疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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経済学における数学の適応可能性について。ある経済学者の文章を読んで私が思ったこと。

どうも僕です。

これまで私は気になった雑誌のページなどをコピーして現物を保存していました。しかし、ペーパーレスに目覚めてしまいましたので、最近それらの文章をデータ化しようとしています。要はそれらの文章をパソコンに打っています。

今日はその中の1つの雑誌である『エコノミスト 2013年 12月 23日』に書かれていたものを書評してみます。それは『Part 2 経済学 何を考えてきたか』にある小島寛之の『ミクロ経済学が目指すもの ワンショットの経済現象の分析』pp.62-66です。

 

 

 

 この記事は前半はミクロ経済学の理論を述べている。私が引っかかったのはそこではなく最後に小島が議論した「経済学には数学的整合性が必要か」というところである。

以後節ごとに解説というか引用をする。

 


Section 取引の分析を超え取引の仕組みを作ってしまう(p.65)

 

ミクロ経済学は数学的なモデルを作り分析をする。それは「机上の空論」ではないのかとの批判がある。

ミクロ経済学は、ご覧のように、数学的な整合性を重んじる。これは、実証データとの整合性を重んじるマクロ経済学と決定的に異なる点である。この特性に関して、ミクロ経済学を「机上の空論」とか、「形而上学」とか批判する声をよく耳にする。p.65

 

このような批判からミクロ経済学を検証する「実験経済学」や「行動経済学」などの新しい経済学が生まれた。

 

Section  「数学偏重」という批判に反論する(p.65)


小島は筆者の個人的な反論という前置きがありながらも、以下で反論を試みている。

 

ミクロ経済学は、確かに数学的整合性や数学的操作性に過度に執着している。それは、現実のデータや目に見える実体的経済活動をないがしろにしているように見える。この事実から、ミクロ経済学は無用の長物だと片付けられてしまっても仕方ないだろうか。
(改行)筆者は全くそう思わない。むしろ、数学的なエレガンスを放棄して、「現実はそう見える」という見方をその通りに記述することは、真相の発見から遠ざかる行為だとさえ思えるのだ。p.65

 

この主張をするために、小島は物理学の歴史(天文学の歴史)を例にしている。小島が言いたいことはこういうことである。かつてプトレマイオスは天動説を基づき惑星の運動を、2つの円運動の組み合わせによって説明する理論を作った。その2つの円とは1つは地球を中心とした大きな円ともう1つはその大円上に中心を持ち、大円上を周回する小円である。

このモデルで、惑星運動はこれでとりあえず完全に説明できるようになった。p.65

 

Section 見えた姿が真実とは限らない(p.65)

この説明でわかる通り、プトレマイオスは「現実はそう見える」という姿に強引につじつまを合わせようと、数学的なエレガンスを捨て、二つの円の合成という醜いモデルを提示したのである。

pp.65-66

 

そして近代になりコペルニクスが登場して地動説となり、天文学は新しい時代へとなった。それが可能となったのは小島いわく「現実はそう見える」姿に固執しなかったからだという。

彼(コペルニクス)は、「現実はそう見える」姿につじつまを合わせることを捨て、視点を地球上から解放し、太陽を中心とする見方を採用した。p.66

 

さらにコペルニクス以後ケプラーが続き、ケプラーは三法則を発見した。その1つは楕円の法則であるが、それはかつてアポロニウスがまったく純粋に数学的に研究されていたものが、数千年の時を超えてここで適応できた。

紀元前の数学者アポロニウスが純粋に数学的素材として研究した楕円が、現実の惑星の軌道に発見されるなどと、いったい誰が想像しただろうか。
p.66

最後にニュートンケプラーの法則を単純な数式で記述することができることを示した。

 そして、この三つの法則をすべて導出できる単純な微分方程式を発見したのが、17世紀のニュートンであった。p.66

 

その後、この単純な方程式は物理学を爆発的に発展させた。

 

