こんにちは。今回は書評で、巷で話題のアドラー心理学についていまさらながらですが、書いてみたいと思います。
と言っても、本の内容そのものの感想というよりも本の印象と私のアドラーの印象とを書きたいと思います。
感想(建前)
本書は哲人と青年との会話で繰り広げられるアドラー心理学の入門書である。これまであまり知られていなかったアドラーという心理学者による理論を解説しているものである。それを世間に広く知らしめた岸見と古賀の功績を否定することはできない。
「課題(タスク)の分離」や「目的論」や「ライフスタイル」や「すべての悩みは対人関係の悩みである」や「横の関係」などのアドラー心理学のキーワードやそれらの関係もうまく解説されていると思われる。
アドラー心理学により自分が今すぐに変わり、世知辛い世の中を生き抜く考えが本書には散らばっているかと思われる。
感想(本音)
本書のいわゆる対話形式について
この本はどちらかと言うと哲学書ではなく宗教書、もっと言えばアドラー心理教のプロパガンダ本と考えた方がいい。どういうことか。まず、本書の書き方を述べよう。次にその内容である。
彼ら(岸見・古賀)が本書を説法形式---評者は決して本書を対話形式とは言いたくない---で書いているのは、1つにはアドラーが議論をし合って理論を作ったというのがあるが(p.43)*1、もう1つにはプラトンの対話篇を意識しているからだと言っている(pp.312-313)*2。岸見にプラトンのことを言うのはまさに釈迦に説法だが、この形式は一見するとプラトンのそれと同じに見えるが実は似て非なるものである。全く違う。
プラトンの対話は、形式的にはソクラテスを含めて登場人物の誰も真理を知らない体で対話が行われるのである*3。対話は真理発見のための方法なのである。どうしてその方法で行うかのか、その理由は次である。つまり弁論などの方法では賛成者と反対者だけでなく審判員もいなくてはならないが、誰も真理を知らないから審判員がおらず、その方法は使えないということで代わりにそれぞれが対話をしながら同意して進めるという方法を使うのである。
「そこでそのやり方だが」とぼく[引用者注: ソクラテス]は言った、「われわれのほうでも彼と張り合って、弁論に弁論を対立させ、こんどは正義がどれだけの利点をもっているかを数え上げ、そのうえで彼がもう一度それに応酬し、さらにわれわれが別の弁論でそれに答える、というやり方も可能だろう。ただその場合は、両方の側がそれぞれの弁論で述べたてた利点を勘定し比較考量することが必要になってきて、そうなるとまた、あいだに立って判定をくだす裁判官たちが必要になるだろう。けれども、ちょうどさっきしていたように、お互いに相手の言うことに同意を与え合いながら考察をすすめるようにすれば、われわれは自分たちだけで、裁判官と弁論人を同時に兼ねることができるだろう。」
348A-B『国家』(上)p.87
一般的には哲学のルールでは、ある人が提起した問題や理論や考えを他の人が批判してああでもない、こうでもないと侃侃諤諤するものである。
しかし本書ではそのような形ではない。対話を装っているが実際やっていることは真理を知っているという哲人(てつと)が青年に説教していることにすぎない。「私(哲人)の考えが真理である。それに従いなさい。批判は受けつけない。」とばかりである。
青年 わたしにとっては交換も更新も同じです! 先生は肝心なところで逃げ回っておられる。いいですか、生まれながらの不幸は存在する。まずはそこを認めてください。
哲人 認めません。
青年 なぜです!?
