こんばんは。今日は書評です。
佐伯先生の『現代文明論講義』です。佐伯先生の本は結構、読んでいます。今回のは結構よかったです。おもしろかったです。ただ、それほど詳しくは書きませんのであらかじめご了承ください。
2011年, ちくま新書910, 第一刷発行
現代文明論講義 ニヒリズムをめぐる京大生との対話 (ちくま新書)
- 作者: 佐伯啓思
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/06/08
- メディア: 単行本
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- はじめに まとめ
- 第一講 現代文明の病
- 第二講 なぜ人を殺してはいけないのか
- 第三講 沈みゆくボートで誰が犠牲になるべきか
- 第四講 民主党政権はなぜ失敗したのか
- 第五講 政治家の嘘は許されるか
- 第六講 尖閣諸島は自衛できるか
- 第七講 主権者とは誰か
- 第八講 ニヒリズムを乗り越える
- 感想 第三講と第四講を詳細に述べる
- おわりに
はじめに まとめ
本書は現代世界を覆っているニヒリズムについて、教養科目を履修されている京大生と議論を交わしながら行われた講義録である。具体的な政治の問題から始まって、自由について、民主主義について、憲法について議論されている。
もくじ
はじめにp.7-11
第一講 現代文明の病----ニヒリズムとは何かpp.13-41
第二講 なぜ人を殺してはいけないのか----自由と規範をめぐる討議I pp.43-74
第三講 沈みゆくボートで誰が犠牲になるべきか----自由と規範をめぐる討議II pp.75-109
第四講 民主党政権はなぜ失敗したのか----民主主義をめぐる討議I pp.111-148
第五講 政治家の嘘は許されるか----民主主義をめぐる討議II pp.149-185
第六講 尖閣諸島は自衛できるか----「国を守ること」をめぐる討議pp.187-226
第七講 主権者とは誰か----憲法をめぐる討議pp.227-262
第八講 ニヒリズムを乗り越える----日本思想のもつ可能性pp.263-300
続いて、各章のまとめをする。
第一講 現代文明の病
この講義のイントロダクション。ニヒリズムについて、特にニーチェの考えを簡潔に述べている。
ニヒリズムはヨーロッパ文明に最初から内在していたが、現代ではニヒリズムはヨーロッパだけの問題ではなくなり世界中にニヒリズムが蔓延した(グローバルニヒリズム)p.40。
ニヒリズムを克服することは容易なことではないが、考えることを諦めてはならない。この講義では正解を与えない(できない)が、考えるヒントを与えることはあり得る。
第二講 なぜ人を殺してはいけないのか
はじめに「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを京大生とともに議論する。そこで出された回答は
(1) 相互性: 君が殺されたら君の親しい人がが悲しむだろう。仮に君の大切な人が殺されたら君も悲しむだろう。自分がされて嫌なことは相手にしてはならない。だからやめよう。
(2) 生命尊重主義: 人の命は何ものにも代えがたいから殺してはならない。
(3) 社会の治安: 人殺しを正当化させると社会的秩序が崩壊してしまう。だから秩序を守るためいけない。
(4) 社会的承認: 人を殺したら社会的承認を得られなくなるから。
である。そしてこれらの考えに対して批判が加えられている。議論の後、佐伯はそれらの考えの思想的な背景を解説する。生命尊重主義の背景にはカントの倫理学(pp.64-67)とホッブズの社会契約論(pp.67-68)がありそしてこの流れにロールズなどのリベラリズムの系譜があることを言う。
だが、リベラリズムでもさらには功利主義(ここでは「社会的秩序を守るため」)でもニヒリズムに対抗することはできないと佐伯は主張してこの講義は終わる(pp.73-74)。
ちなみにここで佐伯先生の鉄板ネタである「福澤諭吉はrightを権利と訳さず、もともと権理と訳していて、こっちのほうがいい」という話をしている(p.72)。
