疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#9: 萱野稔人著『死刑 その哲学的考察』

 

 

今日は萱野先生の新書を書評します。

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

死刑 その哲学的考察 (ちくま新書)

 

以下にはほとんどなにも書かれていない。

実質、サボり記事。連続寄稿の水増し

 

もともと萱野の著作にはしばしば「死刑」に関する話題が出ていた。ただ、それは暴力について考えるときの一つの例としてであった。さらに、ラジオとか他のメディアでもこれからは死刑についての本をまとめたいとおっしゃっていた。それが今回、実際に本となった。

 

内容は哲学的に死刑を考えるというものである。結論ありきではなく、探求していってその結果、死刑の賛否を主張するということである。

 

まず、萱野は「死刑は日本の文化・伝統だから、外国の価値観から批判される覚えはない」と反論する人たちを、批判する。というよりも、「ラーメンをずずっとすすることは文化的な問題だから別にいいけれども、それじゃあ、死刑も同様に文化的な問題なのか?」と提起する。そして、そのような文化的な根拠づけではなく、普遍的な根拠づけを探そうと主張する。もっとも、その普遍的な理由づけが、ただちに死刑反対という結論にはならない。「死刑制度廃止は世界的な潮流だから、死刑反対」というのも、一種の文化的な根拠づけであり死刑賛成者の論理と同じだということである。

萱野は死刑の賛成にしろ反対にしろ、その普遍的な根拠を探求しようと主張して議論ははじまる。

 

さらに本書の優れたところは「哲学的考察」と銘打っているにも関わらず、本書の後半になるまで哲学者の名前やその議論が一切出ないことである。常に具体的な事例を参照しながら、愚直に議論を展開しているのである。死刑というセンシティブな問題であるから哲学者の名前を借りた抽象理論によって煙に巻き、自らの主張を曖昧にする論者も多々いる。だが、萱野はそのようなことはしない。具体的に考察をしながら、しかし結論ありきの議論でもないということである。喩えれば、スパナで地道に土を掘りながら真実という宝石を見つけるといった感じである。

 

死刑賛成にせよ反対にせよすべての人に共通の原理があることを萱野は主張する。それは、罪と罰の天秤である。罪を犯した分の罰を加えさせることが人間の本質であるとのことである。したがって、「ある罪に対して罰を加えることはよくない」とのような道徳的な批判は意味がない。実際、そのようなことを唱えている論者ですら報復感情は常に存在する。

問題はある罪に対してどのような罰が釣り合うのかという平衡感覚が人によって異なるということである。それによって死刑の賛否が分かれる。死刑賛成論者にはある罪に対しては死刑というものが釣り合うと考えるし、死刑反対論者はある罪に対して死刑は釣り合っていない、または死刑以外の別の罰でも釣り合うことが可能だと考えていて、いずれの論者にせよそのような天秤の平衡こそが正義の実現だと考えているのである。罪と罰の天秤は太古の昔からあり、有名な絵として存在している。

 

さて、萱野は具体的な事件を参照にしながら、いくつかことを指摘する。というか正確には3つかな。

一つ目の指摘は次である。一見死刑制度は殺人の抑止力として機能しているように思われるが、世の中には「死刑になりたい」と思って凶悪殺人をしてしまう者がいる。そのような人にとってはむしろ死刑制度は殺人を引き起こすインセンティブとなるのではないかということである。

それに従い、二つ目は、そのような人にとってはむしろ死刑は望ましいことであり、一生牢屋にぶち込む終身刑の方が重い罰ではないかということである。つまり、仮釈放なしの終身刑の導入の主張である。我々にとって重要なことは加害者に最も苦しい思いをさせることである。そうならば、加害者の罪は死刑以外の罰でも釣り合うことができる。

最後の三つ目は、冤罪の可能性である。問題は冤罪が単なるミスなのかそれとも国家権力の構造的な問題から生じるものなのかということである。萱野は彼の専門である国家論・暴力論によって前者を否定して後者を主張する。すると、たとえ取り調べの可視化が実現して制度がよくなったとしても、常に冤罪が起こりうるからそれを何としてでも避けなければならないということである。

 

以上の議論から可能性として(1) 死刑制度の存続と終身刑の導入 (2) 死刑制度の廃止と終身刑の導入 (3) 死刑制度の存続のみ(死刑制度の存続するが終身刑は導入しない) (4) 死刑制度の廃止のみ、の4つが考えられる。萱野のこれまでの主張に従えばそれは(1)と(2)となる。(4)は被害者をはじめとする我々の懲罰感情に応えていないからダメだとのことである。だが、萱野は(1)を否定する。すなわち、終身刑を導入する代わりに死刑制度は廃止されなければならないと主張する。というのも、死刑と終身刑の2つがあればそれらは最高刑とはならず、被告人は自分の望んでいる刑を求めるために嘘を言うかもしれないからだとのことである。つまり、もしある被告人が死刑を望んでいるのならば、裁判のときに終身刑が嫌だと嘘をつき、結果として被告は望みの死刑を宣告されるということがあり得るからである。それは加害者を最も苦しめさせることに反する。