『嫌われる勇気』p.48*4
このような自分の考えが正しく一切合切他人の意見を聞かないという態度は一般的には宗教のルールである。これが評者が本書を宗教本であると言った理由の一つである。
そもそも名前からして「哲人」というのはどうかと思う。これは明らかに「何でも知っている者」が「何も知らない」青年に対して教えているという構図を与えている。こんなものは哲学でも何でもない。
もっとも、本書がアドラー心理学の入門書であるはずなので、このようなアドラー心理学という真理を悟っている人による無知の者への説法というスタイルでも別に構わない。さらに本書のいわゆる対話形式があくまでもアドラー心理学の入門のための方便としてなら別に構わない。
だがもし彼らが自分たちの対話がプラトンのそれと同じであると認識しているのならば、私は断固として認めない。それとこれは似て非なるものであるからである*5。
本書の内容について
続いては本書の内容についてである。
青年は哲人の主張に対して反論を加えて応戦しているが、結局は哲人に懐柔されて、最後にはアドラー信者になるというオチである。
青年は哲人のいいようにされるただのカモに過ぎない。最後のクライマックスはこれだ。
青年 わたしは変わったのか、そしてそこから見える世界は変わっているのか、わたしにはまだわかりません。けれど、ひとつだけ確信を持っていえます! 「いま、ここ」は強烈に輝いていると! そうですとも、明日のことなどなにも見えないくらいに、強く!
哲人 わたしはあなたが水を呑んでくれたのだと、信じます。さあ、先を歩く若い友人よ、ともに歩こうではありませんか。
青年 ......わたしも先生を信じます。歩きましょう、ともに! そして、長い間どうもありがとうございました。
哲人 こちらこそ、どうもありがとう。
青年 それからまた、きっとまた、このお部屋を訪ねさせてください! そう、かけがえのない友人のひとりとして。もはや論破などとは申しませんから!
『嫌われる勇気』p. 304
なんだ、このコントは。いままでの反論は何だったんだよ。
まだ互いの価値観や哲学をぶつけて最後には物別れになるといったほうがまだ潔い。だがこれはそういった弁論や論争の類ですらなかった。もちろん「対話」でもない。最も適切な言葉はカウンセリングだろう。
本書は悩みを抱えた一人の若者がアドラー教に入信するまでの洗脳物語とでも言うべきだろう。
もっとも、このアドラー心理学というのは、ポパーが言うように、反論する可能性がそもそもないと言ったほうがいいのかもしれない。だから、青年はいくら反論を試みようとも、哲人にいともたやすくまるめこまれるのである。だが、反証可能性のないそれは科学ではなくただの神話である。それはどういうことか。次に示そう。
アドラーを知ったきっかけ: ポパーの著作から
さて、評者はアドラーブーム以前から、アドラーの名前だけは聞いたことがあった。もちろんその心理学の全貌は、本書を読むまでは知らなかったが。それでは、どこからアドラーという名前を知ったかというと、それはポパーの著作からである。もっとも否定的な意味でそこでは取り上げられていたので、評者にしてみればフロイトも含めてアドラーなんてそんな古い時代遅れの神話を今更持ち上げても、何の意味もないと思ったのである。実は今もその考えはそれほど変わっていない。それではポパーの著作にはフロイトの理論、アドラーの理論そしてマルクスの理論----3つの理論と呼ぼう----がどのように書かれているのか。
推測と反駁
ポパーの『推測と反駁』の第1章 科学----推測と反駁にはポパー自身の思想遍歴が綴られている。そしてそこには3つの理論について書かれてある。
推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: カール・R.ポパー,藤本隆志・石垣壽郎・森博
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ポパーは彼が青年時代から一貫して次のような問題を考え続けていた。つまり、「どのようなときに理論は科学的と呼ばれる地位を獲得できるのか」とか「理論の科学的性格ないし身分を判定する基準はあるか」である*6。彼は「科学と似非科学との区別をはっきりさせたい」とも思っていた*7。
