である。」(p.6)----しかし評者にとってみれば理解不能な----を引き合いにして、本書で萱野は「国家を概念的にとらえることを目指している」(p.6)。萱野はウェーバーにはじまりベンヤミン、シュミット、フーコードゥルーズ=ガタリデリダ、バリバールなどの文献を丁寧に読解しながら国家について考察をおこなっている。

 

本書はイントロダクションを除けば全部で7章ある。そこでは二部構成となっている。

前半の第1章〜第3章では国家の存在論的・理論的考察をおこなわれている。そこではまず、第1章でウェーバーの国家の定義を引き合いに国家の概念を議論する。続く第2章と第3章では、国家の定義の中心概念である「暴力」について議論される。第2章では暴力の組織化を論じ、暴力の機能がいかにして秩序や支配や権力をつくるのかが議論される。第3章では暴力と富が議論され、国家が暴力を背景に富を奪いみずからのものとして(富の我有化)、それをもとにみずからの暴力を強化・蓄積することがどのようになっているのかが議論される。

後半の第5章〜第7章では国家の歴史的・系譜学的考察がおこなわれている。第5章では主権国家体制がどのように成立されたかを議論し、第6章では国民国家の形成とナショナリズムが議論されている。最終章の第7章では国家と資本主義の深い関係が考察されていて、そこではグローバリゼーションが国家を消滅するといった言説を、これまでの考察から否定している。

間の章である第4章は、少し他の章とは趣が異なり、国家を考察するための方法論が議論されている。ここでは特にこれまで思想界隈で議論されていた「国家=フィクション」論を批判している。

 

筆者が言うだけあって、たくさんの概念が本書では登場する。国家、国民、国民国家、暴力、権力、暴力の合法性、暴力の正当性、暴力の正統性などなど。ともすればたくさんの概念の登場に読者は混乱して議論に付いてくことができなくなってしまう恐れがある。しかし、筆者はそれら概念を一つ一つ丁寧にとりあげて、そのあとでそれぞれの概念同士の関係性を議論する。このことによって読者は筆者の議論に十分に付いてくることが可能であり、議論を追うごとに国家にまつわる概念がクリアになってくることだろう。

 

各論

第1章: 国家の概念規定

はじめに萱野は国家を考察するうえでウェーバーの国家の定義を引用する。 ウェーバーの国家の定義は次のものである(これは孫引きである)。

国家とは、ある一定の領域内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行使の独占(実効的に)要求する人間共同体である。

 

『国家とはなにか』p.12 (強調はウェーバーのもの)

そして、萱野はこの定義を丁寧に解説する。

つまり、

(1): 正当な物理的暴力行使の独占という箇所について

(2): 実効的に要求するという箇所について

(3): ある一定の領域の内部でという箇所について

(4): 人間共同体という箇所について

というのをそれぞれ解説する。

 

すべてを述べるのは紙幅の都合上やめるが、(2)では次のことが述べられていた。暴力を実行的に要求するとは最も強い暴力が必要ということである。

とするならば、国家の暴力の正当性をささえるのは、結局のところその暴力が社会のなかでもっとも強いという事態だということになるのではないか。

 

『国家とはなにか』p.13

 

そして、萱野はこの国家の定義から議論を進める。政治団体(暴力団やマフィア)と国家の違いは何か。なぜ国家だけがみずからの行使する暴力を正当なものとして認められるのか。なぜ国家は、暴力を行使しつつ、それを合法的なものとして決定できるのか。国家はみずからの暴力をどのように正当化するのだろうか。

国家の暴力の合法性について萱野はこのように述べている。

より強い暴力が、その優位性にもとづいて法を措定し、みずからの法的ステイタスをその法によって根拠づけるという構造だ。みずからを合法的だと規定しながら、他の暴力を違法なものとして取り締まることで、はじめてその暴力の合法性は確立されるのである。

 

『国家とはなにか』p.29

結局、国家の暴力の合法性は暴力自体によって自己準拠的に根拠づけられるのである。

 

 

 

第2章: 暴力の組織化

国家は秩序と支配を保証するために暴力をもちいる。さらに、暴力を背景に国家は命令を下せる。それは権力である。秩序と支配と権力をより一層強くするために国家はできるだけ強大な暴力を組織化する。

暴力による脅しは、その暴力を恐れるものであれば誰に対してであれ、特定の文脈に依存することなく、こちらの命令に従わせることができる。暴力がもつこうした機能が、秩序や支配を保証する。できるだけ強大な暴力を組織化し、必要に応じて行使するような運動体として国家が存在するのは、こうした暴力の機能にもとづくのだ。この場合、国家を定義づけるのは、暴力の蓄積をつうじた秩序と支配の確立という運動そのものとなる。

