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読書感想#8 エドワード・ルトワック著、奥山真司訳『戦争にチャンスを与えよ』

 

 今回は書評です。

 戦略家として世界的に有名なエドワード・ルトワックさんの『戦争にチャンスを与えよ』です。

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

戦争にチャンスを与えよ (文春新書)

 

 『戦争にチャンスを与えよ』エドワード・ルトワック、奥山真司訳、文春新書、2017文藝春秋電子書籍

 

タイトルは過激ですが、内容はまっとうか右寄りのものです。戦争について考えるきっかけとなる本だと思います。

 

 

本書のまとめ

タイトルの『戦争にチャンスを与えよ』とは、著者の一番有名な論文(1999年)のタイトルである。第一章ではその論文の解説であり、第二章がその論文である。第三章以降は各論である。第三章は中国論であり、第四章は東アジア論であり、第五章は北朝鮮論である。第六章は著者の戦略論の核となる「パラドキシカル・ロジック」の解説である。著者はこの概念で戦略論を一新したことで一躍有名となったと言う。第七章はその戦略論から見た戦国武将論である。 第八章はかなりチャレンジングな内容である。ゴリゴリの右翼の考え(パターナリズム)が示されている。それは「男は戦いを好み女は戦士を好む」-----これは「生命の法則」でありこれを否定する国は滅びるというものである。第九章は戦略論の続きであり、最終章の第十章は日本が常任理事国になるためのアドバイスが述べられ本書は終わる。

 

 

各章のまとめ 

第一章 自己解題「戦争にチャンスを与えよ」

第一章は第二章にある著者の有名な論文「戦争にチャンスを与えよ」の解説である。 戦争には目的があり、それは平和をもたらすことである。戦争による喪失や疲弊が必要である。それなのに第三者の安易な介入はむしろ害悪でしかないということを主張している。それは当時の国際情勢から著者はそう考えて、論文を執筆したそうだ(pp.23-24)。それは次の2つのケースである。

一つはセルビアクロアチアの戦争である。その前にセルビアスロベニアと戦争した。これはいかなる介入もされなかった。したがって、終戦後両国は互いの立場を認め合い、それ以降スロベニアは戦争をしていない。だが、セルビアクロアチアが戦争したとき、ドイツが介入した。ドイツは自分たちが実際に何もできないにも関わらずクロアチアの独立を認めてしまったという愚行を犯した(p.18)。ドイツなどの介入によって戦争が長引いた。

その結果として何が起こったか。なんと今日に至るまで、ボスニア・ヘルツェゴビナでは、いかなる「戦後復興」も行われていないのである。復興もないし、投資もない。

p.20


なぜか。「戦争が終わっていない」からだ。まだ「平和」ではなく、「戦争が凍結された状態」なのだ。「凍結されている」ということは、「まだ終わっていない」ということなのである。

p.21

次にルワンダのケースである。ツチ族フツ族の紛争があった。ここにNGOが介入したのが最悪であった。虐殺を間接的に支援していたのである。

最初にツチ族フツ族を虐殺し、フツ族は、国境を超えて東コンゴに逃げ込んだ、その直後、国連の介入より悪いことが起こった。NGOが介入してきたのである。これは「悪夢」と言ってよい。
   このNGOは、まったく無責任な存在だった。右も左も分からないまま、「フツ族がかわいそうだ」というだけで、ルワンダから越境してきたフツ族をかくまう難民キャンプを設置し、彼らに食事を提供した。ところが、昼間に配給された食事で腹を満たしたフツ族は、夜中に国境を超えて、ツチ族を殺しに行ったのである。難民キャンプは、国境からわずか三キロの場所にあったからだ。

pp.22-23

 

さらに、パレスチナ人の支援についても述べる。

パレスチナ人は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNWRA)から配給される食糧を毎日食べているが、パレスチナ人の教育に関する権限を握っているのは、ハマスだ。そして彼らは、幼い子どもにイスラエルに対する憎しみを教え、畑を耕すことや働くことではなく、ひたすらイスラエルと戦うことを教えている。そのハマスが、(ここまでp.25)」「(ここからp.26)UNWRAから支援を受けれいる、ということは、UNWRAが、結果的にハマスの武力闘争を支援しているのに等しいのだ。

 

このように紛争や戦争にむやみに介入してはならない。もしも介入するならば50年間駐留・統治して治安の安定化をしなければならない。その覚悟なしの「無責任な介入」(p.29)は紛争を長引かせるだけである。「『介入主義』とは、現代の大いなる病だ」とも著者は言う(p.26)。平和をもたらすのは戦争だけである。そのメカニズムを止めてはならない(pp.26-30)。

ところが彼女[引用者注: ヒラリー・クリントン]は、リビアに介入するなら、アメリカは、50年間、駐留・統治し、安定化を図る覚悟が必要となる、ということをまったく理解していなかった。リビアには、政府が存在していたのだが、これを破壊しただけで、その後に何も提供しなかったのだ。その結果、100もの部族が互いに争いを始めてしまった。遠隔地のほとんど知らない国への介入は、たとえ善意にあふれていても、恐ろしい結果を招くだけなのである。

p.27

 