 

萱野の結論は死刑制度の廃止とそれに伴う終身刑の導入である。

 

 

以上が、本書の書評である(だいぶ前に読んで、いま思い出して書いているにも関わらず、明確に書ける。ということはそれだけ萱野の議論がクリアで論理的だからだと思う)。議論展開はおもしろかったし説得力がある。正直、法律を全く知らない評者にとって「終身刑」と「無期懲役」の違いという基本的なことが知れたし、死刑議論の資料として優れていると思う。ただ、まだ引っかかるところが二つある。一つはやはり冤罪は単なるミスであるのではないかということである。または、制度を改善すればなくなるのではないかということである。そのようにどうしても思ってしまう。もう一つは死刑と終身刑の両立は可能ではないかということである。その辺の議論は今ひとつ腑に落ちなかった。

 

 

だが、本書は死刑という具体的な問題を哲学することによって「萱野哲学」を見せている。萱野哲学の入門書としても、死刑についての本についてもそして一冊の哲学書としても、本書を推薦する。

 

改定予定。とりあえずアップする。

追記 2018/07/29

1) 萱野は「死刑を望む人にとっては死刑は殺人の動機となる」と主張している。だから代わりに終身刑の導入を主張する。だがこれは逆に「終身刑を望む人は終身刑になりたいがために同様に殺人を犯すのではないか」という疑問が生じる。つまり、死刑が殺人のインセンティブになると萱野が主張するのと同じように、終身刑も殺人のインセンティブになるのではないかということである。

もしも、「死刑を廃止して終身刑を導入せよ」と主張するためには、(1) 死刑が殺人の動機になることだけでなく、(2) 終身刑は殺人の動機にならない(または、なりにくい)ということを示さなければならない。萱野は(1)は論じているが、(2)は論じていない。

正確にいうと、萱野は(2)も示唆している。つまり「終身刑は殺人の動機にならない」ということを直接には言及していないが、ほのめかしている。というのも、フランスとイタリアの終身刑者の「終身刑になるなら死刑になった方がマシ」という告白書に言及しているからである(どこの箇所に書かれているかは忘れたが、後ろの方だった気がする)。これは一生独房の中にいたいと望む人は少ないということも示唆しているだろう。

だが、いずれにせよ「終身刑になりたいがために殺人を犯す」というのは十分考えられる。例えば、一生独房にいるならば、生活は保障されている。だから、貧乏であり今後成長も見込めないと絶望した人がいるならば、終身刑のための殺人も十分考えられる。

評者はこの疑問から萱野の「死刑と終身刑の両立は不可であり、終身刑のみが良い」とする主張に納得することができない。この辺をちゃんと議論してくれたら萱野の主張により説得力が増すと思う。 

 

2) 死刑賛成論者がしばしばEUに対して指摘することだが、「テロリストを裁判にかけず公然と射殺することの方が裁判にかけて死刑を下すことより、よっぽど非人道的ではないか」ということである。テロリストの射殺については萱野は本書では何も指摘していなかったと思う(記憶違いでなければ)。

もちろん、「死刑制度の有無」と「テロリストの現場での射殺の有無」は関係があるかもしれないし、ないかもしれない。実際、アメリカは死刑制度があるが、普通にバンバン、テロリストを現場で射殺している。だが、「コイツを生かして逮捕されたら、死刑になることはないから、この場で殺そう、殺してもいい」と思って、報復感情により射殺することは十分に考えられる。つまり、「死刑制度がないことが射殺のインセンティブや射殺の正当化になるのではないか」という疑問である。

この辺りを議論してくれたら、尚のことよかった。

 

もう少し、補足はあったけれども、今のところはこのぐらいで。

 

 

追記 2019/03/20

いくつかの引用文

(1) 本書の目的とスタンス: 抽象論で煙に巻かない。

はじめに pp.11-16

本書の目的は、その死刑を哲学的に考察することにある。
   とはいえ、私は本書で抽象的な議論を振りかざして、読者を煙に巻くようなことをするつもりはない。
   死刑の問題は、国内的にも国際的にも、賛成か反対かをめぐって鋭く意見が対立している問題だ。その問題を論じる以上は、たとえ哲学の本であっても、死刑に賛成なのか反対なのか、死刑を存置すべきなのか廃止すべきなのか、という問いに答えないわけにはいかない。
   哲学はしばしば抽象的な議論を振りかざすことで、賛否が対立している問題に対してみずからの立場をあいまいにすることがある。逆の立場から批判されることを恐れるからだ。
   死刑の問題においてそうした逃げは許されない。これが本書のスタンスである。

p.13

 