このような歴史からの教訓は目に見えるものに囚われず、数学的エレガンスを追究したことが世界の真実を発見した、ということである。

コペルニクスケプラーニュートンという学者たちを貫いているのは、「この宇宙は単純な数学法則が支配しているに違いない」という強い信念だったと考えられる。彼らは、「そう見える」という姿に惑わされず、あくまで数学的エレガンスを追究したのである。それが結局は、宇宙の真相を解き明かし、「見えていない現象」までも暴き出すこととなった。p.66

 

現在のミクロ経済学はまだまだ物理学のようには成功していないが、それでも数学的整合性や数学的エレガンスを経済学が追究することは無意味ではないという。いつか経済世界の真実というものが、物理学の歴史と同じように、数学的に解き明かされるだろうと、小島は考えている。

現在のミクロ経済学は、正直言って、現実の説明能力は著しく乏しいと言わざるを得ない。それは、「そう見える」という姿を数式で無理にこじつけることではなく、あくまで「経済行動の合理性」を基礎とした数学的エレガンスにこだわっているからであろう。
(改行)しかし、これは無意味なこだわりではない。ミクロ経済学の数学的エレガンスへのこだわりは、コペルニクスケプラーニュートンの信念が宇宙の真実を解き明かしたように、いつか経済現象の真相を突き止め、本質的な分析の枠組みにたどり着く原動力になるに違いない。少なくとも、筆者はそういう強い期待を抱いている。p.66

 

数学万能主義者の一例が発見できて嬉しい

さて、この記事の突っ込みどころはたくさんある。とんだ三流学者のよく言えば夢、普通に言って妄想が、ここには書かれているからである。経済学者が物理学を無意識的にも憧れているということがわかったし、物理学を1つのモデルケースとして考えていることもわかった(ただしそれはあくまでも三流の経済学者であり、世界一流の経済学者がそうなのかはまだ検証していないからわからない)。

 

そもそもの天文学歴史認識もかなり怪しいと思う。本当にプトレマイオスの理論が「醜いモデル」かどうかもわからないし、コペルニクスケプラーニュートンすべてが「『この宇宙は単純な数学法則が支配しているに違いない』という強い信念」を持っていたかどうかも、わからない。もっとも、ここで言う「わからない」とは評者がわからないということであるが。確かにケプラーはそのような信念があったことは知っているが、ケプラー以外は知らない。そもそも私はまだプトレマイオスの著作を読んだことがないし、だから「醜いモデル」などと判断はできない。後世の人から見たら変と思われるかもしれないが、そのような見方はよくない。小島はもちろんプトレマイオスアルマゲストを読んだ上で判断しているよね? まぁ、いいや。とりあえず山本義隆の著作を読もう。そこは。

 

仮に一万歩譲って小島のような歴史認識を認めたとしよう。つまりしかし、だとしてもだ。それでもまだ問題はある。1つは科学認識の問題である。つまり、科学とは何か、科学の目的とは何かという問題である。詰まるところ実在論反実在論かと言う問題である。もう1つはさきほどの問題と少し関わるが経済認識の問題である。つまり、経済とは何か、経済の目的とは何かという問題である。

 

 

科学の問題 実在論反実在論 

1つめの科学認識の問題とは、そもそも科学とはなんなのかと言うことである。もちろん理論は現象を説明できなければならない。問題はそれで事足れりなのか、それともそうではないのかということである。もし事足れりと考えるならば、つまり科学理論とは現象をできるだけたくさん説明してそれに基づいて予測ができればそれでいいと考えるならば、それは道具主義であり、反実在論の立場である。対して、もし理論は現象の説明以外の何ものか--それを実在と呼ぶが--をも説明したり世界の構造なども記述しなければならないと考えるならば、それは本質主義であり、実在論の立場である。

 

プトレマイオスからの科学の伝統は前者つまり道具主義である。いわゆる「現象を救う」(σῴζειν τὰ φαινόμενα)である。対して、ガリレオケプラーなどの近代科学は後者つまり本質主義である*1

 

このように科学に対する考え方の違いで天文学の歴史の評価も変わってくるだろう。もし、反実在論者ならばプトレマイオスを擁護しがちであろうし、実在論者ならばその逆であろう。おそらく小島はいかなる科学に対して---少なくとも経済学と自然科学に対して---実在論の立場であろう。したがって、かつての天文学を批判していたのだろう。もっとも、評者も少なくとも自然科学に対しては実在論の立場であるが、プトレマイオスの著作も解説書も一冊も読んだことのないから、知らず、したがって、かつての天文学に対してそのような短絡的な結論はしない。