もしカダフィ大佐を排除した後に、完全なる「法と秩序」を提供しつつ、再建を進め、いざとなれば、そこに50年間でも駐留する覚悟があるなら、介入は正当化できる。
   50年とは、リビアのような国に文明化した新しい世代の人間が出てくるまで、という意味だ。イラクの場合は、50年でも足りないかもしれない。

p.28

 

もしあなたの国が介入するのであれば、そこに平和をもたらすのは、あなたの国の責任となる。その国に対していい顔をする、といってことは関係ない。その国をとにかく統治し、一般住民が、銃撃の恐れを感じることなしに、近所にミルクを買いに行けるようにしなければならない。このような治安状態を提供・実現することに責任を負わなければならないのである。
   もしあなたの国が、「責任をもって平和をもたらす」という覚悟なしに介入すれば、紛争を長引かせるだけだ。

p.29

 

何度でも繰り返すが、停戦の押し付けは、戦争の終結をもたらすはずの流れを止めてしまうのである。停戦は、「戦争を凍結する」ことにしかならない。停戦介入が許されるのは、介入者が、50年かかっても、現地に平和を実現する覚悟がある場合だけだ。そうして初めて、一時停戦ではない本物の平和が訪れる。

p.33

 

もし米国大統領であれば、中東で何をするか。まず現地の人々に謝罪し、米軍を撤退させる。その後は、彼らにすべてを任せて、彼らの中で状況が安定するまで何もしないのだ。
   こうした不介入は認められない、というのであれば、イラクには50万、リビアには20万の兵士を派遣し、その国の全員を完全に武装解除し、同盟国によって軍事政権を発足させ、すべてをゼロから始めるしかない。そして50年間の駐留を覚悟すべきだ。

p.33 

 

こうした「国民意識」が皆無の状況で、「国家」を建設するには、50年以上かかる。もし紛争に介入するのであれば、このことを肝に銘じておかなければならない。

p.34

 

第二章 論文「戦争にチャンスを与えよ」

戦争における最も無関心な形の介入----そして最も破壊的な介入----は、人道支援活動である。その最大規模で最長期の介入が、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)だ。

p.46 

 

こうしてパレスチナの難民キャンプは、戦後の一時期のヨーロッパのような、「すぐに逃げ出したくなる場所」ではなく、「望ましい住処」となってしまったのだ。さらにアラブ諸国の援助もあり、UNRWAは、逃亡していた民間人を「生涯を通じての難民」に変えてしまったのであり、彼らは、また難民となる子供を産み、その子供たちも、難民の子供を産むことになったのである。
   つまり、UNRWAは、50年間にわたる活動を通じて、「パレスチナ難民国家」をつくり上げてしまったのだ。1948年時点の不満をそのまま保全し、失地回復(レコンキスタ)に向かう情熱の輝きを完全に持続させてしまったのだ。

pp.46-47

 

第三章 尖閣武装人員を常駐させろ---中国論

タイトル通り主張は「尖閣諸島に実効支配を中国にアピールしろ」とのことである。中国にとってあいまいなシグナルを出すのは最も危険である(p.55)。中国は漁船を使って尖閣に上陸する可能性がある。それは中国にとってローコスト・ローリスクであるからである。かと言って、万が一中国が尖閣に上陸されたならば奪還作戦は厳しくなるだろう。もちろん在日中国大使を呼び出してなんとかなるものでもない。したがって、ここは先手を打って、尖閣諸島武装人員を駐在させて、中国にアピールするべきだと提言する。

そのことを踏まえた上での私の個人的かつ具体的な提案は、サンゴ・漁業保護部隊のような組織を結成して、その隊員を尖閣に駐在させるというものだ。
   彼らには、そのような部隊が本来持つべき軽い武器などを携帯させ、制服は明るい青色のものを着用させ、日ごろからシュノーケリングやスキューバダイビングをさせる。こうすれば、中国の沿岸警備隊(海警)の公船や漁船も近づけないし、中国の漁民が上陸することもできなくなる。
   つまり、ドアに鍵をかけて出かけるのではなく、泥棒に対して「ここは私の家ですよ。中にいつも人がいますよ」とアピールするのだ。泥棒に対して、「そこに入って盗みを働いても何も良いことはない」というシグナルを強く送るべきなのである。

p.57

 

ロシアには領土問題があるがそれでも対露関係は日本の国益である。

ただ、北方領土に関していえば、私は決して楽観的ではない。プーチン氏は、「ロシア帝国」を修復するまでは領土拡大を続ける、と考えているからだ。それはもちろん、どれだけ経済制裁を科されても、クリミア半島を維持し続ける、ということも含んでいる。

p.64

 