ポパーが若かりし頃、オーストリア帝国が瓦解してそれにともない新たな革新的理論が次々と台頭してきた。それがアインシュタインの相対性理論とフロイトの精神分析とアドラーの個人心理学とマルクスの歴史理論(3つの理論)である(p.58)。そんななか1919年のエディントンによる水星色の観察はアインシュタインの一般相対性理論の最初の確証であり、ポパーをはじめ思想界に衝撃が走った。またポパーはアドラーと個人的に知り合うようになった(p.59)。
1919年の夏ポパーは3つの理論に対して不満を感じるようになった。それらの理論は何か間違っていると思われて、特にニュートン力学や相対性理論とどう違うのかと考えていた(p.59)。問題は真理性や精確性や計測可能性の如何ではなかった。物理は計算が可能で心理は計算が不可能だからなどというような問題ではなかった。ポパーはもっと別のところに問題があるように思われた(p.59)。
そしてポパーはその違いをテスト可能性の如何や反証可能性の如何であると考えるようになった。つまり、3つの理論は「見かけ上の説明能力があり、いたるところにそれらの理論を支持する検証例が見出される」のである*8。
マルクス主義者が新聞をひらけば、どのページにも自己の歴史解釈を支持するような証拠が必ずといっていいほど見つかる。しかも、それは報道記事だけでなく、その新聞の階級的偏向をあらわに示しているような記事の書きかたや、とくにその新聞がのべていていない事柄についても勿論、そうなのであった。また、フロイト的な精神分析家は、自分の理論がいつも「臨床例」によって検証されている点を強調した。『推測と反駁』p.60, 強調は原文
そして、個人的な親交があったアドラーについてはある個人的な経験がポパーにはあった。
一九一九年のあるとき、わたくしは格別アドラー的とも思われないような一事例をかれに報告したことがある。しかし、かれは、その小児患者を見たことさえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事もなげに分析してみせたのである。わたくしは、少しばかりショックを感じて、どうしてそれほど確信がもてるのか、とかれに尋ねると、かれは「こういった例は千回も経験しているからだよ」と答えたので、わたくしはとうとう次のように言わざるを得なくなったのであった。「でもこの新しい事例で、先生の経験は千一回めになるんだと思いますが」と。
『推測と反駁』pp.60-61
結局、フロイトであろうとアドラーであろうと説明できない人間行動はないとポパーには思われた*9。
3つの理論はいずれもどのような事例であれ自分の理論に解釈ができたから、信奉者はそのことが自分が信じるその理論の正しさの証拠だと思われていた。だが、まさにそのことこそつまり反駁が不可能であることが、3つの理論とアインシュタインの相対性理論やニュートン力学やひいては科学との違いであったのだ。なぜなら、アインシュタインの相対性理論では、常に予測のリスクすなわち反駁の可能性がつきものであるからである。
そして、まさにこの事実----これらの理論がうまくあてはまり、常に確認されるという事実----こそ、その信奉者の眼には当の理論を支持する最強の証拠を提供するものだったのである。しかし、そうした見かけ上の強さが実は弱点なのだということが、わたくしには徐々にわかりはじめていた。
『推測と反駁』pp.61-62
まとめると、アドラーに対してこのようなネガティブな印象を持っていた評者にとってみれば、 これまで避けていたアドラー心理学という一つの「神話」を本書で知れたので、それはそれでよかったのかなというのが感想である。本書の内容もアドラー心理学---正確には岸見アドラー学*10---も、もう忘れた。
おわりに
アドラー心理学を説明する際に、しばしばフロイトの理論が比較された。たとえば、フロイトの理論ではトラウマという原因論に対してアドラー心理学では目的論である、といった具合にである。原因論では「自分を変えること」ができないと思いがちに対して、目的論では「自分を変えること」がてきると思いがちである。これまで性格が原因だと思いそれは変わらないからと諦めていた人が、見方が変わることによって、再び変わろうとする「勇気」を持ち結果的にいいことが起こるかもしれない。
フロイトもアドラーも所詮はどちらも科学ではない、神話に過ぎない。つまりどちらの理論であろうとも、説明に関しては何ら優劣がない。どちらもすべてを説明できる。それならばそれらの優劣はどのようにつくのか。一つのアイディアがある。つまりそれぞれの理論を信じることによるその効果を比べて、優劣をつけるというものである。具体例を示しながら議論することは、今の私にはまだできない。考察不足である。
