疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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書評: 鈴木宏昭著『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』

概要

人間の認識に関するバイアスがわかりやすくまとまっている良書


内容
我々は普段から考えたり、判断したり、ものを見たり聞いたりする。そのような心の働きを人認知機能というが、それは人間特有のバイアス(つまり歪み)がある。そのような認知バイアスを科学的・実験的に研究する分野が認知科学であり、本書は認知科学の知見を第1章から第8章まで紹介されている。

第1章は「注意と記憶のバイアス」であり、注意は極めて限られているし、記憶は平気で捏造する。例えば、被験者に自動車事故の動画を見せて、その後に実験者は質問する。一方の被験者では「自動車が衝突したとき、時速何キロメートルくらいのスピードでしたか?」と聞く。他方の被験者では「自動車が激突したとき、時速何キロメートルくらいのスピードでしたか?」と聞く。すると、被験者の記憶は質問によって更新されて、「激突」と聞かされたグループは「衝突」グループに比べて15キロメートル程度その速度を多めに見積もっていたという。

第2章は「リスク認知に潜むバイアス」である。一言で言えば、「思い出しやすい事象はよく起こっている事象である」というバイアス(利用可能性ヒューリスティック)である。
そのバイアスがよく現れている事例は「最近、凶悪事件が増えている」と思ってしまうことである。データから見ると、凶悪犯罪は減少傾向であるし、若年層の犯罪は減少している。にもかかわらず、「凶悪事件が増えている」と思ってしまうのは、強烈な凶悪事件を我々が覚えていることである。さらにその凶悪事件はメディアで連日報道されることによって、リハーサル効果を得て、覚えやすくなる。すると、覚えやすいから「凶悪事件が増えている」と認知が歪められるのである。ただ、このヒューリスティックバイアスは逆に利用することもできるという。

第3章は「概念に潜むバイアス」である。連言錯誤という論理的にはあり得ない判断をしてしまう。また、カテゴリを作成して対象を関係付ける際に、プロトタイプというものを作成して、ある対象がカテゴリのメンバーかどうかを判断する。プロトタイプは多くの事例からできるものもあれば、たった一つの事例から作成することもある。そこには必然的に偏見やバイアスが生じてしまう。例えば、イチロー選手が渡米して活躍したとき、アメリカの球団のスカウトは日本にはイチロー選手のような選手が大勢いると勘違いした。それは、スカウトがイチロー選手を日本球界のプロトタイプとみなしたからである。だが、イチロー選手は日本の代表ではあるが、日本選手平均を体現しているわけではない。アメリカのスカウトは代表例をプロトタイプと勘違いしてしまった。

第4章は「思考に潜むバイアス」である。これは確証バイアスである。有名な「4枚カード問題」実験から議論が始まっている。

第5章は「自己決定というバイアス」である。我々は一見すると自由意志によって自己決定を意識的におこなっていると考えている。しかし、実際は我々の行動の原因は無意識に基づいているということである。もちろん、この無意識研究は科学的におこなわれた結果である。

第6章は「言語がもたらすバイアス」である。言語は様々な利点があると同時に欠点もある。例えば、言語は記憶を阻害するし、言語は思考を停滞させる。

第7章は「創造(について)のバイアス」である。イノベーションのアイディアは突如としてひらめくものだと思いがちだが、実際は革新的アイディアは徐々にひらめくものであることが明らかにされている。

第8章は「共同に関わるバイアス」である。
これまでの章では人間個人に潜むバイアスを取り上げた。だが、バイアスは人間個人のだけではない。
本章では集団となることによって生じるバイアス、つまり共同のバイアスを取り上げる。
共同のバイアスは3種類ある。それは同調と分散(分業)と共感である。
同調のバイアスとは、人に従うことによって個人の判断が誤るバイアスのことである。そのようなことを示す実験は数多くある。例えばアッシュの実験というものがある。それはある簡単なテスト(個人でおこなえば99%以上正解する問題)を被験者におこなってもらう。だが、同じ問題を集団でおこない、その集団(サクラ)が間違った選択肢を主張すると、被験者はその意見に従ってしまうのである。この現象は人種や国籍は関係ない。というのも、その被験者はアメリカ人である。
さらに同調のバイアスはブレーンストーミングにも働く。ブレーンストーミングは生産性をもたらさない。むしろネガティブに働く。その理由は「こんな発言をしたら周りから変に見られるかも」と考えて、発言を控えてしまうからである。
次に分散のバイアスとは、集団になることで責任が分散してしまうバイアスのことである。
例えば、誰かが助けてと叫んだとする。周りに自分一人だったら助けるが、集団となると「誰かが助けるはず」と思って、誰も助けなくなるのである。
さらに分業による責任転嫁である。典型な例がナチスユダヤ人虐殺である。有名なミルグラムの実験で示されることは、我々はしばしば権威に従ってしまうことや我々は「ただ指示に従っただけだ」と自分で納得するということである。分業することによって自分のごくわずかの仕事に注視して、全体を見ず責任も矮小化してしまう。
最後に共感のバイアスである。それは共感(特に情動的共感)によって我々の判断を誤らせるバイアスである。