第三講 沈みゆくボートで誰が犠牲になるべきか
第二講の続き。ボートの問題から4つの考えを導く。つまり(1) リバタリアニズム、 (2) リベラリズム、(3) 功利主義、(4) ポストモダニズムである。それで一度議論する。そして今度は徴兵についての問題を考える。この2つの例からある種のパラドックスを鮮やかに示す。詳細はのちに書く。
その後、古代ギリシア・ローマ市民の公的活動が議論される。つまり、彼らは第5の選択肢として「トップである優れた者が自らの命を捨てる」というのがあるpp.94-100。この考えは一人の京大生も考えることはなかった。現代の功利主義的考えに毒されていることが露呈された。
最後に親鸞の思想を述べて講義は終わるpp.104-109。
第四講 民主党政権はなぜ失敗したのか
民主党という具体的な例を用いて、政治についてさらには広く民主主義について考える。
京大生は民主党をあまり評価していなかった。詳細はのちに。
この講義の最後に佐伯は民意も幻想であるという(pp.145-148)。
繰り返しますが、民主党も自民党も現状では同じ穴の狢です。いまの政党政治、これこそが一種のニヒリズムになってしまっているのです。要するに「無」というものが支配している。民意なんていうものは何もない。何もないものをある意味で捏造して、至上の価値として祭り上げた挙句、それを誰が実現するかという名目のもとに権力闘争を繰り広げる。民意という「無」のものを反映することが民主主義の本質だと考えてしまうと、政治そのものがニヒリズムに堕していく。
p.146
第五講 政治家の嘘は許されるか
前講の続き。民主主義について議論されている。民主主義者とは制度には問題があるが、制度としても価値観としても絶対に正しく、それを実現しなければならないと考える者である。対して反民主主義者とは民主主義は決して良い制度ではなく、欠陥のある制度であると考える者である。民衆の意思を崇高なものと考えるのは誤りであると、彼らは主張する。そこから生徒と議論する。
生徒と議論したのち、佐伯はハーバーマス、ポパー、プラトン、レオシュトラウスそしてトクヴィルの考えを紹介している。ハーバーマスは理想的な討議空間を作ればみんなそこで本当のことを言って、理性的で公共的な議論が可能であると考え、対してレオシュトラウスは公共的な言説(公教的 exoteric)は体のいい嘘であり必ずしも本心ではなく、気の置けない仲間としか話せない私的な言説(秘教的 esoteric)だけが本当のことを言えると主張する。
プラトンの魂の三部説(気概・欲望・理性)はコンパクトにまとまっている。pp.164-165
政治において嘘(高貴な嘘 noble lies)をついてもいいのか(pp.167-181)ということを佐伯は生徒に投げかける。そのときに沖縄返還の時に交わされた嘘(pp.167-173)とイラクに大量破壊兵器を持っているという嘘(pp.pp.173-174)と平和主義という嘘(pp.175-181)が事例として出される。生徒は意外にも政治の嘘を否定しなかった。
トクヴィルの民主主義批判を解説した後、最後に民主主義を健全にするためには民主主義の外にあるもの(エリート主義・市民的教育・官僚制・国民意識など)が必要不可欠である、だが得てして全体主義に暴走してしまうことを指摘してこの講義は終わる(pp.181-185 )。
第六講 尖閣諸島は自衛できるか
現在の日本は平和ゆえに命の尊さを実感できないから生命至上主義のお題目は陳腐に思える。逆説的に戦争のときの方が命の尊さを実感できるというパラドックスがある(pp.187-191)。そのあと民主党の宥和政策について考える。生徒は批判的(pp.191-197)。佐伯は宥和政策の思想的背景を述べ、それは平和主義であると言う(pp.197-201)。そのあとは戦後日本の国防について述べる。つまり60年安保の話をして(pp.201-207)、平和主義と日米安保条約を述べる(pp.207-214)。そのあと、保田與重郎(やすだ よじゅうろう)の絶対平和主義の思想を少し解説する(pp.214-217)。最後に「守る」とはどういうことなのかと問い、その難しさを三島由紀夫の自決から佐伯は議論して講義を終える(pp.218-226)。