プーチン氏が自国民に発しているメッセージは、以下のようなものだ。
  「ロシア国民よ、あなたがたは、アメリカ人のようにリッチにはなれないし、フランス人のようにエレガントにはなれないし、イタリア人のように美味しいものも食べられない。しかしあなたがたは、世界最大の領土を持つ帝国の人間であり、これは誰に与えられたものではなく、戦争に勝つことによってロシア人自身が獲得したのである。前任者はロシアの帝国の多くを失ったが、私(プーチン)は絶対に領土を失うことはない。むしろ取り返すつもりである。だからその代わりにロシア人は耐えなければならない。帝国の人間として耐え忍んでほしい。」
   これが、2000年に最初に大統領になって以来、プーチン氏が発し続けている一貫したメッセージだ。
   このメッセージに対してロシア国民たちは、「いいでしょう。あなたの言う通り耐え忍びます。国際的な経済制裁にも負けずにがんばります」と言っているのだ。食費が多少高くなっても、クリミア半島ウクライナのためなら我慢します、と言っているのである。

p.65

 

ロシアとの友好関係は中国に対するリスクヘッジとなっている。

私が常々申し上げていることだが、中国は、非常に「不安定」な国である。世界一の人口を抱え、世界第二位のGDPを持つにもかかわらず、アフリカの小さな独裁国家のように不安定なのが、中国の本質だ。(中略)
   こうした「不安定」な国を隣に抱えているのは、非常に骨の折れることだ。
   ただ、これまで述べてきたように、日本がアメリカやロシア、そして他の国々とも友好的な関係を保っていること自体が、最大のリスクヘッジとなっている。それが、私が安倍首相をまれに見る戦略家と呼ぶ所以である。

p.66

 

 

第四章 対中包囲網のつくり方---東アジア論

前章とかなり重複している。習近平の統治力の弱体化により、習は「核心的リーダー」の地位を手に入れようとしている(p.71)。中国は隣国の日本すら理解しない。だからあいまいな態度が最も良くない。

「あいまいな態度の日本」と「隣国すら誤解する中国」というのは、最悪の組み合わせと言える。というのも、日本の「あいまいさ」が、中国の「誤解」の余地をさらに大きくしてしまうからだ。これこそが、現在の日中間に存在する決定的な問題なのである。

p.79 

 

著者の提案する対処法は、中国にとっては適切であると述べる。

この対処法[引用者注: 尖閣諸島武装人員を駐在させる方法]は、「普通の大国」に対しては、不適切かもしれない。ところが、中国は「普通の大国」ではない。「極めて特殊な大国」なのであり、彼らの言わば「冒険」を阻止するには、武装人員を常駐させるなどして、「あいまいさ」を排除することが必要なのだ。

p.80

フィリピンは反中同盟(日本・インド・ベトナム・オーストラリア・アメリカなど)から脱落する(pp.84-89)。

 

第五章 平和が戦争につながる---北朝鮮

北朝鮮に対して次の4つの選択肢があると著者は言う(pp.95-102)。

(1): 降伏(サレンダー)
(2): 先制攻撃(プリエンプティブ・ストライク)
(3): 抑止(デイターレンス)
(4): 防衛(ディフェンス)
  

 

「まあ大丈夫だろう(it will be all right)」と何も対策をしないことが最悪の選択肢である。

何度でも言う。現在の日本は、北緒戦に対して何も行動しておらず、唯一選択しているのは、「まあ大丈夫だろう」という態度だが、このような態度こそ、平和を戦争に変えてしまうものなのである。

p.104 

 

第六章 パラドキシカル・ロジックとは何か---戦略論

大国は小国を助ける。したがって小国は生き残る。

大国は、中規模国は、打倒できるが、小国は打倒できない。小国は、常に同盟国を持っているからだ。小国は、規模が小さいゆえに誰にも脅威を与えない。だからこそ、別の大国が手を差し伸べるのである。

p.107

Question: なぜ大国は小国を助けるのか? 助けるメリットがわからない。

 

戦略の世界は常識の通じない世界である。戦略の世界ではいくら戦術レベル・戦域レベルで成功しても大戦略のレベルで覆るときがある(p.108)。つまり最終的な結果は最上位の大戦略のレベルで決定するのである(p.108)。戦略の世界の特徴が3つある。一つは、成果を積み重ねることができないことである(p.109)。もう一つは矛盾やパラドックスだけが効果を発揮することである(p.109)。そして最後に戦略の世界で、普通の人間の感情つまり家族を持った一人の人間としての感情を持つこと自体が誤りであるということである。つまり、常識は敵であり唯一の味方は冷酷なロジックのみである(p114)。

Question: 「戦闘」「戦術」「戦略」「戦域」の英語を知りたかった。対訳

「戦略の世界」では、「成果を積み重ねることができない」。これが、戦略の第一のポイントだ。戦争に直面して戦略を考える時に、最初にやるべきは、「常識を窓から投げ捨てる」ことなのである。
   戦略の第二のポイントは、第一のポイントよりはるかに衝撃的である。それは、「戦略の世界では矛盾や逆説(パラドックス)だけが効果を発揮する」ということである。理解が容易な「線的(リニア)なロジック」は、常に失敗するからだ。
   もしあなたが、東京から横浜まで行こうとすれば、おそらく直線で最短距離を行くだろう。ところが、「戦略の世界」では、敵が存在する。この敵が、あなたを待ち構えているのだ。すると、「直線で最短距離を行く」のは、最悪の選択となる。迂回路だったり、曲がりくねった道の方が良いのだ。
   あるいは「一般常識の世界」では、晴れている昼間に行くのが、最良の選択となる。ところが、「戦略の世界」では、敵が待ち構えている。すると、夜中の嵐の中を行くべきだ、ということになるのだ。
   この世界では、矛盾するものこそ正しく、線的なものが間違っていることになる。
   これこそが、「戦略の世界」の土台を構成する二つの要素だ。
   第一に、成果の積み重ねができない、ということであり、第二に、「線的(リニア)なロジック」が通用しない、ということだ。だからこそ、人類の歴史は、犯罪や過ちや狂気に満ち、教訓が生かされない歴史となっている。

p.109

 

