疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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数学とは何か。S. ボホナーの『科学史における数学』から考える。

こんにちは、どうも僕です。

ブログの更新はしばらくぶりです。

本当は圏論の記事を書くべきでしたけれども、最近は多様体を勉強していて圏論をまったくしていません。ですので、たぶんもうしばらくは圏論の記事は書けそうにもありません。代わりに、多様体やシンプレクティック幾何学のことを書ければいいなと思っています。

 

さて、今回は私の人生間違いなくを変えた本を紹介したいと思います。それはサロモン・ボホナーという数学者が書いた『科学史における数学』(The Role of Mathematics in the Rise of Science)という本です。

 

科学史における数学

科学史における数学

 

 

 

本書はのちに詳しく記事で連載したいと思いますが、今回は本書のエッセンス----つまり数学とは記号を用いた「抽象の抽象」を扱うものであるということ----のみを簡単に紹介して、その批判----つまり数学は一方的で不可逆的な抽象の抽象の道を辿るだけではなく、おうおうにして「表現定理」という形で具象に戻ってくることがあるということ----を書きたいと思います。

 

ちなみに、本書はほとんどの文献には引用されていない隠れた名著です。日本語訳もあるのでもし数学と科学について興味があれば一度読んでみてください。かなり癖のある文章で読みにくいと思われますが、これでも訳の村田先生はよく頑張ったと、原文も参照した私から言わせれば、そう思います。

 

 それでは前置きはこの辺にしといて本題へうつりましょう。

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 数学は抽象的であるがそれは他の学問とはどのように異なるのか

ボホナーはその著『科学史における数学』の第一章 第11節「数学の抽象性」*1において数学特有の抽象性を議論している。良いにせよ悪いにせよ数学はしばしば抽象的だと言われるがそれは他のものとはどのように違うのかと問うて議論している。

抽象思考とは

「抽象的に考える」とはつまり或る特定の条件を取捨選択し、それに集中させることである。ところで、理性的な思考は、多かれ少なかれ選択的かつ集中的にならざるをえず、したがって、いかなる理性的な思考はある意味で抽象的な思考である(p.36,[48])。料理の本は抽象的であり、電話帳の使用案内の色ページもそうである。「学問的な教科書なら、どんな題目のどんな水準の本でも、おざなりの意味以上に抽象的でなければならず、さもなければそれは無用の長物であろう」*2

 

数学特有の抽象性とは概念の厳密性か

それでは、数学独特の抽象性は、多くの難しい概念をその定義や範囲を細かいところまで注意深く設定しているところと思われるかもしれない。つまり、数学の抽象性の特徴とは、概念の厳密性であると思われるかもしれない。だが、そうではない。というのも、同じこと、つまり概念の厳密性は、法律学にもぴったりと当てはまるからである*3。他にも、法廷の弁論術にも当てはまるだろう。さらに、現代の文芸評論は非常に厳しく概念化されているし、社会学でも同様に素人では理解不能というぐらいまで概念化が進んでいるように思われる*4。つまり、厳密な概念化は数学の専売特許ではないということである。他の学問も同程度に厳密に概念化されているのである。

 

数学の抽象性の特徴はその記号化か

それでは、数学オリジナルな抽象性とは、数学概念が記号と結び合わされていることであろうか。数学の概念は外から見てもわかるようにシンボル化されている*5。つまり、数学の概念は記号によって明示化されたものであり、それこそが数学の抽象の本質であるということである。だが、これも反例がある。それは化学記号である。化学記号は数学の記号とは一線を画す。

原子価や原子の結合手に関する化学理論には、高度に規約化された記号主義(シンボリズム)が浸透していて、これらの理論はそれと切り離して考えられない。しかしこれは数学化とつながり合ったような記号主義ではない。実際、量子化学についての全く理論的な研究の中では、この「典型的」な化学の記号主義は普通の化学での正規の教程ほど強調されるわけではないのである。

p.37, [49]

 

さらに、ユークリッドアルキメデスといった古代数学には記号を全然使っていない。もっとも、古代ギリシア数学にも記号は大いに使われていた。ギリシア人は記号で物を考えることに慣れていた。というのも、たとえば、アルファベットを数詞用の「記号」として使っていた*6。さらに、アリストテレスは『分析論前書』にて、論理学の諸事項(主語や述語など)を文字で記号化させて議論している*7

要は古代ギリシアから記号による考察はおこなわれていたのである。 

 

代数学の本質-----抽象の抽象 

それでは、古代ギリシアが「数や命題や三段論法」の代わりに文字を使用した程度の抽象化こそが、現代数学の本質なのだろうか。そうではない。古代数学の抽象化と現代数学(1600年以降)のそれは、非常に著しい違いがある。それは、古代ギリシアではせいぜい一回の抽象しかおこなうことができなかったが、対して現代数学では一度抽象化したものをさらに抽象化するという抽象の抽象が----記号の操作によって----おこなわれているのである。

ギリシャ人は非常に賢明であったけれども、直接の実在とか「外的」現実をイデア化する以上の抽象化は、彼らにはできなかったのである。あるいは、まだそれのできるところまでいっていなかったと言ってもよい。つまり彼らの抽象化は、まずまず一段階的抽象化を超えるものではなく、自明で直接の意味で「直観的」と呼ばれるものの範囲から出ることはなかった。したがってまた抽象化から第二の抽象化を行うこと、別の言い方をすれば、知性を介して得られる可能性や潜在性から抽象することとか、当時はまだ萌芽の段階にあって機能の上で生産力を伴っていなかったような高次の抽象をすることとかは、結局ギリシャ人の手では行われなかったのである。

p.38, [51]

