疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

今日は何もない。

今日は何もない。疲れた。

 

例えば、プロ野球選手と野球評論家を考えてみよう。野球の実績のない評論家の話を我々は聞くのだろうか? 彼の言葉に説得力を持つのだろうか? 野球素人の野球評論を聞くのだろうか? 多分、もたないだろう。正当な野球評論家の必要条件は、その人が元プロ野球選手で活躍したということであろう。

ただ、だからと言って、活躍された元プロ野球選手ならば、よい野球評論家となれるのかといったら、それも誤りであるだろう。

これは何を表しているのか。ある人が野球というゲームのプレイヤーとして優秀であることと、そのゲームのことを知っていることとは違うということである。

 

あるゲームのプレイヤーとして活躍することはゲームそのものに関心があるとは限らない。近視眼的になることもある。対してプレイヤーとしてではなくある種、俯瞰的な視点で考える人(評論家)はゲームそのものに関心がある。両方できれば越したことはないが、そのような卓越した人は数少ない。どちらかしかできないとすればどちらを選べばいいのだろうか。

さて、私はどちらに関心があるのか。

 

 

僕から以上