疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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読書感想#7: 大澤真幸著『思考術』

こんにちは。今回は本のまとめをしたいと思います。それは大澤真幸『思考術』の序章 思考術原論です。

思考術 (河出ブックス)

思考術 (河出ブックス)

 

かつて気になったページをコピーしてそれをペーパーレス化していますので、ここに書きたいと思います。 

 

 

 

はじめに 

大澤真幸は現代の最も有名な日本人社会学者だと思います。 

私が大澤さんを知ったのは自由についての議論がされている本です。おそらく『生きるための自由論』だと思います。そこに書かれたある箇所に感動して、それ以降大澤さんのファンになりました。以下の著作を読みました。<問い>の読書術、

ふしぎなキリスト教(共著)、量子の社会哲学です。

 

<問い>の読書術 (朝日新書)

<問い>の読書術 (朝日新書)

 

 

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

 

 

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

 

 他にも雑誌で連載されている論文をたまに読んでいました。今は全く読んでいません。

 

大澤さんはさまざまなジャンルを横断しながら議論します。このような人はそうそういないので、私はかなり憧れていました。哲学から文学やもちろん専門の社会学から科学まであらゆるジャンルを飛び出して、議論している姿に純粋に「すげーな」と思っていました。それは今も思っています。ただ憧れているかどうかは微妙ですが。おそらくその学問の横断性は彼の師匠である「見田宗介(真木悠介)」先生の影響だと思います。彼の『社会学入門』の序章にそのような社会学の横断性をおっしゃっていますから。

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 彼のもう一人の師匠である「小室直樹」先生の影響もあると思います。小室先生の弟子である橋爪大三郎先生や宮台真司先生は、大澤さんの盟友でありしばしば共著や対談などを行なっています。

 

大澤さんの真の思想を理解するためには初期の論文を読まなくてはならなず、彼の言葉である「第三者の審級」などを理解しなくてはなりません。しかし私は全く知りません。誰かがどこかにコンパクトに大澤さんの考えをまとめたものがあります(どこで誰が書いたかは調べましたがわかりませんでした)。

しかし、大澤さんの考えが知りたいのならば、入門書として『<問い>の読書術』か本書である『思考術』をお勧めします。

 

 

以下では『思考術』の序章「思考術原論」の気になった箇所を書きます。 

 

Section: オリジナリティとは、関係のつけ方であるpp.34-36

 

 

オリジナリティとは何か。

p.34: 私の考えでは、それは、ものの関係のつけ方である。
(改行)AとB、それぞれの発見は別々にある。けれども、そのふたつがつながったときにはAそのものとBそのものが違ったものになるということがある。だから、「関係づける」という知の営みこそがオリジナルな思考のいちばん肝心な部分なのだ。AとBとの関係は、AそのものともBとも違う、第三の要素である。AとBとの間の、真空に見える場所に、第三の要素の存在を見いだすことができれば、オリジナルな研究である。
(改行)この「関係づけ」の有力な手段の一つが、補助線を引くことである。思いがけないところから導入された補助線によって、まったく関係がなかったものがあるように見えてくるということ。

 

p.35: 社会科学には社会科学の、文学には文学の、自然科学には自然科学の専門家と呼ばれる人がいる。そうした分野を横断しながら仕事をしていくということを私はしてきた。そのときに難しいけれどもなさねばならないことは、当然のことながら、それぞれの分野でどういうことが考えられているかということを基本的に理解し、押さえることである。だから、それぞれの分野の研究書や専門書を読む必要がある。しかし、それをいくら積み重ねていっても、それだけでは、新たな発見にはならない。

 

Section: 疑問を長くキープする pp.36-37

 

pp.36-37: 繰り返しになるが、疑問を鮮明にもつことが圧倒的に重要である。答えを見出すことよりも問いを見出すことの方に思考の難所がある。(ここまでがp.36)
(改行:ここからがp.37)世の中はわかりやすい説明に満ちている。もちろんすぐれた研究に基づく説明も多いし、そのすべてが間違いというわけではない。しかし、わかりやすさに安住したら、もうその先に発見はない。ほんとうにおもしろいことは発見できない。だから、疑問をできるだけ長くキープすることがきわめて重要だ。

 

 