最終章(第9章)とおわりにではこれまでの認知バイアスについての総評がまとめられている。認知バイアスそのものについての議論である。
第9章は「「認知バイアス」というバイアス」である。この議論はさすが専門家と思った。評者のような素人は、本に書いてあることを信じて疑わず、そのくせタチの悪いことにその薄っぺらな知識を他人に披歴したがる。「人間はね、権威に弱いんだよ。知ってる?ミルグラムの実験ってのがあってね」のように。
しかし、専門家はそうではない。常に批判的に考える。「この実験のデザインは不十分ではないか」のように。もちろん実験の提案者である心理学者も細心の注意を払って実験をおこなうが、それでも心理学者自身の問題設定によりバイアスが作られることがある。そしてそれが定説となることもある。これが「「認知バイアス」というバイアス」である。著者は「認知バイアス」というバイアスの例を鮮やかに示し、評者にまざまざと見せつけられた。

幼児期の子供には数の保存概念がない、というのが長らく発達心理学を支配してきた考え方だった。付け加えたり、取り去ったりしない限り、ものの数は不変だ、つまり保存されるというのが、数の保存の意味するところだ。ところがこうしたごく当たり前のことを幼児は理解していないとされてきた。子供の前に、たとえばアメを5つ並べ、これと同じだけ並べるように言う。そして「同じだけありますか」と聞く。その後、片方の列の間隔を広げたり、狭めたりする。そしてもう一度「同じだけありますか」と尋ねる。すると年少の子供(3、4歳)の多くは、2つの列は同じではないと答えてしまう。  これについて私の友人であった故マイケル・シーガルは、幼児のこうした無能さは実験によって生み出されたアーティファクトだと断じた。アーティファクトというのは一般には人工物という意味だが、この文脈では実験の操作により、本来はないはずの現象が人為的に生み出されてしまうことを指す。こうした次第だから、アーティファクトというのは、実験を行う科学者たちがもっとも恐れるとともに、忌み嫌うものだ。  さてこの実験のどんな部分がアーティファクトを生み出すのだろうか。シーガルは、同じ質問を2度することによって生み出されるのだと言う。同じことを2度聞くというのは、単なる繰り返しではない。独特なメッセージを生み出す。それは、初めの答えとは違うものを相手は期待している、初めの答えに納得していない、初めの答えは間違いだ、等々のメッセージだ。

子供たちがもし仮に保存の概念を獲得していたとしよう。つまり、動かしたって数が増減する(そんなバカげた)ことはないと、私たちと同じように考えているとしよう。すると、動かす前に聞かれた質問に一度「同じ」と答えたのに、もう一度同じことを聞かれた、と子供たちは考えるだろう。すると「前と違うことを言えと言ってるんだな」とか、「同じって長さのことかな」などと考え始める。そして「違います」という答えを出してしまうのではないだろうか。  シーガルは実験を工夫して、質問を一度しかしない条件で実験を行った。すると標準的な保存課題では間違えてしまう子供の多くが一貫した答えを出すことがわかった。またこうした子供たちに、保存課題で間違えた答えを出す子供のビデオを見せると、「この子は噓を言っている」とか「本当はそう考えてない」などと答えるという。そもそも、子供が本当に列の長さが数に影響すると考えている可能性はとても低いのではないだろうか。もしそうだとしたら、アメを2つ並べて、子供が「もっとちょうだい」と言ったとき、その間隔を広げれば、子供は満足するはずだ。でもそんなことはあり得ないように思う。

感想

総じておもしろかった。大学1, 2年生の教養レベルの認知科学の内容がまとまっていたと思う。各章の最後にブックガイドがあり、気になったものはその参考文献をもとにより学ぶこともできるので、それも初学者にとってはいい配慮だった。参考文献はすべて日本語で読めるものであったが、英語の論文もあってよかったなとも思う。
特に最終章とあとがきは面白かった。素人に毛が生えた物知り(誰!?「TちばなRい」とか「DぐちHるあき」とか)の話は、話程度に聞き流せばいいのかなと思った。専門家も伊達じゃないなと思った。評者こそが素人に毛が生えた物知りなのでそこは胆に銘じた。
認知科学の知見を道路設計のデザインに利用しているという話も興味深かった。そのような応用ができることこそが科学の有効性の所以であるからである。



僕から以上