中島義道はどこかの著作で次のようなことを書いていたと思う。プラトンをはじめ古代の哲学者たちは「善(真理)」と「幸福」はセットになると考えていた。つまり「真理」と「幸福」が矛盾したり相対立することはないと考えられていた*11。しかし、カントはそれらを峻別して「真理」と「幸福」が相容れない可能性を考慮したと。「真理」と「幸福」が矛盾するときどうするのかと中島は問いていた(そして彼は「真理」を選ぶとのことであった)。岸見はギリシア哲学が専門だから、もしかしたらそのことつまり「真理」と「幸福」の対立のことはあまり考えていないのかそれともナイーブに考えているのかもしれない。だが「真理」は実は冷酷で「幸福」とは相容れないかもしれない、その可能性は十分あり得る。ではこのときわれわれはどうすべきなのだろうか。
もしも「真理」によって人が救われず、代わりに「虚偽」で救われるならば、その人が「真理」にしがみつく理由があるのだろうか。つまりもしも人が幸福になるのならば、嘘でも物語でも神話でも何でもいいのではないか、私は自問自答する。まだ明確な考えはない。
冷酷な現実や事実と温かみのある虚構や嘘が目の前にあったとき、そのうちのどちらかを選択する自由をわれわれは持っているのかもしれない。
僕から以上
*1:評者は電子版(iBooks)で読んだ。したがって本書『嫌われる勇気』の引用のページはすべて電子版のものである。
*2:「ソクラテスと対話をする青年は、ソクラテスのいうことに最初から「なるほど」と納得することはありません。徹底的に反駁します。本書が哲人と青年の対話という形を取っているのは、ソクラテス以来の哲学の伝統を踏まえているわけです。」「あとがき 岸見一郎」より
*3:もっともプラトンの対話形式にはプラトンの考える真理(イデア論など)に自然と導くように誘導尋問的な傾向があるのは確かである。だが、形式的には登場人物の誰もが真理を知っておらず、それらを探究するというものである。
*4:この後に哲人は理由を述べてまた議論が行われるが正直評者にはその認めないという理由が理解できないし、根拠が薄弱に感じる。
*5:
ちなみに私は対話という言葉を使うことに躊躇する。安易に対話という言葉を使うべきではないと思う。プラトンの対話を生涯で一度でも再現することができるのかすらわからない。憧れである。私はせいぜい議論(discuss, debate)しかできないのではないかと悟っている。そのぐらいプラトンの対話は偉大な方法なのである。
*6:p.57。どちらも強調は原文
*7:p.58。強調は原文。
*8:p.60: 強調は原文
*9:ポパーは言う。「この点[引用者注:考えうるあらゆる事例がフロイトの理論であろうとアドラーのそれであろうと解釈できるという点]は、二つのきわめて異なった人間行動の例で示すことができるだろう。すなわち、子供を溺死させようとして水中へ投げこむ男の行動と、子供を救おうとして自分の生命を犠牲にする男の行動である。この二つの事例のいずれもが、フロイト理論、アドラー理論のいずれをとっても同じくらい容易に解釈することができるのである。フロイトによれば、最初の男は(たとえばエディプス・コンプレックスの一部を構成している)抑圧に苦しんでいるのであり、第二の男はその昇華に成功していることになる。アドラーによれば、最初の男は劣等感情に支配され、そのため犯罪さえもあえて犯しうることを自ら証明する必要にせまられているのであり、第二の男も劣等感はもっているが、かれの必要としているのは、あえて子供を救助できることを自ら証明してみせることである、ということになる。わたくしには、この双方の理論によって解釈できないような人間行動など考えることができなかった。」『推測と反駁』p.61
*10:「しかし、そこである事実に気がつきます。わたしが求めていたのは、単なる「アドラー心理学」ではなく、岸見一郎というひとりの哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、いわば「岸見アドラー学」だったのだ、と。」『嫌われる勇気』あとがき 古賀よりpp.307-308
*11:「善く生きる」と「幸福である」はギリシャ語でそれぞれ「エウ・ゼーン」と「エウダイモーン」であるらしい。『国家』(上)p.482より。