Section: 飛躍感と着実感pp.37-38


大澤さんの思考は疑問をできるだけ保つためにしばしば回り道をします。そして逆説がしばしば出ます(p.37)。それは読者を困らせるためではなく、突き詰めて考えればそのように逆説的にならざるを得ないからだと言います。

p.37: そうすると、逆説も多くなる。「逆説を駆使してやれ」と思うわけではもちろんない。けれども、いろいろなことを突き詰めて考えていくと、論理がひっくり返る瞬間にたどり着くのである。その逆説こそは、論理的な必然でもある。

 

p.38: よくできている論文というのは、飛躍感と着実感の両方があることが必要だ。AならばBであるということには納得してしまう。けれども、AからBへと、何かすごく意外なところに飛んだという印象が欲しい。確実に一歩でしかないのに飛躍した気分になる、そういう両面が与えられたときに非常に成功した論文になる。たった一歩が飛躍であった、というような感覚である。

 

飛躍感と着実感の両方があるよくできた論文ができるためには、大澤さんが考えるには、まず自分にちょっとした飛躍感があって、それが驚きと感じる。その驚きには何かしらの理由があると考える。その驚きを言語化したときそれが飛躍した着実性が生まれるとのことです(p.38)。

 

Section: 感情は論理的であるpp.38-39

p.39: 普通に言葉になるようなことは、しばしば、衝撃をごまかすために作られた理屈だったりするので、ほんとうの意味での論理性はない。むしろ、自分が最初に抱いた感情を大事にする必要がある。その感情に見合った論理になっているかどうかが重要である。

おわりに

大澤さんの議論はいつもアクロバティックです。それを面白いと思う人もいれば、なんだか胡散臭いなと思う人もいるかと思います。共著ですが『ふしぎなキリスト教』は悪名高いです。そこにはたくさんの事実誤認があるというのだけでなく、解釈もよろしくないとのことだそうです。本書では「私には分野を超えているから特定の分野の専門家には見ることのできない視点から新しい関係をつけることができる」と自身の横断的な活動を正当化しています。ですが、やはり人間には限界がありますので専門外のことに関しての事実誤認や浅い理解にならざるを得ないかもしれません。彼の著作を読むときは、このように言ったら失礼になりますが、一つの「知的遊戯」と考えて、適当に読むのがいいかもしれません。彼が言及しているたくさんテーマの中で興味があった分野があれば、その専門家が書かれた入門書を読み、正道を理解すればいいと思います。中途半端な誤った理解を得るよりも断然いいからです。

 

僕から以上

 

追記: 2017/10/30

資料を整理していたら『思考術』に関する新たなコピーが見つかったのでそれを書きたいと思います。

 

終章: そして、書くということ

Section 有限の人生pp.256-257

基本的には、仕事は一つずつ完全に片付けていくのが望ましい。つまり、同時並行的に、複数の論文や著書を準備したり、執筆したり、といったことは、しない方がよい。実際、私もかつては、原則的には、仕事を一個ずつ集中的に終わらせていた。

  だが、現在の私の仕事は、そのようには編制されてはいない。つまり、同時並行的に複数の著書を準備し、また複数の連載をかかえている。

p.256

 

 正直に言えば、こういう仕事のやり方は、あまり勧められない。深い内容の論文や本を書くには、一定の期間、たった一つのことに思考を集中させる必要があるからだ。

  にもかかわらず、どうして、私はこんな無謀なやり方で執筆を続けているのか。さまざまな事情があるが、最も大きな理由は、簡単に言えば、人生が有限だからだ。この年齢になって、人生が有限であることを痛烈に自覚するようになったからである。

pp.256-257: 強調は引用者

 

このセクションは笑いをこらえるのに必死であった。大澤は次のようなことを言っている。仕事は一つに集中してするべきであり、同時並行的にするべきではない。私(大澤)も昔は仕事は一つにしていた。だが、最近は同時並行的にしている。それはなぜかと。それは「さまざまな事情があるが」人生の有限性を感じたからだと。

そうなのかもしれない。けど、さまざまな事情って何だよって。その中にはセクハラ疑惑の辞職は確実に入っているでしょ。それまでは教授であったから一つの仕事をゆっくりできたけれども、教授を辞職せざるを得なくなったから執筆活動で飯を食わなくなくてはならず、だから同時並行的に書いてんだろ?って勘ぐってしまった。そんなことを思っていたからおもしろかった。