人類の歴史がそうである理由は、何も多くの人々の頭が悪くて、誰かの頭が良いからではない。われわれ全員が、それぞれの「家族」の中で育てられ、そこでは「戦略」を使うようには教育されないからだ。

p.110

 

この戦略の世界の例として第一次世界大戦のときのドイツとイギリスを比較する。ドイツは当時世界一の科学立国であり世界一の産業界でありドイツ銀行も世界最大であった。ドイツは戦争が始まると最高の陸軍や科学者がいたがそれでも勝てなかった。つまりドイツは戦闘や戦域において勝利を収めていたが、大戦略の領域で負けたのである。それはドイツが三つの世界的な帝国を敵に回したことが原因である(pp.116-118)。ここで大戦略のレベルとは、「資源の豊富さ、社会の結束力、忍耐力(ディシプリン)、人口規模などに左右される領域である」(p.119)。

 

一方でイギリスは勝利を収めた。それは「彼らが「戦略」を冷酷な視点で捉えることができたからである。要するに、同盟関係は、自国の軍事力より重要なのだ。もちろん、自国軍の力で戦闘に勝利することは、同盟関係を獲得する範囲や可能性を広げるものである」(p.119)。イギリスのエリートはラグビーやウォール・ゲームといった野蛮なスポーツを通じて金と権力と暴力を学ぶからそのような戦闘的な「戦略の文化」を理解することができるのである(pp.124-127)。

 

ちなみに、大戦略レベルの同盟とは、単なる口先だけの表面的なものでない(p.119)。本物の同盟関係について著者のイスラエルにいたときのエピソードを披露する(pp.119-121)。

さらに、イギリスの「戦闘の文化」についての著者の個人的なエピソードを述べる(pp.119-121)。要は、イタリアにいたときは、からかわれたからぶん殴ったら両親が呼び出されて説教されたけれども、イギリスのときはそうではなく褒めてくれたといった話である。

 

第七章 「同盟」がすべてを制す---戦国武将論

 著者は戦略家として日本の歴史にも精通している。特に、戦国時代も研究している。本章では、武田信玄織田信長徳川家康の軍事政策から現代にも通じる戦略の思想を見出す。

武田信玄は完璧な戦術家であった(pp.131-132)。織田信長は戦術と戦略の両方を併せ持つものであった(pp.134-136)。徳川家康は最高の戦略家であり、同盟を重視していた(pp.132-134)。

本章でも最後に著者の大きな主張の一つである「まあなんとか大丈夫だろう」と何もしないことが最も悪い選択であることを述べている。

戦略において、正しい選択を行うのは、実は難しい。しかし、最悪の選択とは、「まあ大丈夫だろう」と考え、何の選択も準備も行わないことなのである。

p.138

 

第八章 戦争から見たヨーロッパ---「戦士の文化」の喪失と人口減少

戦争はヨーロンパの文化を作った原動力である。それは『オデュッセイア』や『イーリアス』に現れている。『オデュッセイア』は個人主義を、『イーリアス』は戦士の美徳を教えている。これらの上にキリスト教的な情熱と戦闘的な要素が加わってヨーロッパが世界を制覇した(pp.140-141)。だが、最近、ヨーロッパ全土が非戦闘化されている。それは「男は戦いを好み、女は戦士を好む」という思想-----これを「生命の法則(law of life)」とマーチン・ファン・クレフェルトは言う-----を否定することである。ヨーロッパの非戦闘化によって少子化が生じた。生命の法則を否定する国はいずれ消滅するだろう(pp.141-143)。

 

「生命の法則(ロー・オブ・ライフ)」とは、端的に言えば、「男は戦いを好み、女は戦士を好む」というものだ。もちろん、この法則をあざ笑う人もいるだろう。ところが、この法則が拒否される国で少子化が起きているのだ。戦いを嫌う国では、子供があまり生まれていないのである。
     今日のヨーロッパは、成熟した高度な文化を持ち、自由主義的であり、それゆえに「生命の法則」を拒否している。しかし、「生命の法則」を拒否する国は、将来、存続できなくなる。人口数が減って、いずれは消滅するからだ。
     女性一人当たり1.1人程度の出生率では、人口は、半減を繰り返し、どんどん減っていくはずだ。これこそ、いま世界中で起こっている現象である。
     「生命の原則」を拒否した後に残るのは、「死」だけだ。戦いが、「野蛮」で「原始的」で「後退的」とみなされるようになれば、子供は生まれなくなる。「男は戦いを好み、女は戦士を好む」という文化を失った国は、いずれ消滅する。
     ここで注目すべきは、イギリスの出生率が、イタリアやスペインなど他の欧州諸国より比較的高いことである。イギリスには、「男は戦いを好み、女は戦士を好む」の文化が、まだ比較的健在なのである。

pp.142-143

 

