疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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なんだかよくわからない話。政治信条が異なるからその人の業績も認めないという考えっていいの?

ツイッターを見て、次のような内容が来た。その人は、ある歌手について「私この人嫌い!」と主張していた。その理由が、その人の政治信条とその歌手のそれとがまるっきし異なるからだそうだ。「昔は私はあの歌手は好きだった。でもあいつの政治信条を知ったから、それ以来嫌い。たとえ、あの歌手がどのような歌を歌おうとも、私はあいつがマジで大っ嫌い!!」

 

私はそのようなつぶやきを見て「これって、アリなの?」と思った。「歌のうまさと政治信条は別でしょ?」と思ったからである。別に個人の嗜好なのでとやかく言うつもりはない。けれども、なんだかなと思った。まだ、「音楽性の違いからあいつの曲は大っ嫌いだ」と言うほうが、何百倍もしっくりくる。それはたとえ感性や信条の問題だったとしても「音楽」という共通のものから判断されているからである。「音楽」と「政治」という全くジャンルの異なるものから、「あいつ嫌い」と認めない態度は、なんか.....いいのかよという気持ちである。

 

でももしかしたら、自分もそのようなある意味で理不尽な判断を無意識のうちにしているのかもしれない。少し考えてみよう。

 

これと似ているのか、関係があるのか、それとも関係がまったくないのかわからないけれども、もう一つの例を出そう。

昔、アインシュタイン相対性理論が発表されたとき、当然ながら批判が来た。その中にはもちろんまともなものもあったけれども、中には次のような批判もあったそうだ。

アインシュタインの理論は間違っている。なぜなら、彼はユダヤ人であるから。」

実際、ナチスの科学集団には、アインシュタインの理論は間違っていて、真の科学理論はアーリア的でなければならない云々の話があったそうだ。出典は覚えていないけれども。

もちろん、誰がどう見てもこのような「批判」は批判ではない。それは「その理論の成否とその理論の発見者の人種は全く関係ない」からである。まだ、「アインシュタインの理論は間違っている。なぜなら、光速度不変の原理が間違っているからだ」と主張する輩の方が何百倍もマシであることがわかるであろう。それは、同じ「物理学」というフィールドで批判しているからである。

 

私にとっては、「あの歌手は嫌い。なぜなら、あいつの政治信条が気に食わないから」と「あの理論は誤りである。なぜなら、あいつは〇〇人であるから」の二つの言説が全く同じように見えるのである。そして、後者の言説が明らかにおかしいのと同じように前者の言説も----そして前者の言説を言う人はおそらく後者の言説がおかしいと認めるだろう---おかしいと思うのである。しかし、厳密には両者は違うのだろうけれども、その違いはまだよくわからない。

 

 

僕から以上