 

『国家とはなにか』p.45

 

萱野は暴力を背景とした権力について議論する。彼はフーコーの権力論ととアーレントのそれとを引き合いにしてそれぞれ議論している。そして、アーレントの暴力と権力の関係を退けて、フーコーのを採用する。

つまり、暴力による脅しとは、「相手の可能的な行為領野を」恐怖によって「構造化する仕方」にほかならない。

 

『国家とはなにか』p.52, 強調は原文

 

さらに萱野は国家の暴力と権力の強い関係を指摘する。

国家の成立基盤には、暴力と権力のあいだの相乗的な関係がある。つまり、一方で権力は、暴力の組織化を可能にし、それによって暴力をより強大なものにする。と同時に、他方で暴力は、否定的なサンクションの発動可能性として機能することで、人びとから特定の行為をみちびきだし特定の行為関係を実現する権力のはたらきを補強する。国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力をつうじた暴力の実践との複合体として存在するのだ。

 

『国家とはなにか』p.75, 強調は原文

 

暴力は組織化され、集団化される。つまり目的のために集団的に暴力を行使することは合法であるが、その集団の内部では暴力を極力使えなくさせる。これを萱野は「暴力の加工」(p.75)と呼ぶ。暴力はひとつのところに(つまり国家に)集中して大きく巨大になるが、個人やそれ以外の集団の暴力は小さくなり、そうすることにより国家の権力がまた強力になる。

 

 

第3章: 富の我有化と暴力

暴力を用いる行為者は必ずしも富を生む能力を持っている必要はない。富を生む能力を持っている他の行為者から暴力を用いて奪い、それを自分のものにすればいいからである。暴力は富を獲得して暴力を強化・蓄積することができる。 

住民から租税というかたちで富をうばい、その富を暴力の組織化と蓄積のためにもちいるという国家の原型がここから生まれてくる。

 

『国家とはなにか』p.100

 

 

 

国家は住民みずからの安全のために協力して設立したものという考えがあるが、萱野によるとそれは間違えだと言う。そうではなく国家は暴力的優位の行為者が住民から富を収奪することから生まれたのであり、住民の保護は副次的なものに過ぎない、と(pp.104-105)。

しかしわれわれには「国家とは住民の安全のために設立したもの」という考えが依然としてある。それを批判するために、萱野はその元となったホッブズの社会契約論を取り上げている。さらに、萱野は所有の権利は国家の我有化がおこなった後に、つまり国家による税の徴収の後に、生まれるものであり、ロックが考えるような生得的なものではないと所有の生得性を否定している(p.121)。

 

 

 

第4章: 方法的考察

この章では国家を暴力の運動体とみなさない他の論議が考察されている。特に、国家=フィクション論を強く批判している。国家はフィクションではなく立派な社会的な実在物であると萱野は言う。

しかし、国家そのもの[ママ]ついては、想像上のフィクションという規定は当てはまらない。国家は、暴力の社会的機能にねざしたフィジカル(物理的・身体的: physique)な運動体として具体的に存在している。それは、虚構された想像上の産物などではない。

 

『国家とはなにか』pp.139-140, 強調は原文, 文章の間違えも原文通りである。

 


国家の実在性は、暴力の実践がもつ固有のリアリティにもとづいている。だから、国家が石や建物のように有形的に存在していないのは当たり前のことだ。国家だけではない。あらゆる社会的事象の実在性は、それをくみたてている実践の固有のリアリティにもとづいている。国家の存在が目に見えるものではないからといって、それをフィクションだと言ってしまうならば、社会的な実在性がもつ固有の次元を見逃すことになるだろう。暴力の実践がつくりだすリアリティを有形的なモノの実在性と同列に置くことによってのみ、国家=フィクション論という見方は成立するのである。

 

『国家とはなにか』p.145

 

 

第5章: 主権の成立

この章では主権国家体制がどのように成立されたかを萱野は考察している。

ここで評者が注目すべきことは、自然状態や社会契約説の議論である(pp.162-164)。しばしば自然状態は一つの抽象であり、そのようなものは現実には存在しない、したがって単なる虚構でしかないと批判される。しかし、このような批判はほとんど意味がないと萱野は言う。