第七講 主権者とは誰か
この講義は近代憲法についてである。日本人には立憲主義はわかりにくい(pp.231-233)。
平和憲法を改正すべきかどうかの議論が行われる。生徒の賛成と反対の割合は世間のそれと同じであった(pp.234-245)。
そこから、GHQのはなし、ポツダム宣言の話、宮澤俊義の八月革命の話、国体の話を佐伯はする。
第八講 ニヒリズムを乗り越える
現代になるともはや命を賭してまで守らなければならない価値がなくなってしまった。するとニヒリズムに陥る。そこから何が生まれてくるかというと価値はバラバラだからそれを認めましょうという価値相対主義となり、その自由や平等を守る程度の価値しか、我々には残されていなかった。だが、それには大きな矛盾を孕む。現代の我々はこの問題がどうしても付きまとってしまう。
かなり長いが引用しよう。
とにかく、順序づけることによってある程度一貫した方針を作っていくのが価値です。だから、価値というものをもたない人間はバラバラで、人格というものが見えない。それと同じように、人間によって価値づけられない世界というのはバラバラで、それを一つのまとまったものとして理解することができなくなってしまう。すると当然の結果として、その日その日を楽しく送ればいい、みんながやっている通りにすればいいというようなニヒリズム状態に陥る。
しかし人は、そういう状態には耐えられない。まったくの無価値の世界に住むことはできません。本当にニヒリズムに陥ればおそらく生きてゆくことはできないでしょう。生きてゆくことは何らかの価値に関わることなのです。そこでどうするかというと、また新たなフィクションを作り出す。それが先ほどの生命尊重主義、生命第一主義、あるいは自由平等、個人的な幸福の追求、もう少しくだいてしまえば、いのちは大切、自分らしい生き方、個性の尊重、人々はお互いに認め合いましょう、といったことです。
これらも価値には違いない。しかしこれらの現代の価値には大きな特徴があります。それは、これらの価値は、それ自体が至高のものとして追求されるというより、多様な価値を相互に認めるその条件に関わっており、そこにある基本的な考え方は相対主義なのです。これらの価値の基礎になっているのは、じつは価値がないという状態なんです。もはや、弱々しい価値しか残っていない。それが価値相対主義なのです。
もはや、人間が何をおいても従わなければならないような絶対的な価値はなくなってしまった。けれども、価値をまったくゼロにするわけにはいかない。そこで、価値は多様であって、そこから各々が自由に選べばいいということになった。pp.268-269
なぜヨーロッパからニヒリズムが生まれたかと問い、そのあとにハイデッガーと京都学派に言及し、西田の無の哲学を論じる。無の思想にニヒリズムを超えるヒントがあるのではないかと佐伯は言い、講義を終えている。
私は日本人であるせいか、西田哲学の目指した方向にひかれます。いや、西田哲学そのものというより、より広い意味で日本思想にひかれます。そこに西欧とはまた異なった形でのニヒリズムをやり過ごす糸口がありそうな気がするからです。
p.300
ちなみに西田の文章はさっぱりわからんと小林秀雄が言っているのがおもしろい(p.285)。
この議論がおそらくのちの佐伯の『西田幾多郎 無私の思想と日本人』につながるのだろう。
感想 第三講と第四講を詳細に述べる
第三講
pp.75-90
1人だけ乗れないボートで誰が犠牲になるのかと問う。そこにはいろいろな人がいて、優秀な人もいれば、トラブルメーカーや犯罪者や子供・お年寄りもいる。あとは普通の市民といったところが想定されている。
そのとき、どうすればいいのか。生徒との議論の結果次の4つが考えられた。
(1) それぞれ自由に争って、誰かが死ぬまで争う。リバタリアン(libertarianism)
(2) みんなで死ぬ。なぜなら生きる権利・自由の権利はすべての人にあるから誰が犠牲になるか決定することができないから。リベラリズム(liberalism)
