疑念は探究の動機であり、探究の唯一の目的は信念の確定である。

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数学の哲学の4つの諸問題: 数学の哲学超入門

概要:

数学の哲学には4つの諸問題があると思われる。それは(1) 数学の存在性 (2) 数学の真理性 (3) 数学の有効性 (4) 数学の社会性である。これらの問題はそれぞれ重要であり、さらにこれらの問題は相互に関係している。数学の哲学は単純に言えばこれらの問題を考えるための学問と言えるだろう。

 

 はじめに

数学の哲学は数学について考える学問である。もちろん個々人のそれぞれの関心ごとによってそれぞれ問いは異なってくる。であるが、数学の哲学の問題についての最大公約数的なものはおそらく次の4つとなるだろう。

  1. 数学の存在性
  2. 数学の真理性
  3. 数学の有効性
  4. 数学の社会性

 

以下ではこれらの問題について少し説明を加える。なお、ここでまとめられていることはおそらくすでに誰かが書いたことかもしれない。しかし、それはどうでもいいことである。

 

 

1. 数学の哲学の諸問題

 

1.1 数学の存在性

数学の存在性は数学の存在論で議論される。哲学の専門用語で言えば存在論とは「オントロジー」である。それは次のことである。つまり、数学には様々な概念や定理がある。それらは「存在」しているのかそれとも「存在」していないのか。存在しているならばそれらは一体どのような意味で存在しているのか。例えば、「素数は存在する」と言うときの素数の「存在」は「電子が存在する」と言うときの電子の「存在」と同じ意味なのか、それとも異なる意味なのか。また「素数は無限に存在する」という定理はどのような意味で「存在」するのか。現実に存在するものは時間的に依存する。つまり「存在する」という現在形にとどまらず「存在した」という過去形や「存在するだろう」という未来形などに言い表されることがある。例えば、「ナポレオンは存在した。」などである。では「1」や「三角形」やはたまた「ピュタゴラスの定理」などの数学的存在物は時間依存であるのだろうか。それともそうではないのか。「台風は存在する。」や「進化は存在する。」などの現象の存在と比較した場合、存在の意味はどう違うのか。

さらに、数学の概念を「ペガサス」のような空想的概念と比較した場合、これらは同じ意味で存在している(または存在しない)のだろうか。それとも違った意味で存在している(または存在しない)のだろうか。

仮に人類が滅亡したとする。そうだとしても「電子」などの自然の存在物は存在するであろう。要は自然の存在物は人間の存在とは独立に存在されていると思われる。「電子は人類が誕生する前から人類が滅亡した後でも存在している」と考えられる。だから我々は科学的功績を「発見された」と言うのである。他方で「ペガサス」などの空想的存在物はこれと逆である*1。神話的功績は人類によって「発明された」と言うのである。

それではここで数学はどうなのかということである。「1」などの数学の諸概念は人間の存在と独立に存在するのか、それとも人間の存在やその活動と非独立に存在するのか。言い換えれば、数学は「発見」なのか「発明」なのか。

このようなことを考えるのが数学の存在論である。

 

1.2 数学の真理性

数学の真理性は数学の真理論で扱われる。数学の概念や定理において真であることや偽であることはどのような意味なのかということがここでは議論される。例えば、自然科学の諸概念や諸法則の正しさ(真偽)は時代とともに変わっていく。それでは数学の諸概念や諸定理の真偽は自然科学と同じように時間的に変化するのか、それともそうではなく不変なのか。さらに社会科学や政治学ともなればたとえ同時代だとしても人により真偽が変わることもある。同様に数学の知識-----諸概念や諸定理をまとめてそのように言おう-----の真偽も人により変わるものなのだろうか。それとも不変なのか。
常識的な回答は「数学の知識の真偽はいつでも誰であろうともどこでも不変である。数学の命題が正しいか誤りかは二つに一つである。たとえ未解決問題だったとしても。」というものであろう。ではもしそうならば、なぜ数学の知識の真偽は変わらないのか。本当にいかなる数学的命題は真か偽かのいずれかなのだろうか。