ゲイを公言しているCNNのアンダーソン・クーパーはFA(CA)にセクハラを一切しない紳士な方かもしれないが、彼には未来がない。なぜなら子供がいないからである。対して破廉恥なトランプには未来がある。たくさんの子供や孫がいるからである(pp.143-144)。

少子化についてのさまざまな見解があることを著者は承知であるが、にもかかわらず「少子化が起こっているのは生命の法則を拒否しているからだ」という自説を固持する。

少子化については、さまざまな見解や分析があることは承知している。しかし、そうした分析で取り上げられている諸要素は、少子化とほぼ無関係だ、と私は考えている。戦争を嫌悪する国、「生命の法則」を拒否する国で、少子化と人口減少が生じているからだ。

p.144

ヨーロッパには一部の国を除いて、戦士の文化がなくなった。だが、アメリカにはまだ戦士の文化があるという(pp.144-146)。彼らは『イーリアス』の精神を受け継ぎ銃規制を反対している。そしてそのような人たちが子供をたくさん産んでいると主張する(p.145, p.152)。 

ところが、アメリカでは、そうした新しい思想による文化的なダメージは、わずかなものに留まった。アメリカ人の大部分は、いまだに『イーリアス』の精神を守り続けているからだ。
    たとえば、ヒスパニック系では、伝統的に、マッチョな戦闘的な文化が受け継がれている。アイルランド系、スコットランド系では、田舎の山男文化(ヒルビリー)が継承され、彼らのような人間たちが、いまだに銃規制を拒否しているのだ。
    銃規制の反対派は、精神的に『イーリアス』の教えに忠誠を誓っている人々だ。そしてこのような人々が、アメリカ社会の中で子供を産んでいるのである。

p.145 

 

フランスでも出生率が高いのは、主にイスラム系の女性であり、アメリカでは、銃規制反対派のような人々であることに注目すべきである。

    銃規制賛成派は、子供をあまり産んでいない。彼らの文化やライフスタイルでは、女性一人当たり二人以上産むことは、そもそもあり得ないようになりつつある。

p.152

 

ヨーロッパはかつて戦場でありそのときに成功していた。戦争によりさまざまなテクノロジーが生み出された。戦争がなければ創造性もなくあるのは死のみである(pp.146-148, pp.152-154)。

ヨーロッパの今後について、私は悲観的である。文化的に大革命が起こって、ヨーロッパの本来の思想文化、要するに『イーリアス』の教えが復活しないかぎり、ヨーロッパに未来はないからだ。

p.152

 

映画『第三の男』で、オーソン・ウェルズが演じる悪役ハリーが放ったセリフには、このようなものがある。

    「イタリアでは、ボルジア家の圧政や汚職や混乱や暴力が、ルネッサンスを生んだ。ところが、スイスの平和な500年は何を生んだか? 鳩時計だけさ」

p.154

 

そのような「戦士の文化」を継承している国は現在ではイスラエルしかない。イスラエルには「戦士の文化」があり、ハイテク産業が盛んである。皮肉なことに、ヨーロッパ文化が最後に花開いているのは中東のイスラエルである(pp.154-155)。 

 

しかも、イスラエルでは、ハイテク産業が盛んだ。高度なテクノロジーを次々に生み出している。小国ながら数多くのノーベル賞受賞者----「平和賞」ではない!----を輩出しているのである。
   このような「戦士の文化」をもった国が、創造的なハイテク産業を擁し、しかも世界への探求心も強い。

p.155

 

ロシアは戦略は上手である。空間的にも時間的にも大きなスケールで考えることができる。だが、経済面がからっきしダメであるpp.149-152。

 

第九章 もし私が米国大統領顧問だったら---ビザンティン帝国の戦略論

もしも著者が大統領顧問であったならば、「プーチンと交渉して中国問題に集中的に取り組むべきだ」と進言するとのことである(pp.169-172)。ウクライナ問題はアメリカの国益ではなく、親米的なプーチンはアメリカの国益となる。さらに、中国がより強くなれば、ロシアは中国包囲網(反中同盟)に加わらざるを得なくなるだろう、それこそが「戦略の論理」であると著者は言う(pp.172)。

 

第十章 日本が国連常任理事国になる方法

日本が国連の常任理事国になるためには、インドとの共同管理を目指すべきだと筆者は主張する(pp.177-179)。

 

 