 

 経済学の問題 経済とは経世済民であり、つまりは国民を助けることが目的であり、理論が世界を記述しているかどうかは目的ではない

小島は「数学偏重」の経済学の批判に対して反論を試みている。だが、これは一言こう言えばそれを再反論できる。「で? だから何?」と言えばいい。

 

仮に小島の天文学の歴史が正しかったとして、だからなんだと言うのか。 「宇宙は単純な数学法則が支配しているに違いない」という強い信念のもと新しい天文学つまりは地動説が生まれ、最終的には綺麗な数式として記述ができたからといって、どうしてそれがそのまま経済学にも同様なことが起きると思われるのか。一切小島の主張の根拠にはなっていない。

 

そもそも物理現象と経済現象は根本的に違う。存在の様式が違う。対象が違う。そのような違いがあるにもかかわらず、どうして経済現象が数式で、美しい数学モデルで記述できると考えられるのか。ましてや数学モデルで経済現象の本質が部分的にせよ捉えられると思うのか。このような疑問が依然としてあるにもかかわらずそれを考えることもせず、代わりに理論の美しさや数学的整合性を考えるのはどういうことなのか。それよりもたとえ「醜いモデル」だったとしても、経済現象を捉えて予測して漸進的にせよ社会をよりよくしようとしたほうがいいに決まっている。なぜなら、経済学の目的は国民を助けることであり理論の美しさや数学的整合性は目的ではないからである。

一体経済現象を救わずして経済学は何を救うというのだろうか。 

 

 まとめと雑記

要はまともに経済学における---ひいては科学における---数学の適応可能性について考えていないのである。もっとも別にこの短い記事にそのようなことを書くこと自体は無理なことであるし場違いなことであるけれども。しかし、いずれにせよ「経済現象は単純な数学法則が支配しているに違いない」というのはこの人の信念に過ぎない。それはただ自分がそれを信じているということでしか根拠づけできない。

 

ちなみに話は少しそれるが、なぜ私が数学の適応可能性に口うるさいかと言うと、これが私の「疑念」だからである。つまり、このブログのタイトル「疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。」での「疑念」とは「科学における数学の不合理なまでの有効性」または「科学における数学の適応可能性」であるからである。それは大きく分けて(1): どうして特に物理学では異様なまでに数学がうまく適応できるかという問題と、(2): それでは自然科学以外の科学にも数学は適応可能なのか、それとも何かしら限界があるのかという問題がある。だから、少なからず(2)のほうを考えていると、経済学はどうなのだろうという素朴な疑問が生まれる。

もっとも最近はその「疑念」を考えていない。その「疑念」についてあまり興味がわかなくなってきている。というのもこの「疑念」は数学と科学の関係の問いであるが、最近はより数学的・論理的な問題へと関心がシフトしているからである。

 

この人のこれらの発言を手に入れることによって、一介の数学万能主義者の根拠のない信念とそれを確定するための物理学というモデルケースの使用というものがわかったから、それだけで大満足である。

 

この人はたくさんの数学エッセイをお書きになっているのだから、そのような哲学的議論には参加せずに、そちらで自分の才能を発揮したほうがいいと思います。

 

 

僕から以上

*1:ポパーのConjectures and Refutationsの第3章にThree views concerning human knowledgeという箇所がある。そこを参照している。だがポパーはここに書かれている2つだけではなく3つめも提示している。だが、それは部分的にはガリレオ本質主義も保存されるから、実質的には3番目の見方は修正ガリレオ主義である。要はこの文脈では世界観は2つで十分である。P.114: This 'third view' is not very startling or even surprising, I think. It preserves the Galilean doctrine that the scientist aims at a true description of the world, or of some of its aspects, and at a true explanation of observable facts. ちなみにこの本は翻訳されている。私は以前持っていたがやむなく捨てた。再び買うのもお金がかかるため今はアップロードされている英語版を参照した。