(2) 死刑賛成にしろ反対にしろ普遍的に死刑を考える。

第1章: 死刑は日本の文化だとどこまでいえるか? pp.17-40

Section: 普遍主義的に考えることは、答えを自動的に決定することではない pp.33-34

というのも、ここまで導きだされてきたのはあくまでも、「死刑を文化の問題としてではなく普遍的な問題として考えなくてはならない」ということまでだからだ。そこから自動的に死刑を否定することが普遍的に正しいということにはならないのである。

p.33

 

Section: 文化を論拠とすることが日本の外交力を弱めてしまう pp.34-38

よく論争(や口げんか)でも相手に論詰されて論破できなくなると、「それはあなたの意見にすぎない」「考えかたは人それぞれ」というかたちで相対主義に逃げる人がいる。死刑の問題で欧米から非難されて「文化」を論拠としてもちだすことは、これとまったく変わらない。
        徹底的に普遍主義の次元にとどまって議論する意志がなければ、他者を説得することなどできないのだ。

p.35

 

(3) 死を望んでいる人に対して、死刑制度は意味を持つのか。

第2章: 死刑の限界をめぐって pp.41-114

Section 1: 死刑になるために実行される凶悪犯罪 pp.42-64

Subsection: 死んだほうが楽だと思っている人間にとって、死刑の意味とは何か? pp.47-48

宅間には反省の気持ちも罪をつぐなおうという意志もなかった。どうせ死刑になるなら、いつまでも生きていたってしょうがない、死刑執行が引き伸ばされるよりも早く死んだほうが楽だ。こうした気持ちによって宅間は早期の死刑執行を望んだのである。

p.48

 

ここに、この事件が私たちにつきつけてくる究極的な問いがある。すなわち、死んだほうが楽だと思っている人間にとって、死刑はどこまで刑罰としての意味をもつのだろうか。

p.48

 

Subsection: 死刑をめぐる究極的な問い pp.57-58

すなわち、死刑になりたいという人間に対しては、死刑は犯罪の抑止になるどころか、犯罪を誘発する要因になってしまうのではないか、という問いだ。

p.57

 

死刑は犯罪を抑止することもあるかもしれないが、同時に犯罪を誘発することもある。しかもその場合、より凶悪な犯罪を誘発しかねない。死刑はそのとき刑罰としてどこまで力をもつのだろうか。

pp.57-58

 

(4) 死刑を望む人間という極端な例を持ち出して死刑制度を議論しているという反論に対する弁明: 極端にこそ本質が現れる。

Subsection: 極端な事例だからこそ問題の本質があらわれる pp.60-62

とはいえ、ここでさらに次のような疑問がでてくるかもしれない。たとえ死刑が悪用されることがあるとしても、池田小学校事件はあまりに極端な事例であり、その意味で例外とするべき事件なのではないか。
   たしかに池田小学校事件は極端な事例ではある。極限的な事例であるといってもいいかもしれない。しかし、極端な事例だからこそ死刑がかかえる問題がはっきりと示されているともいえるのだ。問題の本質はもっとも極端な事象のなかにこそあらわれる。
   さらにいえば、池田小学校事件はけっして例外的な事件ではない。死刑になるために凶悪な犯罪におよんだという事件はけっして少なくないのである。

p.60

 

Memo:
金川真大(かながわまさひろ)の土浦連続殺傷事件
08年鹿児島での19歳の自衛官がタクシー運転手の首をナイフで切りつけて殺害した事件。
12年大阪ミナミでの男女二人の殺害事件の磯飛京三(いそひ)
筆者の身近な経験04年山梨

 

(5) 死刑になるための犯罪は少なくない。

Subsection: けっして少なくない、死刑になるための凶悪犯罪 pp.62-64

死刑になりたかったから他人を殺すという事件はけっしてめずらしくないのである。そうである以上、池田小学校事件はたとえ極端な事例ではあるとしても、それを例外としてあつかうことはできないのだ。

p.64



Section 2: 終身刑と死刑 pp.64-85

(6) 死刑よりも犯罪者により苦痛となる刑罰がある。

Subsection: “簡単に死ねると思ったら大間違いだ”という刑罰 pp.70-72

そうである以上、「宅間」(のような犯罪者)を処罰するためには、むしろ死刑よりも、死ぬまで牢屋からでられない刑罰、すなわち仮釈放のない終身刑のような刑罰のほうがよいのではないか、と思えてくる。

p.70

 

