疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

数学・論理学・哲学・語学のことを書きたいと思います。どんなことでも何かコメントいただけるとうれしいです。特に、勉学のことで間違いなどあったらご指摘いただけると幸いです。 よろしくお願いします。くりぃむのラジオを聴くこととパワポケ2と日向坂46が人生の唯一の楽しみです。

立ち読み書評#5: 萱野稔人『リベラリズムの限界』

萱野稔人リベラリズムの限界』
リベラリズムの探求を通して見えてくる、リベラリズムの限界を提示した政治哲学入門書。


久々のブログの更新です。ネタはあったのですが、時間がありませんでした。1ヶ月に一回なんとか更新します。それも不完全ですが。

今回は萱野先生の新著『リベラリズムの限界』の立ち読み書評です。

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

カヤニスト(萱野のファンの名称)の評者は萱野先生の最新刊を立ち読みした。萱野さんは相変わらず議論が明確であるため、大体の議論は覚えている。だが、少し読み飛ばした箇所もあり、あまり理解していない箇所もある。ちゃんと詳細をまとめなければならないため、おそらく本書もそのうち買うだろう。

さて、書評であるが、今回はタイトル通り「リベラリズムの限界」について、議論されている。本書は第1章と第2章の2章編成であるが、それぞれの章でリベラリズムの限界を主張した。

第1章では、一夫多妻や近親婚を通じて、リベラリズムの原理(他者に危害が加わらない限り当人の自由は保障されるべきである)が適応される限界を議論している。

自称リベラリスト同性婚を認めるべきであると主張する。リベラリストは「公共の福利に反しない限り、個々人の自由は尊重すべきである」という立場から、「たとえ同性カップルが生活していて、あなたが不快な気持ちになったとしても、直接の害が出ていないために、あなたはその人たちの自由を尊重すべきである。したがって、同性婚を認めるべきである」と主張するのである。しかし、その原理に従うならば、一夫多妻であるカップルも、そして近親者のカップルも、他者に危害が加えられていないため、その自由を認めるべきである。だが、実際リベラリストはそのような主張はせず、むしろそれらを否定している。その矛盾に対して、リベラリストは「一夫多妻は女性差別だから認められない」や「近親婚は先天性異常の子供が生まれやすいから認められない」などと理由をつけるが、それらの理由は「同性婚のみを認める」ということを正当化できないという。リベラリストに否定的な人たちはこのような矛盾を「ダブルスタンダード」と非難する。このダブルスタンダードリベラリストの信頼を低下させる原因のひとつであると萱野は指摘する。

リベラリストは無条件にリベラリズムの原理(他者に危害が加わらない限り当人の自由は保障されるべきである)を適応しない、否、適応できないのである。リベラリズムの原理はリベラリストの「規範意識」の範囲内のみ適応されるのである。リベラリストの結婚の規範意識が「結婚は、近親者以外の二者間の合意である」というものであるから、同性カップルのみリベラリズムの原理が適応され、規範外である一夫多妻には適応しないである。さらに、近親婚がリベラリズムの原理を適応できないのは、近親タブーという規範意識があるからである。

総じて、第1章で示されているリベラリズムの「限界」とは「リベラリズムの原理は規範意識内でしか適応されず、規範外では適応されない」ということである。


第2章では、リベラリストの「弱者救済」について議論している。自称リベラリストは「経済的な弱者を保障するために、全員から税を徴収すべきである」と主張する。だが、他者の税を徴収するということは、他者の自由を侵害することである。一体、リベラリストはその自由侵害をどのように正当化されるのか?
萱野はリベラリズムの古典であるロールズの『正義論』をもとに議論する。ロールズの難しい主張を易しく説明する。その説明は圧巻である。
そのロールズの議論には「弱者救済に対する自由侵害の正当化」が書かれているが、そこには決定的な「限界」があることを萱野は指摘する。すなわち、「リベラリズムの原理自体から、弱者救済のための税の強制徴収を正当化することはできない。リベラリズム以外の別の原理(功利主義の原理や国民国家などのメンバーシップの原理)から、経済が順調に成長している限り、弱者救済の正当化ができる」というものである。

経済成長しているときのみ、弱者救済のための税の徴収を正当化できる。にもかかわらず、リベラリストはいついかなるときも「税を徴収して、弱者救済に分配しろ!」と主張する。経済が停滞している現在のときにも、リベラリストがそのようなことを主張する。さらに不正な生活保護者などが明らかになったとき、「不正な生活保護者を認めるな」と主張する人たちをリベラリストは「弱者叩き」であると非難する。そのようなリベラリストの態度に、多くの人たちは不信感を抱くようになる。「ただでさえ金もないのに、どうして正当な人にお金(権利)が分配されず、不正な人が享受するんだ。これを批判するのは当然なはずだ。にもかかわらず、リベラリストは不正な連中を擁護して、反対に批判者を差別主義だと非難する。一体リベラリストとはなんなんだ?」と。萱野は「財源がない限りリベラリズムは弱者を救済できない」ということに無自覚なリベラリストを批判する。

総じて、第2章で示されているリベラリズムの「限界」とは「リベラリズムの原理はそれ自体で弱者救済のための税の徴収を正当化できず、リベラリズム以外の別の原理でしか正当化できない」ということである。


以上が本書の内容のまとめである。
本書も『死刑 その哲学的考察』と同様、萱野による政治哲学の入門書である。内容も「リベラリズム」というホットなテーマである。今回も議論は冴えていて、おもしろかった。「おお、まさかYahooニュースのコメントを引用して、それを使って議論しているぞ!」と。もちろん注目すべき主張もあった。お勧めの本である。だが、個人的には途中、スキップするほどの退屈な箇所もあり、前著『死刑』ほどの興奮はなかった。



さて、ここからは本書から刺激を受けて、評者が考えたことである。それは...

(未完)


僕から以上