ルトワックの略歴

著者ルトワックの略歴を以下書く(pp.180-182)。


エドワード・ルトワック(Edward N. Luttwak)
1942年にルーマニアユダヤ人一家の子として生まれた。幼少期にイタリア(シチリアミラノ)に住み、その後イギリスの寄宿学校に進み卒業した。ロンドン大学(LSE)で経済学の学位を取った後、ジョンズ・ホプキンス大学(SAIS)でローマ帝国大戦略に関する博士論文を提出した。
その前後から、イスラエル軍や米軍でフリーの軍属アドバイザーとして活動し、戦略国際問題研究所(CSIS)の上級顧問に所属しながら、あえてアカデミックなポジションを求めずに、比較的自由な立場から、世界各地の大学や軍の士官学校、それに各国政府の首脳にアドバイスを行う世界的「戦略家」である。
処女作は極めて実践的な『クーデター入門』であり、その後博士論文をまとめた『ローマ帝国大戦略』(未訳)、主著『エドワード・ルトワックの戦略論』、大著『ビザンツ帝国大戦略』(未訳)。2013年『自滅する中国
『中国4.0』を上梓する。本書はその続編である。編訳者曰く「本書はルトワックの世界観を示している」とのことである。

当初は、好評の前作『中国4.0』の続編を主眼にしたインタビューが企画されていたが、編訳者[引用者注: 奥山]の希望で「ルトワック氏本人の書いた論文や講演録に関するインタビュー集」という方針に変更した。一言で言えば、戦略家であるルトワック氏の「世界観」を提示する書と言える。

p.180


論文『戦争にチャンスを与えよ』は1999年に『フォーリン・アフェアーズ』誌に掲載されたルトワックの最も有名な論文である。
大戦略や戦略理論をテーマとしてこの分野では世界的な名声を確立している。

 

 

ルトワック語録

以下に評者が気になった著者の言葉を引用する。これらの発言には確実な根拠が示されていないから、それほど信じるに値するものではない。「そうなのかー」と流す程度のものである。

 

アメリカがベトナムにおいて大規模な軍事介入を開始した時のことだ。韓国は、数年間にわたって数十万人もの戦闘部隊をベトナムに派兵したが、日本政府はまったく派兵しなかった。これは憲法の制約によるものではない。「自らの独立的選択」にこそ、その理由があった。

p.5

 

日本にとってほぼ利益のない朝鮮半島において、北朝鮮が、暴力的な独裁制でありながら、使用可能な核兵力まで獲得しつつある一方で、韓国は、約五〇〇〇万の人口規模で世界第11位の経済規模を誇りながら、小国としての務めさえ果たしていない。

p.6

 

戦争に対する普通の人々の態度は、たいていは分析的ではなく、知的でもなく、単に感情的なだけだ。彼らは「戦争は嫌いだ!」と言うのだが、それでも戦争は存在する。

ところが、「戦争によってもたらされる破壊」よりもひどいのは、実は、「戦争の妨害」だ。破壊は存在するのに、平和はもたらされないことになるからだ。

pp.30-31

 

ご存知かもしれないが、CIAは、アメリカの政府機関の中で最も仕事のできない機関だ。CIAの人員は、言語や文化を学ぶのに忙しく、インテリジェンスの肝心なところで失敗を繰り返してきた。米国民全員が知っていることだが、アメリカは、外交や軍事と比べて、インテリジェンスがはるかに不得意なのである。

p.82

 

北朝鮮は、特異な政権である。特異な点として、二つ挙げられるだろう。
   一つは、リーダーのヘアスタイルがひどい、ということだ。金正恩の髪型は本当にみっともない。
   もう一つは、北朝鮮の軍事関連の技術力は侮れない、ということだ。根本的な意味で、日本やアメリカ以上の底力を持っている。

p.94

 

ご存知の通り、19世紀から20世紀へと変わる頃に、ドイツは、圧倒的な成功を収めた。1890年代のドイツの大学は、どの国よりも進んでおり、イギリスのオックスフォード大学の学生は、あらゆる学科を学ぶ前に、ドイツ語を学ばなければならなかった。しかも古典を学ぶには、ギリシャ語やラテン語の前に、ドイツ語を学ぶ必要があった。ギリシャ語やラテン語の教科書を執筆していたのがドイツ人で、中身はドイツ語で書かれていたからである。ちなみに1905年当時のイギリスで、ドイツ語を学ばずに修了できた学科は、英文学だけであった。アカデミックな世界からして、このような状況であった。

p.115

 

予め言っておくならば、「戦略のロジック」とは、本質的にパラドキシカル(逆説的)なものである。日常生活における常識的な論理からすれば、すべてが逆立ちしているように思えるかもしれない。
   その最も基本的なものを挙げれば、「平和を欲するならば、戦争を抑止するために、軍備を整えなければならない」というものだ。言い換えると、軍備を放棄し戦争を否定したつもりが、かえって軍事バランスを崩し、近隣国が戦争に踏み切るメリットを増大させてしまう。これが「戦略のパラドックス」だ。」

p.130


(続き)「なぜそうなるかと言えば、戦略においては、常に「他者」が存在するからだ。ある国が戦略的なアクションを起こせば、必ず近隣国家は敵対的であれ、友好的、中立的(ここまでp.130)」「(ここからp.131)であれ、何らかのリアクションを起こす。その他者の介入が意図せざる結果を生むことになる。」

pp.130-131

 

「戦争のないヨーロッパ」は、「ガソリンの入っていない車」のようなものなのかもしれない。

p.146

 