(3) 特定の人(ここでは例えば犯罪者や高齢者など)を犠牲にする。個人の利益よりも社会的な利益を優先する考え。功利主義(Utilitarianism)
(4) くじ引きで決める。運に任せる。人生に必然はなくすべて偶然であるから。(Postmodernism)
この結果は
(1) 5人, (2) 0人, (3) 24人, (4) 8人 となり、功利主義の考えが多数となった(p.86)。
(2)と(3)は対極である。(4)は生命という次元では平等である。
ただそのあと議論して意見が変わる人もいるだろうとのことであるp.90。
一つ目のパラドックスはこの状況では生命尊重主義であるリベラリズムが、原理主義的に考えれば、全員死ぬという選択しかできないということである。これは生命を尊重しているにも関わらず結果的には一番死者が出るということである。
ところが平等な生命尊重という道徳律を全面的に擁護すれば、二番目のリベラリズムになってしまう。この道徳律は、ほかの方法をとるにしてもやはり重視せざるをえない。二番目だと全員死ぬことになるから、一見したところ生命尊重主義に立っているように見えながら、実際にはそれに反する結果になるような気がするけれども、それはあくまで結果なんですね。みんなが全員の生命を平等に尊重した結果、全員が死なざるをえなくなるわけであって、これは考え方としては徹底した生命尊重主義です。
p.87
現代の思想はリベラルが中心であるにも関わらず、京大生の中には誰一人として原理主義者はいなかったのもおもしろい。
それからリベラリズムに賛成する人がゼロというのも意外でしたね。たしかに全員死ぬというのは一見奇妙な結論に思えるけれども、まったく平等に生命や自由を尊重しなければならないというカント的な意味での義務が我々の原則であるならば、結果はどうであれこの方法を選択せざるをえない。ある前提からすれば、この厳しい結論になるのは論理的なんですけれどもね。こういう原則主義者が誰もいないというのがこれまた不思議なんだけれども。
p.90
だが、おそらくこのような状況ならば、自称リベラルの人でも、全員死ぬという選択肢はないと思う。このような極限状態ならば自称リベラルが多少功利主義的に考えても、別にいいように思う。
だが、話はここで終わらない。
一見すると、この話は極論であり、ある種の頭の体操のように思われる。別に功利主義的な考えつまり(3)であってもいいように思われる、たとえリベラリストであろうとも。だが、佐伯の腕の見せ所なのだが、圧巻だったのは
この例を今度は徴兵制の例に置き換えてみて再び議論するということであった(pp.91-94)。それは次のような問題である。
小さなコミュニティに暮らしている。そこに他国から攻められたとする。戦争が起こりしたがって誰かを戦場に送らなければならなくなる。しかし敵は圧倒的な軍事力を持っていて到底太刀打ちできない。戦場ではほぼ負け戦になるだろう。その覚悟で戦争城代に入らざるをえない。さて、どうするか。
このとき
(1)つまりリバタリアンの立場だと、みんな好き勝手に戦うということになる。個別に戦うということはアメリカなどの例から十分あり得る。
(2)つまりリベラリズムの立場だと誰を送るか決定できない。だから全員で降伏するか自決するかのいずれかを選択することになる。
(3)つまり功利主義の立場であると犯罪者から戦場に送られる。
(4)のくじ引きが一番楽である。だが、ランダムでの決定は生き残った者に贖罪意識を植え付ける(pp.101-104)。(3)か(4)に近いことをかつてアメリカがベトナム戦争の時した。ここにはバイアスがある。日本もかつてやっていた。
ここで評者はかなり衝撃を受けた。「おぉー、すごいなぁー。議論の持っていきかたが、すごいなー。」
評者は最初のボートの例はもちろん(3)である。(4)はありえないと思った。だが、徴兵の例に変わったら、(3)はかなりまずいことであると直感できる。むしろ(4)がここではしっくりするのではないかと思った。だが、両方の選択にも問題がある。
佐伯から揺さぶりをかけられた。ほとんど同じ例にも関わらず、評者の考えはあるときでは功利主義的であり、別のときはポストモダン的(非功利主義的)であることがわかったのである。「そのような態度は矛盾していませんか?」と言われればちょっと反論することができない。