たとえば、一階の抽象化とは、質点の概念である。質点はゼロでない直径を観念的にゼロに縮めた質量の持ったものである。そのような質点の概念はアルキメデスは多かれ少なかれ知っていた*8

 

抽象の抽象の例

代数学の本質である抽象の抽象(または可能性からの抽象(abstractions from possibility)p.41, [54])の例をいくつか示そう。

 

例1  複素数

一つ目は複素数である*9有理数を一つの現実と捉えよう。すると有理数の極限として定義される実数は現実からの抽象、または実在からの第一階の抽象とみなされてよい。そう考えるなら、{a,\, b\in \mathbb{R}}を実数として、複素数 {a + b i}という概念は可能性からのからの1つの抽象である。算術の演算つまり加減乗除をある適当な方法でこのような対象物にまで拡張することが可能であるためにこのようなことが言えるのである。

この複素数は、実数から一階の抽象であるので、有理数から二階の抽象であると考えることができる。さらに、四元数ならば実数から二階の抽象と考えることができるし、八元数ならば実数から三階の抽象と考えることができる。

 

例2  二階の微分

続いての例は二階の微分である*10。位置(の関数) {y = f(x)}が与えられたとする。それの一階の抽象化とは、速度である。実は、アルキメデスは関数や座標系の考えをもっていなかったが、『螺旋について』である関数の導関数つまり

{\frac{dy}{dx} = \frac{df}{dx}}                           {(*)}

を作るすぐ近くのところまで来ていた(p.129, [168])。これは、速度の概念を抽象的に捉えたことを意味する。だが、加速度の概念に進むためには二次導関数というものを作らなければならない。つまり二次導関数を得るためには、まず

(1)  微分係数 {(*)}を各点 {x}において作り、次に

(2)  その結果たる数学的対象を、{x}に関する新しい関数とみなし、(つまり、{\frac{df}{dx}: \mathbb{R}\to \mathbb{R}})、また次に

(3)  この新しい関数に再び「抽象的に」微分という手続きを適応して

はじめて二次導関数を概念化することができるのである。

これはつまり加速度の概念は「抽象の抽象の産物」であるということである。

まさに、アルキメデスさえも加速度の概念は彼岸にあったのである。なぜなら、ギリシア合理精神は結局、抽象の抽象をすることをしなかった(できないと考えていたからから)からである*11

ギリシャ的思想が最後まで、眼に見える程度にまで突っ込めずに終わったのは、論理的 - 存在論的(logico-ontological)抽象作用をこのように繰り返すということだったのである。

 

例3  集合論

最後の例は最も簡単(わかりやすい)かもしれない*12カントール集合論を創設した。集合 {S}自体の考えは、素朴であり誰にでも分かる代物である。だが、カントールは集合の間に「かつ」や「または」などの演算を導入して、さらに、「集合の集合」なるものを考えた。これもまた抽象の抽象といえよう。集合自体は一階の抽象作用で得たものであり、集合の集合は二階の抽象作用で得たものである。現代数学を定義する上では集合の集合はなくてはならないものである*13

 

 

ボホナーへの批判   数学は抽象化の一途をたどるだけではない

さて、以上がボホナーの「数学とは何か」の本質的な部分である。つまり、数学とは記号を用いながら抽象の抽象(可能性からの抽象)を行うものである、と。

代数学が抽象の一途をたどっているというのは、一見するともっともなことに見える。だが、この見方は一面的である。というのも、数学の概念は往々にして抽象から具象へと戻るのである------表現定理として。この観点がボホナーにはなかった。実際、本書には表現定理の記載はない(たぶん)。

たとえば、群の定義は極めて抽象的であるが、実は群はある対称群の部分群と同型である(ケーリーの表現定理)*14。対称群は極めて具体的なものである。このような表現定理は特に代数学において顕著に現れる。そしておそらくこのように抽象が具象へと戻ってくることは他の学問にはない数学の顕著な特徴であるように思われる。

 

したがって、 我々がボホナーの説に従いながらも新たに数学とは何かを定義するならば次のようになる。数学とは、記号を用いて概念を何段階も抽象を行いながらも時に具体に戻ってくるそのような有機的体系である、と。

 

 

僕から以上

*1:pp.36-43, [48]-[58]。なお[ ]の中にある数字は原著である。以後もそのようにする。

*2:p.36, [48]

*3:p.36,[48]

*4:pp.36-37, [48-49]

*5:p.37, [49]

*6:たとえば、{\alpha = 1,\,\beta = 2,\, \pi = 80}などとしてアルファベットを数詞として使用していた。実際、ユークリッドの『原論』の命題の番号づけは、アルファベットで書かれている。上の写真を参照。

*7:pp.37-38, [49]-[50]

*8:p.39, [51]

*9:p.41, [54]-[55]

*10:pp.128-129, [167]-[168]

*11:ボホナーはそのことをアリストテレスの「運動の運動はなく、生成の生成はなく、あるいは一般に、変化の変化は存在しない」(225b15-16)の言葉から主張しているp.129, [168]。

*12:pp.129-130, [168]-[169]

*13:e.g. 位相空間の定義、測度の定義など。

*14:他にも、任意のブール代数があるfield of setsの部分ブール代数と同型であることを示しているストーンの表現定理や、ケーリーの表現定理の圏論ヴァージョンである米田の補題{C^*}代数におけるGNS表現などがある。