さらに興味深いのは、ネルチンスク条約の交渉におけるロシア側の代表は、ロシア正教の高位の聖職者である「掌院」で、清側の代表は、北京に滞在していたイエズス会の神父であり、双方がラテン語で合意文書を作成していることだ。当時、この二国間の共通言語は、ラテン語しかなかったのである。

p.152

 

感想

議論展開はクリアであった。そこはよかった。自らの主張の根拠も正しいかどうかは置いといてはっきりと示していた。これも著者に好印象を与えた。 

第六章のパラドキシカル・ロジック以外の章について、簡単な感想を述べる。パラドキシカル・ロジックについては次節で取り上げる。

 

第一章・第二章

戦争は平和を導くという議論は初めてのことであるので、かなり拒絶反応も生じるかもしれない。だが、評者はそこまで拒否反応は生まれず、まっとうな意見だなと思った。さらに、中途半端な介入はしてはならないというのも、もっともなことだと思った。 ただ、2つ気になることがある。1つは、どうして50年なのかということである。その数字に何か根拠はあるのか、ということである。一応、引用文でそれらしきことは言っているけれども、世代間ならば30年ぐらいでもいいのではないかとも思ってしまう。「その数字には特に根拠はない。ただ、それぐらい長い期間の駐在を要する」ということを言いたいだけならば、それはそれでいいけれども。

もう一つは著者の論理は「勝者の論理」である節があることである。「私がここではっきり断言したいのは、いかなる難民も、別の場所に移住し、そこで移民となり、新しい国で新しい生活を始め、幸せに暮らすものである、ということだ。」 (p.22)と言っているが、母国を諦めて新たな場所で生活しろというのは、ちょっと酷くないかとも思う。これはpp.46-47にも通じる。つまり、難民キャンプの創設によりパレスチナ難民に失地回復(レコンキスタ)の情熱を持続させてしまったというが、レコンキスタの情熱を絶やさないのはパレスチナ人にとっては必要ではないのかということである。 自分の土地を諦めることができないのは当然ではないか。かなり残酷すぎる。まぁ、それが著者のいわゆる「冷酷な戦略の論理」なのだろうが。

 

第三章・第四章

中国論・およびアジア論である。具体的な提案「尖閣に人員を駐在させろ」を示していることはいいことである。そして、中国には曖昧な態度を取るなと言う。それもそうなのかなと思う。途中でプーチンつまりロシアの話が出てきたけれども、その話は少し興味を持った。しかし、本当にそうなのかは怪しいからあまり間に受けないけれども。強固な反中同盟を結び、中国に対峙しようという著者の考えである。それに賛成するかどうかは判断しない。

 

第五章 

北朝鮮の対策として、圧力は無意味だとして、4つの選択肢を迫っている。正直、降伏も一つの選択肢に入っていることには驚いた。ただ、普通はしないけども。これら4つの選択肢はすべて現実的でないので、そう思うと、実質的には「まあ大丈夫だろう」となってしまう。たとえ、何もしないという選択が一番悪いということを知っていたとしてもである。とても難しいなと思う。先制攻撃はできないしな。まだ評者は先制攻撃を支持できない。要は、アメリカもロシアも中国も北朝鮮に対して何もしていないのではなく、何もできないのではないかと思ってしまう。

 

第七章・第八章

第七章は戦国武将論であるが、正直、外国人が戦国時代のことを知っているとは驚いた。下手したら日本人より詳しいんじゃないかと思ってしまった。すごいなと思った。

第八章は個人的にはおもしろかった。いいサンプルが手に入った。ゴリゴリのマッチョな考えでおもしろかった。要は、著者の言い分としては「戦う男とそれを愛する女」というのが「自然」であり、自然に反する現代は滅亡するということを言っている。「最近の若者は日和過ぎている」とのパターナリズム丸出しの強面のおじ様に説教されているのである。それはそうとして、この前の批評でも書いたが、保守の連中は「自然である」ということに固執するきらいがある。そして問いたいのは「自然である」とは何かである。

別に、ゲイを擁護するつもりはないけれども、ゲイのアナウンサーには未来がなくて、トランプには未来があるってちょっと言い過ぎなんじゃないのかなと思う。別に結婚していても子供がいない夫婦はたくさんいるだろうし、じゃあ、それらの夫婦には未来がないのかと言われれば、決してそうではないだろうし。それならば同様に、ゲイであろうとも未来はないとは言えないと思う。

さらに、衝撃的であったのは、銃を持つことも自然であると正当化されているということである。銃を持つことは『イーリアス』の精神に忠実であることの証なのだと主張されると、「なんだかなー」と思ってしまう。

つまり、「自然だからOK」とか「自然に反するからダメ」とか簡単にいうことはできないのではないかという疑問である。

それに、根拠も薄弱といえば薄弱だ。著者の主張する「戦士の文化の喪失と少子化の関係」はあくまでも相関関係に過ぎないし。おっさんの思い込みがだいぶ入っているように思える。しかも、著者は他の少子化の分析をガン無視するし、もはや異論は受け付けないようだった。まあ、こういう人もいるんだなとおもしろかった。

 

それに、戦争忌避とか言っているけれども、現代では下手したら一発の核爆弾で人類が滅びてしまうかもしれないんだよ。どちらかが降伏するまで無介入で戦うまで戦えというのはちょっと現実的じゃないんじゃないの? だから、そもそも戦争忌避なんじゃないの? 