このようなことが数学の真理論で議論される。 

 

1.3 数学の有効性

数学はなぜ自然現象をはじめとしたさまざまなことに応用することができるのか。 そのようなことを問うことができる。

 

1.4 数学の社会性

数学はなぜ学ばれるのか。数学が社会や文化や文明などにいかに影響を与えたのか。またはその逆。
数学者は哲学が必要なのか。反対に哲学者は数学が必要なのか。一般には全ての人は数学が必要なのか。必要・不必要のその理由は何か。数学者の社会的責任とは何かというのもここの議論の対象である。

数学の社会性についての疑問はおそらく一般の人に最も馴染があり興味のあるものであろう。

 

2. 諸問題の関係性

2.1 諸問題の関係性

これら4つの諸問題を別々に紹介した。これらの諸問題のうちの一つを研究することでさえとても難しい。だがさらにこれらの諸問題は当然関連がある。したがって、それらの関係も含めて議論することは極めて難しいことであるし、まさにそれが数学の哲学の究極の目的であるとも言える。

例えば、もし(1)数学の知識は空想的知識と同じように「存在しない」と主張されるとする。すると、当然存在しないものの真偽とは何かとなってくる(2)。さらに厄介なことは数学の知識は存在しないにも関わらず現実の自然科学で驚くべき適応がなされているという事実である(3)。これを説明されなければならない。もし数学的知識が存在しないというならばなぜそれを我々は学ばなくてはならないのかという疑問も生じるだろう。そうすればその疑問に答えなければならなくなる(4)。

このようにそれぞれの問題は多かれ少なかれ関連があるように思われる。

2.2 これまでの哲学者の見解 

これらの疑問を念頭に置きながら我々は哲学者の文献を読む。つまり数学の哲学の4つの諸問題に対してこれまでの哲学者がどのように考えてきたのかを我々は学ぶのである。

私はまだ全然哲学者の論文を読んでいないし、ましてや彼らの考えをまとめることもできない。ただ、それらの質問に対するプラトンの回答がだいたい次のようなものであることだけは言える。

プラトンの回答

(1) 数学の概念はイデアの世界に存在する。そこは非時間的非空間的である。永久に消滅しない。

(2) 数学の概念がイデアの世界に存在するので真偽も変わらず、その真偽は常に正しい。

(3) あまり言及されていないかもしれない。むしろ数学が天文学などに適応できることは常識と思っていたのかもしれない。だが、プラトンの想起説つまり我々はかつてイデアで学んでいたことを思い出しているに過ぎないという考えに基づくならば、数学がいろいろなところに適応できるのは当然である*2

(4) 哲人王の育成のために数学は必要である。数学の学習によってイデアの世界を観る訓練をする。

 

 

このような感じで最低、アリストテレスデカルトライプニッツ、カント、フレーゲラッセル、ブラウアー、ヒルベルトの考えをまとめなければいけないし、20世紀以降の新しい数学哲学もまとめなければならない。

 

 

最後に

私の最大の関心ごとは(3)科学における数学の適応可能性である。それを探究した結果一つの数学の哲学ができればいいなとは思う。もちろんもし本当にそれを探究したいのならばの話であるが。私にはまだその覚悟がない。適当に有名な哲学者を研究する平凡な「哲学者学者」にはなれるかもしれないし、一数学者となり「私的数学観」を語ることはできるかもしれない。が、命を賭して「数学とは何か」を探究して自らの数学の哲学を構築してみせるというような決意がないのである。

全くの自信がない。

想像しただけで目の前が絶望となるのである。

 

 

僕から以上 

 

 

 

 

*1:本来ならばここからもう少し文章を加筆して説明しなければならない。この文章と次の文章「神話的...」の間にギャップがある。しかしうまく書けない。

*2:想起説はまだ詳しく知らない。