疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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今日もサボる

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書くことは何もない。

 

 

中野剛志の『日本思想史新論 プラグマティズムからナショナリズムへ』の第五章「福沢諭吉尊王攘夷」を読んだので、少し書く。

 

日本思想史新論 プラグマティズムからナショナリズム

ちくま新書 946, 2012, 第一刷発行

日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

 

 

第五章しか読んでいない。そしてあまり真面目に読んでいない。ここでの中野の主張は「福沢の実学というプラグマティズムもまた、水戸学と同様に、国際問題に応用されることでナショナリズムとして現れたこと」(p.185)である。

定説では、福沢は反尊王攘夷論であり、会沢正志斎などの後継者として考えられていない。定説を反駁するために子安宣邦の『日本ナショナリズムの解読』を検証・批判している。そして中野は「福沢は、子安が賛美するような「国体論の文明論的な脱構築」などは、まったくやっていない。子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎない」(p.200)と結論づけている。

私の印象としては、彼の『経済と国民』のときもそう思ったのだが、「この人はたくさんの本を読んでいるなー」と感心させられる。それは次のエピソードである。

子安の論点の一つに次のようなものがある。明治初期から40年代まで日本の国体の絶対性を修飾する言葉として「金甌無欠(きんおうむけつ)」が使われていた。対して福沢はそのような絶対的な国体観を批判し相対化させたという。それに対して、中野は「んなこと言ってるけど、福沢も普通に「金甌無欠」って言葉使ってるしそれはどう説明するんだい?」と福沢の文章を引用して反論している(p.190)。

「よく読んでいるなー。福沢の全集読んだのかなー。すごいなー」と感心した。以下は引っかかったところを箇条書き。

  • 福沢は皇室の神聖性を信じて疑わなかった(pp.207-208)。
  • 福沢の天皇制の政治社会的意義とは、日本国民を統合する求心力としての機能(p.208)。
  • 自由民主主義の前提としての社会統合(p.209)。
  • 社会統合(国民統合)は、世俗の政治の外にある聖的権威によって実現され、それによって、多様性のある寛容な自由民主主義を可能とする(pp.210-211)。
  • 福沢の尊王論は彼の自由論と矛盾するどころか、自由主義の前提となるものである(pp.211-212)。

 

だいたいこんなものである。この章の最後の節に「ヴィジョンの力」というのがある(pp.218-221)。これは短い節であるが、これはのちの『経済と国民』の「リストのヴィジョンの力」とつながる箇所でもある.......はず。

 

 

僕から以上