そうだ、それに、戦力がなくなり疲弊が来るまで戦争しろというのは、広島・長崎の原爆投下を正当化する口実にもなりかねないような気がする。もちろん我々日本人は原爆投下を正当化することは断じて認めないが。

 

第九章・第十章

特になし。

 

 

パラドキシカル・ロジックを批判する   変分学的思考

編訳者の奥山によると、「ルトワック氏の戦略論のエッセンスは、「パラドキシカル・ロジック(逆説的論理)」という概念に集約されている。(中略)この概念によって、ルトワック氏は、「近代西洋の戦略論に革命を起こした人物」とみなされており、世界各国の軍の士官学校や大学の戦略学科などでは、すでに彼の本が必読文献のリストの中に入って久しい」(p.181)とのことである。そんなたいそうなお方なのか。それならば彼のそのパラドキシカル・ロジックとやらを吟味してみよう。その人の考えの中心的なアイディアを批判することに価値があるからだ。枝葉末節のことはどうでもよくその人の思想の本丸を攻撃するのである。

 

評者にとって著者の言っていることは何一つパラドキシカル(つまり逆説的)ではないと思われる。というのも、「結局は、平時であろうと有事であろうと、最も合理的な選択をしている」に過ぎないからである。 状況が変われば最善解も変わるということである。

 

ちょうど先ほど引用した箇所にちょうどいい例がある。だが、それではなくここでは編訳者の奥山の文章を引用する。

あらゆる戦略的行動には、「パラドキシカル・ロジック(逆説的論理)」が働く。たとえば戦争状況では、こちらがAという行動をすれば、(誰でも想定できる)Bという結果(=「直線的な結果」)が生じるわけではない。相手も何かを仕掛けようとしたり、裏をかこうという状況では、一見すると、回り道や遠回りや逆方向に見える手段が勝利につながる。これをルトワック氏は、「パラドキシカル・ロジック(逆説的論理)」と名付け、「戦略の論理」と言い換えることもある。
   通常は、視界の開けた真昼に最短距離のルートで敵を攻撃するのが最も合理的であるように思われるが、当然、そのことを敵側も予想するので、雨の夜に遠回りした悪路を使って攻める方が、実際は(逆説的な意味で)合理的になりうる、ということだ。
   「パラドックス」は、こちらに対抗する自由意志を持った相手に直面した時に発生する。こちらの「アクション(作用)」に、相手も「リアクション(反作用)」で対抗してくる時にこそ、「パラドックス」が発生するのである。

pp.183-184

さて、評者は変分法を勉強していた。したがって、この箇所を解釈すると次のようになるだろう。つまり、任意の二点間を指定する( {\mathbb{R}^3})。そのときの固定端に対して極小距離(最短距離)を求めるという問題である。{y = y(x),\,\, z = z(x)}として、

{\int^{x_1}_{x_0}\sqrt{1 + \dot{y}^2 + \dot{z}^2}dx}

の値について考えるのである。

視界の開けた真昼の場合とは、制約条件がないときである。すると、制約条件がないので二点間の最短距離は直線となる。

だが、敵がいるという場合では、制約条件があるときである。例えばそれは、{x^2 + y^2 + z^2 = 1}という制約条件である。このときの、最短経路は直線ではない。そうでなくそれは大円である。

 

しかし制約条件があろうともなかろうとも最短距離を求めるということは同じである。ただ、条件が変わったから答えが変わったというだけである。

これはまた次のようにも考えることができる。我々は常に最も経済的な状態を実現する。だが、インプットの量の制限などで、パフォーマンスは減るかもしれない。だが結局は、常に最も経済的な状態を実現していることに変わりはない(あまりうまくない)。

 

一体これのどこがパラドックスなのか? 戦略であろうとも何であろうとも最も合理的な選択をするのが人間である。その合理的な選択が平時と有事では180度異なるということを言っているに過ぎないのではないか。しかし、状況が違えば結果も違うことは当たり前である。もしも、状況が変わって、さらにそのときに最も合理的でない選択をするならばそれはパラドキシカルかもしれないがそうではない。状況が変わろうとも最も合理的な(エネルギー効率の良い)選択をする、たとえ戦争中であっても。それが変わっても別に何ら不思議ではない。ただそれだけである。

 

あまりうまく説明できなかった。まあ、疲れたからこの辺にしよう。今後も著者の本を読むかどうかはわからない。多分読まないだろう。パラドキシカル・ロジックとやらもきっと深い理由があるに違いない。ここで示されているのはあくまでも喩えであるからである。難しいものをわかりやすいもので喩えているだけに過ぎず、その喩えを非難しても、その難しい理論を批判したことにはならないと、反論が来そうだ。

でもまあいいや。もう少し考えてみよう。 とりあえずアップする。

 

 

僕から以上