ホッブズの自然状態の考えに対しては、しばしば次のような批判がなされてきた。「各人の各人に対する戦争」とは頭のなかで捏造されたひとつの抽象であり、実際には、アトム化された諸個人がたがいに戦争しているという状態が歴史のなかに存在したわけではない。自然状態とは国家状態からのいわば引き算によって遡行的に見いだされた虚構でしかない、と。
    こうした批判は、しかし、それほど的を射ていない。というのも、ホッブズのいう「各人の各人に対する戦争」が示しているのは、他の暴力を取り締まるだけの力をもった審級が存在しないところでは論理的にそうなるということであるからだ。つまりそれははじめからひとつの抽象なのである。抽象としてだされている言葉を抽象だといっても、それは批判にはならない。ホッブズ自身、こうした「批判」がだされるであろうことをあらかじめ承知している。

 

『国家とはなにか』p.162, 強調は原文

 

ホッブズが示した「各人の各人に対する戦争」という自然状態----それは「アトム化した諸個人がたがいに対立しているといった状態ではなく、むしろ、人びとが離散集合をくりかえすことで、暴力の組織化が流動的になされる状態」(p.163)----とは具体的な歴史的な状態を示しているのではなく、「暴力への権利が一元化される以前の歴史的状況に対応している」(p.164)ことを示している。

 

 

さらにここでは社会契約論が生まれた背景も述べられている。萱野曰く、それは次のようなものである。つまり、中世から近代に移ったとき、暴力は一極集中した。それによりこれまでの中世では決定や秩序の実効性が宗教的な権威によってもたらされていたが、近代からはそのような宗教的な権威に依存することなく決定や秩序の命令を貫徹しうるだけの政治的な力の優位性をもったのである。が、では宗教的なものから自律化した政治的なものはどのように根拠づけられるのか。その回答として社会契約論が生まれたのである。

とはいえ、ここで問題が生じてくる。宗教的なものから自律化した政治的なものをどのように根拠づけるか、という問題だ。それまでは、支配するものは宗教的な権威からその正統性を受けとってきた。いわゆる神授権説である。しかし、神学的な法への従属をはなれて決定をなす主権者は、みずからを根拠づけるために神学的なものに依拠することはできなくなる。(中略)自律化した政治的なものを理論的に根拠づけようとするなら、もはや神学的なものに訴えることはできない。
   ここから社会契約の図式が生まれてくる。社会契約説とは、住民たちの意志にもとづいた契約によって政治的なものを根拠づけようとする理論装置にほかならない。神ではなく住民たちの意志が、支配の審級に正統性をあたえるのだ。
   宗教に対する政治的なものの自律性をどのように根拠づけるかという問いは、ボダンにおいてはいまだ萌芽的なかたちでのみ示されていた。というのもボダンは、主権との対比において教会の権力を制限しながらも、主権を根拠づけるためになおも神授権説を援用しているからだ。
   社会契約説はこれに対し、神学的なものに依拠することなく政治的なものを根拠づける回路を設定する。だから、そこでの契約概念を--実際には契約などなされなかったという理由で--架空の物語として片づける安易な発想はやめなくてはならない。むしろそこに見るべきは、神学と政治との緊張関係だ。

 

『国家とはなにか』pp.172-173

 

 

第6章: 国民国家の形成とナショナリズム

この章はいくばくか『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪か』に重複するところがあった。ここは特に評者には引っかからなかったので、この章の節を書くのみにする。

6.1: 国民国家ナショナリズムの概念的区別
6.2: 国家の暴力の「民主化
6.3: 神学的・経済的なものと国家のヘゲモニー
6.4: 権力関係の脱人格化
6.5: 主権的権力と生-権力の結びつき
6.6: ナショナル・アイデンティティの構成

 

 

第7章: 国家と資本主義

この章はほとんどドゥルーズ=ガタリの本を参照している。ここだけ彼らの言葉(専門用語)が乱立する。少なくともこの章が他の章と比べると圧倒的に彼らの言葉が突出している。したがって、評者にとっては理解するのが最も難しいかった。萱野はドゥルーズ=ガタリのその特別な意味で使用されている言葉を理解しているようであった。「資本主義の公理系」や「実現モデル」といった独特の用語が出てくるが、萱野はそれらを見事に解説している(pp.251-256)。これは評者にとっては実に見事なものであった。

 

評者は次の文章に注目した。

資本主義は実現モデルに依存的にのみ作動していく。資本主義は、みずからの公理が実現される条件を自分自身で整えることができない。そのためには、暴力への権利をもった審級の力が不可欠である。このことは、資本主義の公理が諸要素のあいだの機能的な関係をあつかうことからくる、いわば論理的な帰結だ。ドゥルーズ=ガタリは公理系というタームをたんなる比喩的な意味でもちいているわけではない。資本主義が公理という実現モデルをもたなくてはならないからこそ、それは公理系の概念によって説明されるのである。