ここまで言ってもまだ三番目がいいですか。ベトナム戦争で多くの黒人が激戦地に送られて死んだという話を聞いたら、三番目はちょっとまずいと思いませんか。こう言いながら、みなさんを挑発しているんですけどね(笑)。とにかく、それが当時のアメリカの首脳部の決定だった。というか、志願する場合には、どうしても仕事がない者、貧しい者がまず志願することになる。結果として、あるバイアスをかけた形で徴兵することになります。
p.94
さらに驚嘆したのは、一方でボートの例ならばよっぽどの原理主義でないかぎり、たとえ自称リベラルでも(2)の選択肢はありえないだろうと思うのだが、他方でこの徴兵の例ならば、普通に「降参します」とリベラルが言うだろうと想定できることである。つまり、(2)は突飛押しもない考えどころか現実的な考えであるということである。「戦争したくないから降参する」と言っている連中はそれほど珍しくない。
いまの平和憲法においても個別的自衛権は発動できると思いますけど、憲法九条を厳密に解釈するならば、日本に他国が攻めてきた場合、交戦権がないので降伏して全員が捕虜になるか、全員が死ぬかのどちらかを選ぶしかない。
p.92
リベラルの毒に侵されている連中は数多い。かと言って、他の選択肢(1), (3), (4)の中では何がいいのかと言われたら、なかなか難しい。(2)でも降伏ではなく「徴兵制」という別の選択肢も十分あり得ると思う。つまり全員に国防の義務を背負うという考えである。だが、少なくとも日本のリベラルではそのような考えはありえないだろう。
第四講
事業仕分けやマニフェスト政治を批判している(pp.137-140)。
さらに、政治主導にもそれは無理筋であるとウェーバーの政治の支配の三類型(伝統的支配・カリスマ的支配・合法的支配)を用いて批判する(pp.140-141)。
事業仕分けは基本的に「成果主義」で無駄かどうかを判断している。だが、それでいいとは限らないと言っている(pp.140-145)。
先ほども言いましたが、事業仕分けは単純な成果主義に基づいています。しかし成果主義がいかなるときにも有効かというと、話はそう簡単ではない。政治家がそれぞれの分野に対して重点的に投資するか否かを判断するわけですが、その中でもある分野に対しては、ある程度の無駄を承知で投資しようということになる。
p.139
iPSの研究費もアメリカが先に結果を出してしまったら、それは無駄になってしまう。が、1年2年で成果が出るはずもなく、それで事業仕分けで予算の削減の対象となってしまったら元も子もない。全体的な政府の戦略的な方針があってはじめてできてそこには決断しなければならない(pp.139-140)。
だから事業仕分けはパフォーマンスになってしまうという面も強いんですけど、それ以上に単純な成果主義だけで物事を計るという危険があるわけです。
p.140
正直、このような批判はあまり賛成できない。それならばどのようにして「無駄」を削減するのか? 成果主義以外でどのように測ればいいのか?
そもそも政治において「無駄」があるとほとんどの人が認めるだろう。そしてその「無駄」をできるだけなくさなければならないという主張も認めるだろう。それならばその「無駄」をどのように測るのか? 誰が決めるのか? 成果主義以外でどのように測ればいいのか?
もちろん、長期的な戦略も必要だが、それらもろもろは誰がどうやって決めるのか? これは極めて難しい問題である。成果主義を簡単に否定すればいいというものではない。
おわりに
佐伯の本は結構読んできた。講義形式であり読みやすかった。いままでそれほど評価していなかったが、 少し改まった。特に第三講の箇所が衝撃であった。そこを反論することはちょっとできない。あえて言えば、「2つの例は同じものではない。したがって比較することはできない」と言うぐらいしかない。だが、これは言い訳に過ぎない。まっとうに佐伯の挑発を論駁することはできない。
とてもよかった。もし気分が乗れば他の著作も読むかもしれない。
僕から以上