(続き)

仮釈放のない終身刑なら、宅間は生きているあいだずっと、それも犯行当時37歳という宅間の年齢を考えるなら長きにわたって、刑罰を受けつづけることになる。刑罰は本人 (ここまでp.70) (ここからp.71)が避けたいと思うものでなくては意味がない。"そう簡単に死ねると思ったら大間違いだ"という刑罰こそ、宅間のような犯罪者に対しては意味があるのではないか。

pp.70-71

 

(続き)

ただし終身刑には大きな問題がある。宅間のような犯罪者に終身刑を科すことができるようにするためには、死刑を廃止しなくてはならない、という問題だ。
   なぜ死刑を廃止しなくてはならないのかといえば、死刑が存置されているかぎり死刑が極刑だということにならざるをえず、あれほどの凶悪な犯罪をおこなった人間を処罰するためにはその極刑を適用するほかないからである。宅間のような犯罪者に終身刑を科すことができるようにするためには、終身刑を極刑にするしかない。
   読者の中には、死刑と終身刑をともに極刑として位置づければいいのではないか、と考える人もいるかもしれない。
   しかし、たとえ両者をともに極刑として位置づけたとしても、それら極刑のうちどちらを適用するのかを、被告(犯罪者)がどちらの刑罰を避けたいと思っているのかによって決めるわけにはいかない。

p.71

 

(続き)

なぜなら、死刑を逃れたい被告があえて死刑を望むような行動をくりかえし、死刑を回避しようとする事態も生じかねないからだ。あるいは逆に、終身刑だけは逃れたい宅間のような被告があえて終身刑を望むような言動をくりかえし、終身刑を回避しようとする事(ここまでp.71) (ここからp.72)態も生じうる。
    たとえ終身刑を導入したとしても、死刑を廃止しないかぎり終身刑が極刑ということにはならず、宅間のような犯罪者に終身刑を科すことはできないのである。終身刑と死刑はそう簡単には両立しえないのだ。

pp.71-72

 

(7) 被害者感情を否定することは不可能で無意味。応報感情はポジティブにはやさしくしてくれた人にはやさしくしたいという感情でもあるし、ネガティブに働けば加害者の応報感情になる。被害者の応報感情に即した刑罰を考えるべき。死刑廃止論者は応報感情も認めるような代替案を考えるべきだ。 

Subsection: 被害者遺族の応報感情 pp.74-78

しかし、私は被害者遺族の応報感情を否定することは無意味だと思う。(ここまでp.76) (ここからp.77)なぜなら応報感情そのものを否定することは実際には不可能だからである。
   応報感情は、それが死刑を積極的に肯定するところまでいくかどうかは別にして、道徳をなりたたせている根源的な感情の一つである。

pp.76-77

 

それ(引用者注: 応報感情)を否定することは、道徳のない世界を想定するようなものだ。それは不可能であり、また無意味で(ここまでp.77) (ここからp.78)ある。

pp.77-78

 

この後、何ヶ所か付箋を貼ったが、書き写すのを諦めた。ここまでしか書き写せなかった。

 

 

追記 2019/11/06

萱野は「死刑を望むために殺人を犯す犯罪者の存在」を指摘して、死刑制度を批判して、終身刑制度を支持する。

だが、死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は、死刑を望んでいるのではなく、「死にたい」ことを望んでいるのではないか。このような疑問である。

「死にたい」ことを望んでいる人は、死刑制度があくまでも確実に死ねる手段であるから、それを利用するために殺人を犯すのではないか。

 

社会に「正当に死ねる制度」があれば、わざわざ死刑のための犯罪を犯すこともなく、その制度を利用して死ぬことができる。その制度こそが安楽死である。

 

したがって、萱野の議論は不十分である。つまり、死刑制度を廃止して、終身刑を支持するためには、(1) 死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は単純に死ぬことを望んでいるのではなく、死刑を望んでいることと、(2) 安楽死制度の導入では不十分であることを論証しなければならない。

 

死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は実は「死ぬこと」を望んでいるのではなく、「人を殺すこと」を望んでいるのかもしれない。もしそうならば安楽死制度を導入しても、そのような犯罪者を減らすことはできないだろう。「殺すこと」自体を望んでいて、「死ぬこと」自体を望んでいないからである。 

一体、死刑を望むために殺人を犯す犯罪者は「死ぬこと」を望んでいるのか、それとも「人を殺すこと」を望んでいるのか。

 

いつか萱野には安楽死制度を議論してほしいと思う。

 

 

 

僕から以上