 

『国家とはなにか』, pp.272-273

 

評者はソーカル=ブリクモンの『知の欺瞞』の影響を受けているので、ドゥルーズ=ガタリが使うこれらの用語はあくまでも「比喩」として軽くに考えている。しかし、専門家からしたらドゥルーズ=ガタリの用語は「たんなる比喩的な意味でもちいているわけではない」とのことである。これにはとても興味深かった。

 

疑問

評者が読んでいたときにふと疑問に思ったことを箇条書きで以下に書く。

  • 国家の定義において物理的暴力を萱野は強調している。実際この暴力は「言葉の暴力」といった抽象的なものではないことを指摘している(p.12)。あくまでも物理的な暴力を想定している。しかし、この暴力には金が入るのではないか。また特に現在ではサイバー(ネット)や電力などの実質な物理的暴力も入るのではないかということである。たとえば、金は立派な脅し文句になる。「基地を認めなきゃ金やらないよ」といったものである。これは物理的な暴力と同程度の強制力があるのではないだろうか。それは電力でもそうである。われわれは現在では電気なしでは生活できず「原発なしなら電気止まるよ」と脅されれば、われわれは--その真偽は置いといて--強制的に命令を受け入れるだろう。そして、国家はサイバーも力を入れるだろう。もしも、ある個人や集団(ハッカー)が国家よりもはるかに優れたサイバー・ネットの力を持っていたとしよう。彼らは国家にとっては脅威であり、下手をすれば彼らは国家よりも力が強いのではないだろうか。仮に彼らが「もしもわれわれの言うことを聞かないのならば、この国のサイバー状態がどうなってもいいのか」と脅しをかけたのならば、それは国家にとって抵抗し難い命令となるのではないか。つまり、評者の疑問は国家はサイバーも周辺の中で最も強くならなければならないのではないかということである。しかし、ここでの周辺とは一体なんだろうか。
  • 一つの世界国家は無理なのか。起こり得ないのか。確かに暴力装置をこの世からなくすことはできないかもしれない。しかし、暴力装置を少なくしたり一つにすることはできないのか。そちらの方が暴力が一つにまとまっているため、世界は戦争も起こらず、平和になるのではないのか。実際国家には戦争の側面があるからである(p.248)。それとも、ナショナリズム--ナショナリズムの基礎には言語的一致が不可欠であり、現在言語がたくさんあるのでナショナリズムは複数存在する--によりそのような世界国家は無理なのか。
  • どうしてある国家はこの領土なのかということには特に必然性はないのだろうか。権力や暴力が及ぶ範囲が領土になるというが。どこからどこまでが権力や暴力が及ぶかというのは偶然によるものなのか、それともなにか関係があるのだろうか。たとえば、日本ならば海に囲まれているので比較的に権力が及ぶ範囲が確定しやすく、したがって領土の範囲も確定しやすいだろう(ホント?領土問題は?)。しかし、大陸ならば権力が及ぶ範囲が確定するのは難しいし、どこからどこまでがある集団の暴力が支配するかというのは、偶然によるものなのか。話し合いの結果に過ぎないものなのか、それともそのようなものではないのだろうか。

 

 

おわりに

かなり長くなりました。うまくまとまったか書評になったのか心配です。感想としては、特に社会契約論のところは、機会があればもう一度読んでもいいのかなというのがあります。どこかの教授さんとおじいさんどもに見せたいですね。ここの箇所を。その人たちは一つのグループなのですけども、連中は社会契約論を否定しています。もちろんそれは単に「それは抽象的でフィクションに過ぎない」と言うものだけです。社会契約論の意図を連中は全く理解していない、というのがこれではっきりとわかりました。もしくは社会契約論の著作を読んでいないのではないかという疑いすら生まれます。なぜなら、ホッブズ自体が「自然状態は抽象的である」と書いてあるのですから。要は、連中がその抽象性を批判したとしても根本的な批判にはなっていないということです。

 

「国家は暴力装置である」というのは当たり前と言えば当たり前ですし、根拠を問うとか言っても、結局は自己準拠的な言い方しかできないし、暴力によって命令や権力ができたり金を奪うことができるなんて、そんなの当たり前じゃん、そんなことを長々と難しく書くのなんて意味わからないという感じは生まれるかもしれません。しかし、暴力という当たり前のことをちゃんと述べたり、詳しくそのメカニズムを述べること----たとえば暴力の民主化や権力関係の脱人格化など----は、無駄なことではないと思いますし、かなり思索を必要とすることだと思います。

 

アマゾンのレビューには「この本(つまり『国家とはなにか』)にはオリジナルな研究が何一つない」という辛辣な意見がありましたが、おそらくそうでしょう。というのも基本的には文献学的な議論の運びでしたし、読解というのも解釈というのも忠実という印象でした。忠実な読解ももちろん大切ですが、大胆な読解もときには必要ですし、そうしないと新しい発見はなかなか生まれないでしょう。忠実な解釈で新しい発見はとても難しいと思います。ですから、オリジナルな研究がないというのもあながち間違っていないのかもしれません。しかしこれはあくまでも素人感覚なので。

しかし、膨大な文献から忠実に読解してそれを再構成する力はやはりすごいと思います。

 

いま私は「存在」という言葉について考えています。その参考資料として「国家はフィジカルな運動体として具体的に存在している。」という例文はとても参考になると思います。とてもいい例文だと思います。 

 

今後も萱野先生の著作を読むかといえば、おそらく読まないと思います。暴力論や権力論やナショナリズム論の本ならば、おそらく多かれ少なかれこの2冊に書かれていることと重複していると思いますし、特に『国家とはなにか』と被っているところが多々あると思うからです。ですので、もしも萱野先生の著作を読むならば、それらのテーマとは違う別の本を読むと思います。ただ書き方が苦手なので、なんとも言えませんが。

萱野先生が参考されている権力論や暴力論関係の本を読みたいなとは思いました。やはりフーコーは一度は読むべきかなと感じました。いつか読めるといいですけど。

 

この拙い書評が皆様の参考になれば嬉しいです。

僕から以上

 

 

補足: 国家を考察する方法について(2017/08/09) 2nd Version

国家を考えるとき、われわれはしばしば国家を一つの生物としてアナロジー的に考察しがちである。つまりわれわれは国家を有機体的に考える。
しかし、本書はそのような考えをせず、徹底的に概念的に考えてる。これはかなり刺激的であった。というのもこれまで評者が国家を自分なりに考えるとき、自然とそれを有機体的に思考していたからである。たとえば、次のような具合である。「国家を一つの生物として考えてみよう。生物の器官は各々特別な役割が当てられて、それがちゃんと機能して生命が維持されている。同様にわれわれ国民もそれぞれの役割を担って、国家という生命を守ろう。」

 

もしかしたら本書のどこかにそのような考えを批判しているかもしれないが、国家の方法論批判においては国家=フィンクション論だけではなく、国家=有機体論にも取り上げてほしかったし、もし今後あるならば、是非とも萱野にはそれを考察してもらいたい。

 

 

追記: p.163に記載されてある「離散集合」について(2017/08/10) 3rd Version

p.163には「アトム化した諸個人がたがいに対立しているといった状態ではなく、むしろ、人びとが離散集合をくりかえすことで、暴力の組織化が流動的になされる状態」と書かれてあり、評者もそれを引用した(内容の要約 各論 第5章より)。ここには原文通りに「離散集合」と書かれているが、おそらくこれは「離合集散」の間違えかと思われる。

 

*1:他にもたくさんあります。以下書きます。(1*): 「ムスブ」p.28, p.141: 結びつける; p.63, p.69: 結びつく; p.70: むすびつく; p.63: むすびあい; p.70: 結びつき; p.89, p.142: むすびつけている; p.267: むすびついた   (2*): 「サキニ」p.38: 先に述べたように; p.44: 先に見たように; p.44: さきに引用した文章   (3*): 「ジッサイ」p.34: 実際のところは; p.122: しかし実際には; p.125, p.210: じっさいに; p.210: (文頭)じっさいには; p.173: 実際には

他にも探せばきっとこのような箇所はいくつか見つかるかと思います。最初は「ツギノ」の箇所を一つずつ見つけたらチェックしましたが、途中からあまりにも「つぎの」と「次の」が見つかったので、チェックするのを諦めました。
この書き方は異常です。何か特別な意図があるのでしょうか。しかしその意図--そもそも意図があるのかどうかすら--は読者にはわかりません。

*2:私が読んだのは第9刷 2014年です。その刷でもこの書き方にそれに文法的な間違いもありました。後述にその文章を引用します。ほんとこいつはまともに文章読んだのでしょうか。まともに編集の仕事したのでしょうか。